4 それぞれの思惑(2)
また大きなため息が漏れた。
片那はこの件について、あまり心配はしていなかった。尾上からの新しい情報次第では多少状況の変化はあるかもしれないが、それでも大事になるようには到底思えなかった。
しかし同じようなことを、今度はマイク・スミスと名乗る人物が、なんの面識もない薫に電話で伝えてきた。片那はこの事実を前に、それまでにはなかった不安が、徐に大きくなってくるのを感じた。
尾上が知らせてきたブルーパンサーによるマリアの誘拐計画は、思っていたよりも複雑かつ深刻なことなのだろうか――。考え過ぎかもしれないが、予期せずに現れたマイク・スミスの存在は、そう思わせるのに十分過ぎるほどのインパクトを片那に与えている。
片那は再び座椅子の背もたれに寄りかかると目を閉じた。
――犯人の銃を撃ち落としたのは俺だ。あの日のことはすべて忘れろ。誰にも何も話すな。これは警告だ。
薫から聞かされたマイク・スミスからの伝言が思い浮かんだ。
伝言の内容は、あまりにも曖昧で、それだけを聞く限りでは、何を伝えたいのかさっぱりわからない。が、あの日、現場にいたマリアにだけは確実に伝わる。
あの時マリアは、犯人の拳銃を撃ったのは自分ではないと言っていた。そして撃った人物は、相当な腕の持ち主だとも。片那は警察官が撃ったと思っていたが、マリアはそうではないと言いたげだった。
結局、マリアが正しかったのか――。
マイク・スミスは自分が撃ったと伝えてきた。そのことを最初に伝えてきたのは、伝言の信憑性を証明するためだろう。犯人の拳銃を一発で仕留めた銃声を聞いているマリアには、このことだけで十分なのだ。
伝言を受け取ったときは、レイがからかわれただけだと言って、マリアは笑っていたらしいが、その場では適当に誤魔化すしかなかったのだろう。しかし伝言の内容は確実に理解していたのだ。そして伝言をレイに頼んだことで、マリアのことはすでに調査済みだというメッセージも併せて伝えていることも――。
だけどマリアは何も話してはこなかった。少なくとも片那にだけは話しても良さそうなものだが、それすらしなかったということは、いくら信憑性があろうとも、伝言のことなど気にも留めていなかったということか。
だが、マリアがそう思うのも仕方がない。
見知らぬ人物から半分、脅し文句のような伝言を受け取っても、マリアからすれば「ああ、そうですか」ぐらいにしか思わないはずだ。幼い頃から父親のセルゲイにKGBのいろはを教え込まれ、銃やライフルの扱いも、半端なスナイパーなど裸足で逃げ出すほどの腕がある。それに一通りの武道も嗜んでいる。この程度のことで狼狽えることはない。仮に何かあったとしても、自分だけで解決できると思っているのだろう。
しかし状況は変わった。
マイク・スミスは、今度は薫にコンタクトを取ってきた。しかも尾上からの情報をなぞるように、同じ情報を伝えてきたことの意味を履き違えると問題はより大きくなるかもしれないのだ。
それにしても、まったく同じ情報なのに、マイク・スミスからだと、なぜこれほど気になるのだろうか。尾上からの情報を信用していないわけではない。ただ、マイク・スミスからのコンタクトは、蛇に纏わりつかれたような気味の悪さを感じる。
片那はノートパソコンに映し出されたままの、車の画像に目を移した。外交官車両を意味するブルーナンバー。登録国はアメリカ合衆国。車種は黒のクライスラー300。フルスモークガラスで中の様子は見えない。
薫からの話を聞く限り、この車に乗った若い白人の男というのは、マイク・スミスで間違いないだろう。そしてこれまでの状況を振り返ってみると、マイク・スミスはほぼ確実にCIAの諜報員ということになる。
片那は、これまでに様々な国の諜報員たちを取材してきた。皆、一様に社交的で明るい人たちばかりだったが、それは表面上のことで、任務を遂行するためなら、いくらでも残忍酷薄となる側面を持っていることも知っていた。
そしていま、アメリカの諜報機関であるCIAの諜報員が接触してきた。そして彼からの一方的なメッセージは、家族のことは調べ上げていると言いたげに、レイや薫を通して伝えてきた。
受ける方からすれば、これほど気味の悪いことはないが、逆に、マイク・スミスの動きは、ある意味挑戦的にも受け取れるような気もする。
こめかみから伝った汗が、テーブルの上にぽたりと落ちた。エアコンのスイッチは切れている。夜はなるべくエアコンをつけないようにしている。片那は扇風機のリモコンを取りスイッチを入れた。緩やかな風が吹き、汗で濡れた肌を冷たくした。
片那はコップに入った麦茶を一気に飲み干すと、座椅子のロックを外して仰向けになった。
マイク・スミスは、KGB大佐だったマリアの父親のことを知っている。もちろん、KGBのスパイだった母親のことも知っているだろう。他にも交友関係も調べ上げているはずだ。その上でコンタクトを取ってきているということは、そうすることが必要だと判断したからだ。
マリアにとって、あの日のことはすでに過去のことでしかない。犯人逮捕に協力したことで、近いうちに感謝状を授与されることになっているが、それすらも忘れているぐらいなのだ。マイク・スミスからの伝言も、すでに頭の片隅にすらないだろう。
だが、マイク・スミスは与えられた任務を遂行するために東京へ来ているのだ。その為にはどんなことでもする。
すでに巻き込まれている以上、逃れることはできないのだ――。
その時、片那は頭の中で閃くものを感じた。
――そうか……。
片那は大きく深呼吸をした。
ここでじっとしている必要はない。こっちからマイク・スミスとブルーパンサーを追ってみるのもいいかもしれない。仮にそれがマイク・スミスの思惑だったとしても、それはそれで面白い。マリアは親友の娘であるが、すでに家族同然だ。ちょっかいを出されて黙っているわけにはいかない。
それにCIAがブルーパンサーをマークしているのも腑に落ちない。尾上も言っていたように、ヨーロッパに本拠を置く窃盗団が東京で動いているのは違和感がある。
が、それ以上に、アメリカの諜報機関が東京で彼らをマークしている方こそ、より大きな違和感がある。ありえないことではないが、スマートではない。それともブルーパンサーは、東京で何かアメリカの逆鱗に触れるようなことでもしたのだろうか。何れにせよ、そこには確実になにかがあるはずだ。
――動いてみる価値はある。
片那は久しぶりにジャーナリストとしての気持ちが高ぶるのを感じ始めた。マイク・スミスは薫の父親である片那がどんな仕事をしているのかも、すでに知っているはずだ。知った上で薫にコンタクトを取ってきたということは、マイク・スミスからのメッセージは自分にも向けられているのだ。
「あら、お仕事? なんだか楽しそうね」
風呂から上がってきた由佳が、タオルを頭に巻いたまま部屋に入ってきた。
「まあな。久しぶりに楽しめそうなネタに出会えたかもしれない」
「だったら、早くしてね。またお寿司が食べたいから」
冷やかし気味に言う由佳に、片那は寿司でも焼き肉でも任せておけと言って、握りこぶしを作ってみせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます