第47話



 あこが両親の所に帰って、気付けば数日が経過していた。


 寝起きにあの子の声を聞くことはなくなって、ベッドから起きれば寂しく独り。


 ねこくんが時折、私の元に欠伸をしながら餌をねだりにくるくらいだ。


 そんなだから、あこがいなくなったら、また不安にさいなまれるようになるのかなって想ってた。


 前、そういうことがあったしね、実際、不安自体は全くないわけじゃない。


 あこはちゃんとやってけてるかな、とか。両親からすごい反対されて、一緒に暮らすことが出来なくなるかもな、とか。またどこかで発作が起こって酷いことになってないといいけど、とか。


 あげだせば、不安の種なんてきりがない。でも、どうしてか、前ほど心配でもないのも確かだった。


 なんていうんだろう、今のあこならある程度、大丈夫かなとか、そんな感じに近いかな。折れたり気付いたりはするだろうけど、それでもどうにか、ちょっとずつでも進めるような、そんな気がなんとなくしてたから。


 ふとした瞬間に窓の外の、少し暖かくなってきた日差しを眺めながら、どこか遠くの君の姿を瞼の裏に描いてみる。


 大丈夫かな、泣いてないかな、笑えてるかな、怒ってないかな、ちゃんと元気でいるかな。


 ふぅっと煙を外に吐きながら、少しだけボーっとする。


 そうやって、10分ばかり味わってから、ゆっくりと電子タバコの火を消して、私は止まっていた作業に取り掛かった。


 さあ、私は私でやることやらないと。


 あこが返ってくる前に引っ越しの準備をしなくちゃいけない。


 引っ越し先は、麻井が都合のいいところを見繕ってくれるらしいから、私はそれまでに詰めれるものを段ボールに詰め込んで、要らないものは捨てていく。


 麻井曰く『通常の引っ越し業者は……できれば考慮しない方向でお願いします。あの部屋は既にあこさんの匂いが染みついていますので、常人が発作を起こさずにいられる場所ではありませんから。ああ、処分はこちらでつつがなく、あとヘルプもどうやら入るようですよ? 足りなければうちで人を工面しますので、お声がけを』


 とのことだった、知らぬ間に私の部屋は人が立ち入れない禁域と化していたらしい。いやはや、ゴミとかも色々気にしないといけないのかなーとか考えつつ、とりあえずわかる限りのものを段ボールに詰め込んでいく。って言っても、大半が別に持っていく必要のない物だから、ゴミ袋に放り込まれていくだけなんだけど。


 しかし、こうしてみると、意外と、本当の意味で必要な物っていうのは少ないもんだね。


 最低限の服。本。通帳、カード類。おおよその家財は向こうで新しく揃えるとして……、棚とかタンスとかいるのかな……? いや、引っ越し業者に頼めないことも考えたら、そこも買い直した方が早いかも。


 なんて考えていたら、もっていくものは段ボール二つ程度で済んでしまった。いくら何でも少なすぎやしないかと想ったけれど、消耗品とか古い服とか壊れた日用品も捨てていくから、マジでこれくらいしか持っていくものがない。強いて言えば、あこが来てから買い足した土鍋とかは持っていこうか。


 1LDKの部屋の中にあったもので、私が本当に必要なのは段ボール二つ分とちょっとってわけだ。身軽でいいけど、どれだけ無駄なものに囲まれていたのやらと、苦笑いもこみあげてくる。


 捨てるべきものは、まとめておいたら、後で回収してもらえるらしいので、私は自分の生活の残骸をせっせと回収していく。っていっても、あこが来てからは、ちゃんと片づけてしてもらっていたから、あんまりそれもないんだけれど。


 そんなこんなで、引っ越し準備という名のゴミ捨て大会を開催していたらインターホンが不意になった。


 なんだなんだとインターホンを覗くと、いつも仕事場で見慣れた顔が一つ。


 「あれ、主任じゃないですか、どうしたんですか?」


 ドアを開けて出迎えると私の眼線の下で、主任は少し不機嫌そうに唇をピンと結ぶと、渋々と言った感じで口を開いた。


 「あの子に、あなたの引っ越しの手伝いしてって頼まれ……命令されたの。だから、そう、仕方なく……」


 そんな返答に私は思わず苦笑い。いやはや、ご苦労様です。まあ、ありがたい限りではあるけれど。ていうか、また部屋に入って発作とか起こさないといいけれど。


 ただそんな心配は杞憂だったらしく、主任の手にはごつい黒のマスクが握られていた。どこかで見たことあると思ったら、麻井がつけてたやつだね。


 「あと、これつけて作業するようにって。朝ポストに入ってた……」


 あらら、えらく準備万端だ。多分、手配は麻井の奴がしたんだろうね。


 ま、さすがに引っ越し作業なんて独りでやるには骨が折れるから、ありがたく手伝ってもらおうか。


 私は軽く笑みを浮かべると、どうぞどうぞと部屋の中に主任を招き入れた。ねこくんがどことなく、なんだなんだといった目で見てくるけれど。なんでか主任の方がちょっとビビってた。


