エピローグ Ⅰ
凪
※
夜も更けたころ、ふと思い立って窓を開けた。
外から部屋の中に流れてくる風は冷たいけど、どことなく昼間の温かさが残っていて。
もうすっかり木々が色めき立つ匂いを感じながら、私はそっと口元の電子タバコに火をつけた。
じんわりと熱のこもった煙が唇を暖めて、肺を満たしていく。
BGMは時折聞こえる、ねこくんの鳴き声だけ。
なんとなく部屋の電気を切って、夜の街を眺めてその風を感じながら、煙を窓の外へと漂わせていた。
こうしていると、少し前のことを想いだす。
夜中に、独り煙草を吸っていたら、あこが起き出してそれから少しばかりお喋りをしていたそんな記憶。
あの時もこうやって暗闇の中、月明かりと街灯の光だけを頼りに、窓の外を眺めていたっけ。
大人にとってたった数か月前のその時間は、大して懐かしくもないはずなのに。
なんでか今は、随分と遠い昔のように感じられた。あの時から変わったものが多いからかもしれない。身体も心持ちも、あことの関係も。
ゆっくりと息を吐くたびに身体から力を抜けるのを感じながら、私はそっと部屋の中を振り返った。
ドアを開く音がした。
とんとんと、小さく、でもどことなく、嬉しさを隠せないような、そんな足音が暗い部屋の中、響いてた。
そして暗闇の中、少女は、あどけなく朗らかに、でもどことなく妖しく大人びた表情で、矛盾した二つの影を重ねながら笑って見せた。
「おかえり、あこ」
「ただいま、なぎさん」
春が来て、あこが、またこの場所に帰ってきた。
※
私の身体はずっと『発作』状態にある。
多分、あこと出会ったあの瞬間から、ずっと。
そんな仮説が私の中で確固たるものになったのは、あこが私に意図的に毒を含ませたあの夜のこと。
その時私は初めて明確に『発作』を体験して、だからこそ、その感覚が初めてじゃないことを思い知る。
その記憶は、あこと出会った初めての夜。
その日、私は仕事の疲れから、随分と酒を飲んでいて酔っぱらいながら帰ってた。
今と違って、身体には痛みばかり染みついて、視界は眠気に滲んで、足は疲労でおぼつかなくて、まるで都会の薄汚れたヘドロの川の中をただ独り歩いているみたい。
痛くて、辛くて、苦しくて、それを忘れるために刺激を注ぎ続けて、でも終いには、それにすら疲れてしまって。
何もなく歩いて居た、そんな時。
路地裏からふと、甘い香りがした。
甘く蕩けた果実のような、咲き誇る花のような、いやそれよりもっと濃い何かをドロドロに煮詰めた蜜のような。甘く、酸っぱく、私の鈍った脳をただ叩き起こすように、煽情的な、そんな。
甘い、本当に甘い、匂いがしていた。
何だろうとぼんやりと考えながら、誘われるままに路地裏に足を進めた先で。
私は、君と出会ったんだ。
運命、なんて偶発的で、ロマンチックなものじゃない。
あこの身体の性質という、どこまでも作為的に、どこまでも必然の果てに、私は君に誘われた。
暴走しなかったのは多分、運が良かったから。
本来は脳を蕩けさせる甘い香りも、私の壊れた感覚じゃあちゃんと受け取れなかったんだろう。
でも発作自体が起こっていなかったわけではなくて、壊れた蛇口から漏れ出る水みたいに、あらぬ形で私の中に息づいていた。
そんな、私の『発作』はどこかおかしなものになってしまった。
本当は、甘い匂いは、ずっと感じてた。
錯覚か幻覚かって想えるくらい、これまで味わったこともないような蠱惑の香り。
ただ、壊れた身体と削れた心はそこから受け取る、快楽や欲情を、多分ほんの少ししか受け取れなくて。
曖昧な好意と、微かな欲望だけを身体に灯して、疼くように私の中で本来は致命の毒たる『発作』は淡く滲んでしまったんだと想う。
だって、そうじゃなきゃ、いくら私でも初対面の名も知らない女の子を、襲われてたからって家に囲わないでしょ。
そんで、そっからずっと面倒もみないでしょ、だって、私、そんなに優しい人間じゃないんだから。
