第14話

 「本当はすごくたくさんのことが怖いんです」


 湯舟の中、あなたの開いた足の間で体育座りをするような格好でそう言葉にした。


 ぴちょん、ぴちょんと天井から垂れた水滴が時々風呂場に落ちてくる。


 「裸を見られるのも、誰かの近くで着替えるのも、手を掴まれたりするのも」


 なぎさんの眼を見たまま、ふるえる膝を抱いて、ぽつぽつとそう口を開く。


 こうやって口にしている間も、身体は震えるし、強張って上手く動かない。


 あなたはそんな私の言葉を、穏やかな表情でただ黙って聞いていた。


 「毒のせいで、たくさん襲われたから、その時のことを何度も何度も想い出しちゃって、それのせいでたくさんのことが怖く、なりました」


 数えきれないほど、想い返してきたんだから。そして想い返すたび、毒が零れないよう泣きそうになるのを必死にこらえてきたけれど。


 涙が零れる、零れるそれはお湯に溶けて滲んでく。これすら、本来なぎさん以外には毒だから、誰一人にだって告げることもできなかったから。


 同じような話をたくさんした。


 きっと、たくさんの人に聞いて欲しかった話を、抑え込んでなかったことにしてきた話を、取り戻すみたいに、何度も何度も。繰り返した。


 怖かった話。苦しかった話。その時の記憶。その記憶を想い返すこと。それを何度も何度も同じように繰り返すこと。


 心に傷を負うことはきっと何よりも苦しいけれど、それを想い返すのはその何倍も苦しかったこと。一夜のトラウマのせいで、何か月もうまく眠れなかったことがいくつもあった。


 口に出したらありきたりなことを言っているような気もしてくる。


 こんなんで何か月も苦しんでるなんて、バカバカしいじゃないかって気もしてくる。なんでこんなに心が弱いんだろって、そんな自分に泣いてしまった夜も、きっと数えきれないほどあったから。


 苦しくて、辛くて、悲しくて、痛くて、情けなくて、死にたくなった日もいっぱいあった。


 そんな日のことを、なぎさんの話した。


 いっぱい、いっぱい、いっぱい話しをした。


 今まで誰にだって言えなかった言葉を。誰にだって見せられなかった涙も一緒に。


 零した涙と鼻水でお風呂のお湯が、ぐちゃぐちゃになっちゃうんじゃないかってくらい。


 いっぱい、いっぱい話をした。


 本当はこんなに苦しかったの。辛かったの。しんどかったの。


 誰だってわかってくれないし。誰だって聞いてもくれなかったけど。


 私は、私はこんなに苦しくて、それをわかってほしかったの。


 本当に全部伝えられたのかはよくわかんない。


 全然話足りない気もするし、逆に話しすぎちゃったような気もしてる。


 わからないまま、ただあやふやなまま喋るだけ喋って。


 そろそろお湯も冷えちゃうから身体を洗おうって時になったとき。


 丁度、ずっとお風呂に入って泣いて、頭がすっかり、のぼせていたのかもしれないけど。


 なんでかふと思い立って、一つわがままを言ってみた。



 「その、身体、洗って欲しいです…………」



 そう言ったら、なぎさんは少し困ったような顔をしていた。


 ああ、やっぱり困らせちゃったかな。こんなこと言っても困るだけだよね、もう子どもじゃないんだし。


 ただ結局あなたは、困ったような顔のまま、仕方ないなあって言って洗ってくれた。


 前とか大事なとこは、ちゃんと自分で洗ってねって言われたから、わかってますって答えたけど。なんでかちょっと残念で。


 二人で湯船を上がってから、私は小さな子どもみたいに、あなたに身体の隅々まで洗ってもらった。なぎさんの家には身体を拭くスポンジとかはなかったから、なぎさんの手、そのままで。



 私はただ、自分の身体に触れらるのを待っていた。



 肩から始まって、肘を通って指の先。


 