 そんな様子が面白くて、私は思わずくすっと横目で見ながら笑みを浮かべる。


 さあ、さあ、楽しい引っ越し作業の始まりですよー。



 ※



 「包丁とか食器類はいるんですか?」


 「要らないですね、ボロボロなんで。新しく買います」


 「フライパン」


 「こげついて仕方ないんで、ポイで」


 「やかん」


 「使わなさ過ぎて錆びたんで、ポイで」


 「………………食器棚は?」


 「捨てまーす」


 「捨てるの多くないです……?」


 「はは、確かに。というか、大体捨てて大丈夫ですよ」


 私のそんな言葉に、主任は細い眼をより細めて、私をじっと見ていたけれど、やがて諦めたように手に持っていたものを次々にゴミ袋に突っ込んでいった。雑に見えて、ちゃんと分別はしっかりしてるとこに性格出てるけど。



 そんなこんなで一時間ほど、作業を黙々と進めていた。


 すると、一息ついているころに、主任が突然、わって声を上げた。


 「……どうしました? いきなり声上げて」

 

 「あっぶなあ、暑くて、マスク外しかけました……」


 その返答に、私は思わずああ、と納得する。私としては、何の問題もない空間だけれど、主任にとっては強烈な媚薬で充満している場所みたいなもんだからねえ。


 「一応、もし発作起こしても、きつけ薬的なのありますよ」


 いつだったかに麻井の奴から貰った薬がなんだかんだ使わずに残ってる。今も確か、鞄の中にあったはずだ。


 「……仮に対処できても、あんな醜態、二度と晒したくありません」


 主任はどこか青ざめたような表情で、ぶるぶると首を横に振っていた。まあ、確かにいろんな意味でセンシティブであることに違いない。


 私は軽く笑いながら、こたつ布団を引っぺがして丸めていく。よくよく考えれば、このこたつにもあこの匂いがびっしりついているんだよねえ、迂闊なところには置いておけない。


 「……一瞬だけ、マスク外しただけですけど、ここ、あの子の甘い匂いが充満してましたよ……。言い方悪いですけど、なんで住良木さんは発作起こしてないんですか……?」


 そう言って、主任はどこか呆れたような視線で私の方を横目で見てくる。


 私はその疑問にはっはっはと笑いを返した。


 私がどうして発作を起こしてないか、なんて。


 何をそんなわかりきったことを。




 「





 「――――え?」




 「あ、その土鍋は置いといてください、主任ちゃん」




 「あ、はい。いや、へ、え―――?」





「あ、あこにはまだ教えてないんで、内緒でお願いしますね、これ」





 「え、えーーーーーーー?!?!??!!????」







 ※



 伝えてないことが私にはまだ残ってる。


 っていうか、多分、私は誰かに伝えてないことばかりなのだろう。


 身体のこと、痛みのこと、生活のこと、ストレスのこと、性関係のこと、両親のこと。


 いつからか、伝えること、解りあうことを諦めていた借金がたっぷり溜まっているわけだ。その痛みが身体にずっと表れていたような気がしなくもない。


 自分がどれだけ辛いのか。


 自分がどれだけみっともないか。


 自分がどれだけ苦しいか。


 自分が―――どれだけ幸せか。


 伝え慣れていない口はうまく開かない、言葉はうまく出てこない。いつどういう風に伝えればいいのかもわからない。


 大人ぶってきたけれど、いざ話そうとすると顔が熱くなるから、もしかして、年甲斐もなく恥ずかしいのかもしんない。


 だって改めて向き合って伝えることは、怖くて、不安で、うまくできる想像はさっぱりで、うまくいかなかった記憶は山のように押し寄せてくる。


 ただ、それでも、伝えることを止めようかなんて想わずにいられるのは。


 間違いなくあこのおかげもあるけれど。


 私自身も少しずつ変わろうとしてるからかもしれない。


 ずっと、刺激や快感で誤魔化し続けていた、私の感覚が、私の身体が、私の心が。


 最近ようやく少し冴えてきて、行くべき先を、ぼんやりと遠く向こうで指し示してる気がしてるからかもしれない。


 いつか、いつかの頃。


 私の背中を確かに押そうとしていた誰かの言葉が。


 決して多くはなかったけど、確かにあった祈りの言葉が。


 まだ背中を押してくれているみたいだから。


 この、大きいような、小さいような、私の秘密を。


 帰ってきたあの子にちゃんと伝えよう。


 そんなことを、夜闇に煙を燻らせながら、考えた。


 「あこ、早く帰ってこないかなあ」


 なあ、とねこくんが返事をしたので、私もなおと返事した。


 それから、一人と一匹で、もう春も近い夜空に向けて、なあなあなおなお鳴いていた。


 そういえば、あこが隣にいないけど、身体があんまり痛くないとふと気づく。


 あこの匂いが部屋に残っているからだろうか。甘い匂いと煙草の煙が混じった香りをかぎながら、ふふっと私は笑ってた。


 ああ、ほんと、早く帰ってこないかなぁ。




 ※



 「さらっと爆弾発言された私の心情って考慮されてます?」


 「うーん、……してない!」


 「このぅぬぅわぅわにゅぁああっっーーーー!!!」


 主任ちゃんの複雑な感情の咆哮を聞きながら、私はねこくんと一緒になあなあ笑っていたのでしたとさ。

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