「ほんとに、そうですかぁ?」
……今にして思えば、あこのことはずっと不自然に好きだった。
どうしてあんなに感情移入したのか、どうしてあんなに必死に守ろうとしていたのか、会って一週間にも満たなかったのに、私はあこのことを何に代えても守るつもりでいたんだから。
もちろん、傷ついてた自分と重ねてみてたとこはあったと想う。私よりいろんなことに喜んで悲しむから、私がなくした感情をそこに見出してたのもあると想う。
でも、だからこそ今にして思うと、私の好きはあこの香りに造られた好きだったような気がしてくる。
だって、よくよく考えたら、もう誰かを好きになるなんて、できっこないって想ってた私なんだから、その時点でどっかおかしかったんだよね。普通、ちょっとまえに捕まえた女の子ネタにして、自慰なんてしないでしょ。
それにさ、正直さ、ちょっと怖かった。
あこの手で初めてちゃんと『発作』を起こした時。
ちょっとだけ知ってる感覚だったから。知らない感覚じゃなかったから。あ、この胸の高鳴りを、この頭の奥に感じるような暖かさを、私はほんとは知ってるんだ、知ってたんだって気づいちゃって。
そっから実は、ずっと……言うのがちょっと怖かった。
私、あこのこと、好きだってそう想ってたけど。
ほんとはそれも造られたたものだったのかもって想えちゃって。
あこはちゃんと好きになってくれたのに、私は本当の意味ではちゃんと好きになれてないんじゃないかって。ただあこの香りに好きって気持ちを造ってもらっただけなんじゃないかなって。
そう想うとね、怖かった。怖かったな。
麻井の奴から、貰った気付け薬さ、結局、まだ一回も試してないんだよね。
もし、あれを飲んじゃった時。
私の中からあこのことが好きな気持ちが消えちゃったら。
また誰も好きにもなれない私に戻っちゃったら、そう想ったら。
ちょっとだけ怖くなったんだ。
あこはきっと『発作』を起こさない、私だから好きになってくれたのに。
そんな私が、本当は最初の最初から香りに惑わされたなんて知ったらさ。
どう想うんだろって想うと。
ちょっと怖かった。
怖かったんだ。
…………。
……………………。
………………………………。
……………………ふー………………。
帰って早々ごめんね。
これが……私がしてた最後の隠しごと。
ほんとのことはさ、実際よくわかんないんだよね。
麻井の奴に協力してもらって、私の身体が本当に『発作』を起こしてるのかちゃんと調べてもらったんだけれど。
私の身体、本当にホルモンバランスとかぐちゃぐちゃになってたみたいで、強い『発作』を起こしてる時とそうじゃない時で、変化がほとんどないんだって。
あこの香りが入ることで、むしろホルモンバランスが調整されてるんじゃないかって、言われたくらいで………………。
まあ、でも、いつまでもビビってても仕方ないなとも想ってるんだ。
だってあこはずっと頑張ってるわけだし。
過去の心の傷と向き合って、新しい環境に踏み出して、勇気がいることを一歩一歩続けてる。
そんな見たら、私もって想うじゃん。もういい大人だからさ、そう簡単には変われないけど。
それでもちょっとずつ変われたらなって想ったから。
だからさ、あこ。
ちょっと確かめたいことがあるんだ。
今日、私『発作』から覚めようと想ってるんだ。
もらった薬飲んでさ、それでもあこへの想いが自分の中にちゃんとあるか確かめたくて。
もし……。
もし………………、覚めた時にあこのこと、ちゃんと好きでいられなくても。
頑張るから、その時は、今度こそちゃんとほんとの意味であこのこと好きになれるように、頑張るから。
あこの香りに造ってもらった好きじゃなくて。
ちゃんと私の意思で好きになれるように、頑張るから。
だからちょっと見ててくれる?
私がちゃんとあこのこと、好きでいられるまで。
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