第13話

 そうして、麻井とかいう胡散臭い男の元から帰ってきて、一週間ばかりの時間が過ぎた。


 それから起きたことと言えば、職場で主任が軽く声をかけてきたことと、あことの生活から冬の終わりっていうリミットがなくなったくらいかな。


 特に大して、私達の関係に変化はない。


 私は相変わらず、自分の都合で身寄りのない女の子をかこっているだけの女で。あこは特殊な事情を持っているけど、まあ普通に泣いて笑う女の子だ。


 あこの身体がどうとか、両親との関係がどうとか、学校とかがどうとか。


 悩むべきことはたくさんあるけれど、ま、今別に急いでやるべきことでもない。


 つまりまあ、私のやることは変わらず。帰り際にその日思いついた献立を買って帰って、いつも通りあこに変な顔をされながら、なんやかんやと作ってもらうそれだけだ。


 私達の関係は変わらない。大きな変化もない、その予定もない。心の傷はどうせそんなすぐに癒えたりはしないのだ。じっくり時間をかけて、安心を感じた記憶が傷を塗りつぶしてくれるのを待つしかない。


 なんとなく、そう想い込んでいた。想っていたんだ。



 ※



 「なーぎさん、一緒にお風呂入りません?」


 吸いこみ過ぎたタバコの煙が喉の奥に絡んで、思いっきりむせこんだ。咄嗟に紙でもないのに、フィルターも噛み千切りそうになったし。おかげで膝で転がっていたねこくんが、なんだなんだと私の元から離れていった。


 「うぇっほ、えと、なに、お風呂?」


 そう言って、あこの顔を見ると、少しどことなく気まずそうな顔をして私を見ている。


 「えへへ、えと、やっぱ嫌ですよね……すいません」


 その顔を見て、私も思わず気まずくなってしまう。あことしても、多少突飛のないことを言っているのは分かっているみたいだ。……それをわかって尚、口にしたのね。


 わからない、わからないけど、あこなりに何かあったのだろうか。


 「嫌ってわけじゃないけど、唐突だったからびっくりしただけだよ」


 あこは性的なことを嫌悪してる節がある。身体の問題もあって、きっと嫌な思いをたくさんしてきたからだろう。なにせ、私と出会った時点で路地裏に連れ込まれていたような子だ。そんな想像は悲しいくらい容易かった。


 そんで、今は特に問題はないけど、咄嗟に私も発作が出ないとは限らない。そんなことになったら、傷つくのは誰よりあこ自身だ。だから、そういうリスクは避けてくると想っていたのだけど。


 「え、えへへ、えとちょっと何と言いますか。口ではうまく説明できないんですけど……。そのなんか一緒に入りたいなーって……」


 あこはそう言って、まだどこか気まずそうに頬を掻くだけだ。私はしばらくその顔を見て、少し迷う。もしものことを考えるのなら、断るのが当然だけど。そんなことは、あこもわかって言いだしている。


 わかって言いだしてるなら、何か意味があるんだろう。それがたとえ、言葉にできないことだとしても。



 ……ま、意味があるなら、別にいいか。



 「わかった、いいよ」


 「………………え? ……いいんですか?」


 「あはは、うん、あらいっこでもする?」


 けらけら笑ってそう言った後、セクハラだなこれと反省する。あこの顔が真っ赤になっていて、その時点でやってしまったのがよくわかる。


 「……あー、ごめん今の冗談だから」


 これだから、おばさんはダメだなあと我ながら嫌になる。あこの顔もなんだかハッとした感じで、紅潮したままどこか困ったような笑いを浮かべていた。


 「えへへ、ですよね。びっくりしました」


 「いやあ、おばさんはこういうとこがいかんわ」


 「おばさんって程の年でもないでしょ、なぎさん」


 「いやあ、おばさんだよ。なんか最近、老いを明確に感じるもん。たまにふらついたりするし」


 「それは本当に老いですか……? 身体が終わってるせいでは?」


 耳がいたーいと思わず耳を塞ぎながら、あこと二人でけらけらと笑いながら風呂場へ向かっていった。



 麻井に貰った気付け薬は、確か、鞄の中にあったよねと記憶の隅で思い出しながら。




 ※




 人前で肌を晒すのが嫌いだった。


 嘘、嫌いなんて言葉じゃ足りない。怖いし、嫌だし、そうするかもって考えるだけで身体中が冷たくなって息が荒れて、苦しくなる。


 胸元や足はもちろん、首元や手首が見えてるだけで、怖くなる。路上生活をしてた頃は、私の身体より二回りは大きいコートを脱ぐことすらできなかった。指を晒したくないから、手袋もずっと外さなかったし。顔や髪を見られたくないから、フードもずっと目深にかぶり続けてた。


 なぎさんの目の前でも、丈の長い服や首元が隠れる服を選んで着てた。なぎさん、私よりだいぶ身長が高いから、貸してくれた服はとても丁度良かった。なぎさん細いから、そこだけはちょっと苦労したけど。