 背中の上からその下へ。腰を少し触られた時はどきっとして。



 お腹は少しだけ触られた時、なんだか出しちゃいけない声が出そうになっていて。



 そこから腰を通って太ももへ、膝の裏もそっと通り過ぎて足先へ。



 足の指の間を一つ一つ丁寧に。


 

 頭が熱でぼーっするなか、泣きつかれてぼんやりとした意識の中、なぎさんの手が私の身体を撫で続けるその感覚だけを感じてて。


 

 その間、私は自分の胸と、大事なところに少しだけ泡がついた手で撫でていた。



 一通り、全体に泡がついて、流す段になってから、なぎさんはふと首を洗っていないことを想い出して。



 優しくそっと、私の首を両手で撫でた。



 きっと、その行為に他意はなくて。



 何気ない、ものだったんだとそう想う。



 でも、それは私にとっては。



 誰かにという行為そのもので。



 何度も。



 何度も、何度も。



 何度も、何度も、何度も。



 私を襲おうとしてきた誰かが狙ってきたその場所で。



 心臓が逸って、息が逸って、そのまま呼吸も止まってしまいそうな感覚までしてきた。



 ただ、いつものそれと違ったのは。



 あなたの指はその場所をそっと撫でるだけで、すぐに離れてしまうこと。



 あこ、どうかした?



 と、何も知らないあなたが聞いたから、私はなんでもないですと首を横に振った。



 たくさん怖いことは告げたけど、そういえば首のことはあまり伝えていなかった。襲われる瞬間の話は、あんまり詳細に話そうとは想わなかったから。だってそんなことしたら、きっとなぎさんも嫌な思いをしてしまう。



 あなたがいくよといって、お湯を肩から流してく、身体から泡が流れ落ちていくのと同じように、逸った息も強張りも一緒に流れていく。



 それなのに、首を撫でた指の温かさが、私の身体にはずっと残ってた。



 あの瞬間、私の命は、私の全部は、なぎさんの手の中に確かにあった。



 あなたの指に、私の心も身体も、その全てが握られていた。



 こわばりが溶けて、息が落ち着いて、少しぼーっとした頭が残る。



 なのに胸の奥だけはずっと熱いままだった。



 頭、洗うよ。とあなたの言葉に、私は口を開けないまま、黙ってうなずいた。



 それから、お風呂から上がっても身体の奥はずっと熱いままだった。



 















 ※



 その日の夜、なぎが眠りについた頃。


 あこは独りそっと夜中に起き出した。


 それから、居間の自分用の布団から這い出た彼女は、寝室のなぎのところまで忍び寄る。


 しばらく逡巡したようにその寝顔を見守った後、なぎの布団からはみ出た彼女の手をそっと自身の手に取った。


 そうして、握った手をあまり大きく動かさず、自分の顔をその手のひらに沿うように、ゆっくりと寄せていく。


 そこまでして、なぎが起きないことを確認する。それから、その手のひらを、


 それから、ただ、その感触をなぞるために、少しだけ目を閉じた。


 なぎの手に、彼女自身を委ねている感覚を、ただ独り慈しむように感じてた。


 そうしていた時間は、僅か数十秒にも満たない間ではあったが。


 その間、こんなことしてはいけないという背徳が心を苛み、それでもなお抗いきれない何かがあこの身体を後押ししていたのだろう。


 ほんの数秒、後、あこはそっと息が荒れたまま、なぎの手から自身の首を離す。


 そうして、なぎの眼が覚めていないことを確認してから、音もたてずに寝室を後にした。


 誰もが寝静まる静かな夜のことだった。


 部屋から出たあこは、見止めると、しーっと口に指を当てながらどこか自嘲的な笑みを浮かべていた。


 なにやってんだろね、私。と少し悲しそうな顔をした彼女に向かって、小さくにゃあと返事をした。


 誰もが寝静まる静かな夜のことだった。


 そんな夜にあこの中の何かが、ゆっくりと目を覚ましていた。


 あこ自身さえも、そんなこと知らないままに。

 

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