 お風呂から出るときは、服をきちんと着込んでから脱衣所から出てた。初めてなぎさんの部屋でコートを脱いだ時は、本当に怖くて怖くて仕方がなかったっけ。


 晒したくない、見てほしくない、見た人が私を襲ってくるのが本当に怖くて仕方ない。


 ずっとそう想ってた。


 なのに、どうしてこんなことをしようと想ったのだろう。


 「なぎさん、一つ、お願い事していいですか?」


 脱衣所についてから、なぎさんの顔も見ないまま、そういった。


 「うん、いいけど、何してほしいの?」


 なぎさんの声は落ち着いている。大丈夫、発作が起きたりはしてないはず。


 「服……、脱がしてもらって……いいですか」


 吐いた息が、少し荒れるのを感じてる。顔に血が上るのも、指先が少し震えるのも。心臓が細かく跳ねて、身体がざわざわとするのも感じてる。


 身体が怖がって仕方ないのに、同時に熱くなって仕方がない。


 眼を閉じながら、手をそっと前に伸ばした。


 なぎさんの顔は見えない、どんな表情をしてるんだろう。わからないけど。


 「ん、了解」


 なぎさんのいつも通りの落ち着いた声が返ってくる。そんな、いつも通りのそれだけのことが、少しだけ私の呼吸を緩やかにしてくれる。


 「手、あげて」


 言われるがまま、そっと万歳をするみたいに両手をゆっくりと上に上げた。服の端になぎさんの手が触れて、私の素肌にすこしだけ指の感触を感じてる。それがすこしこそばゆくて、冷たくて、身体の奥がざわざわとした。


 服をそっと上に引っ張られて、なぎさんから借りていたタートルネックがゆっくりと引き上げられていく。あごに少しだけ服が引っかかったけど、軽く首を振って、するっと私の腕から服が抜けた。冬の脱衣所はまだそれだけで肌寒いけど、血が巡って身体が少し熱いからあんまり気にならなかった。


 「大丈夫? あこ、見られるの嫌じゃなかったっけ?」


 なぎさんがそう言ってくれる。私はその声に目を閉じたまま、首を横に振った。そうやって声をかけてくれるだけで、きっと大丈夫だから。


 「大丈夫、です。あの……下着もお願い……します」


 「ん……」


 短い返事の後、なぎさんの指が私の簡素な下着にそっとかかった。ワイヤーも入ってない、布地のそれは服と同じように、私の上げた腕からそっと抜けた。


 肌が外気に、晒されてる。今、私の背中にはなぎさんがいる。前は見られていないけど、背中は全て、なぎさんに見られるがまま晒されている。……きっと、これが他の人だったら、私はこのまま襲われている。


 「なぎさん……えと、その毒は……大丈夫ですか? 変な気分になったりしていませんか?」


 そうやって訪ねることにも自信がない、本当に大丈夫かすらよく、わからない。


 「ん、まあ、綺麗だとは想うけど。別に変な気は起きたりしてないよ。ま、仮にそうなって、あこがビンタでもかましてくれたら、正気に戻るよきっと」


 そうやって答えるあなたの声はいつも通りで、それに少し安心する。広げていた腕でそっと見えていない胸を隠して、向こうをむいたまま私は頷いた。


 「あの……じゃあ、下もお願いします」 


 そうして、スウェットと、それとショーツも合わせて私の足からするっと抜けて落ちていった。なぎさんは、早すぎもせず、ゆっくりでもなく、すごく自然に私の足から私を守っていたものをそっと脱がしていった。


 ……今、背中だけとはいえ、私の身体の全てが晒されてしまっている。前も胸も手で隠しているけれど、当たり前だけど、そんなので全部隠せてるわけじゃない。


 そうしている間に、怖くて、不安で、何度も何度も、なぎさんの様子を確認してしまっていた。こんなのめんどくさい子だってわかってる。こうやって、訪ねて確かめてばっかりなのが、鬱陶しいのもわかってる。でも聞かずにはいれなくて、怖くてでも、その度に帰ってくるなぎさんの落ち着いた声のおかげで、それ以上パニックにならずには済んでいた。


 「あの……なぎさん、本当に……」


 「だいじょーぶ、なぎさんを信じなさい」


 「うう…………はい……」


 言われるまま少し息を落ち着けて、それから意を決してなぎさんの方を振り向いた。手で隠していた、胸と前を少しずらして、私の全てがなぎさんの前に晒される。


 今、私の本当に生まれたままの全部が、ずっと隠してきたいたそのままの私が晒される。多分、本当に子どもの頃以来、誰にも晒されたことのない、私が今、なぎさんにだけ見られてる。


 胸が熱くなる、ドキドキする。


 息が荒れる、緊張して不安になる。


 身体が震える、嫌なことをいっぱい想い出して怖くなる。


 頭が怖いこと辛いことでいっぱいになって、私なんかダメだって。


 全部私のせいだって、そうやって心が全部、無くなってしまいそうになる。


 視られてる。怖い。


 襲われたくない。いやだ。


 犯さないで。やめて。


 ああ。


 ああ―――。


 ああ――――――――。




 「ほい、だいじょーぶ」


 


 「なぎさん―――」





 「ほれ、落ち着いて。息吸って、息はきな。誰もひどいことしないから。あこは怖いのに、頑張ったな。大丈夫、大丈夫」




 「なぎさん―――」




 裸のまま、生まれた姿のまま、誰にも晒したことのない姿のまま。



 なぎさんに抱きしめられて泣いていた。



 傷の痛みを覚えたまま、その痛みに零れる涙に震えたまま。



 あなたの腕の中、泣いていた。



 怖くて、辛くて、悲しくて、でもあなたの手の中で大丈夫、大丈夫って言い聞かせた。私自身にそうやって言い聞かせていた。



 一度ついた心の傷は簡単には消えなくて。



 身体が一度覚えてしまった苦しさを、ただなぎさんの声がその記憶を塗りつぶしてくれるのを待つしかないから。



 私は、私自身にそっと教え込むしかないみたいだから。


 

 生まれた姿のまま、赤ん坊みたいな姿で泣いていた。



 あなたの腕の温かさを身体全部で感じながら。

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