2 何もしたくない(2)
居間に近づくと、いつもと違ってにぎやかな話し声が聞こえてきた。
――お客さんかな。
「おっ、来たか」
薫が居間に入ると、片那が機嫌よさそうに声をかけてきた。畳の上に置かれた座卓を囲んで片那と母親の由佳と楓音、そして、どこかで見たような白人の少女が座っていた。
薫は片那の横に座った。
「薫。この子はマリア・イワノフさん。ロシアのモスクワから来たんだ。お父さんとマリアさんのお父さんとは長年の友人でな、マリアさんが夏休みを利用して日本に来たいというので、今日からひと月ほどうちで預かることになった。日本が大好きみたいだから、いろいろ教えてあげなさい」
「片那お父さん、マリアでいいです」そう言ってから、マリアは薫を見ながら「はじめまして。マリア・イワノフです。よろしくお願いします」と笑顔で言った。
薫は、こちらこそ、と言って軽くうなずきながらも、マリアのことをどこで見たのか考えていた。確かにどこかで見た。
――そうだ。萌え萌えカフェのマリーたん……。
「お兄ちゃん、マリアって日本語すんごい上手なんだよ。それに、お兄ちゃんと同じ十七歳なんだって」
楓音がうれしそうに言う。会って間もないはずなのに、すでにファーストネームで呼んでいる。それに日本語が上手だなんて、そんなことなど、言われなくてもとっくにわかっている。
「もしかして、今日、テレビに出ていた……」
薫はマリアに訊いてみた。
「おっ、見ていたのか、あれ」
マリアが答える前に片那がしゃしゃり出てきた。
「うん、まあ……」
「えっ? マリアってテレビに出ていたの? なんで、なんで?」
楓音が目を輝かせた。
「今日、秋葉原を歩いていたら、警察に追われていた窃盗犯に出くわしてな、マリアがその犯人を投げ飛ばして、逮捕に協力したんだよ」
「うっそ、すっごーい。マリアって強いんだ」
楓音が大袈裟に驚いてみせる。
「本当、すごいわね」
由佳も感心した様子でマリアを見ている。
「そんなことないです。子供の頃から柔道をしていましたから、投げ飛ばすぐらいなんでもないことです」
「でも凄かったぞ。こんな華奢な女の子が大男を投げ飛ばしたんだからな。柔よく剛を制すの、お手本みたいだったよ」
片那がニコニコしながら言ったが、まるでその場で見ていたような口ぶりが気になる。
「凄かったって、親父はなんでそんなこと知っているんだよ。親父もテレビを見ていたのか?」
「その時マリアと一緒にいたからな」
由佳が「あらそうなの」と平然として言ったが、薫と楓音の受け取り方は由佳とは違っていた。
「なんで親父が一緒にいるんだよ」
「マリアがメイドカフェに興味があるって言うから、空港から家へ帰る途中で秋葉原に寄ったんだよ。知り合いがメイドカフェの店長をしているからな」
「それでね、萌え萌えカフェに体験入店させてもらうことになったんだよ」
「親父ってそんなところにも顔が利くのかよ」
得意げに話すマリアを余所に、薫が片那に向かって言った。
「まあな。萌え萌えカフェの店長の尾上は、以前はある国の外国人部隊の傭兵だったんだ。尾上とは傭兵の取材をした時に知り合って、それ以来の付き合いだ」
薫は口に含んだ紅茶を吹き出しかけた。
「なんで外国人部隊の傭兵がメイドカフェの店長になるんだよ。いくら時代が変わったとはいっても、限度っていうものがあるだろ。ブリーフを穿いた超A級スナイパーが幼稚園の先生に転職するぐらいの違和感があるぞ」
「あいつは昔から変わり者だったからな」
片那が腕を組んで、しみじみと言った。
「は、はあ……」
自然と溜息ともつかない、呆れたような声が漏れた。
「それで、その帰りにマリアが窃盗犯を投げ飛ばしたというわけだ」
何故か片那が自慢気に言う。
「そして、ちょうど近くにテレビ局のスタッフがいて、マリアにインタビューした ――そんなところか。ずいぶんと、お膳立てがいいな」
「お前、結構鋭いな。さすが我が息子だ。でも実情はまったく違う。薫が思っているようなヤラセじゃない」
「テレビ業界ではヤラセのことを演出って言うんだろ。それに実情が違うなら、鋭くないだろ。なんなんだよ」
「まあ、いいじゃないか。でも窃盗犯は本物だし、マリアが投げ飛ばして、犯人が逮捕されたのも本当のことだ。その証拠に、警察から感謝状がマリアに授与されることが決まった」
「本当ですか?」
マリアがびっくりしたような顔をした。
「本当だよ。警察の知り合いから連絡があったから間違いない」
「よかったね、マリア」
楓音と由佳が声を揃えると、マリアが嬉しそうにうなずいた。
「それで、親父はどんな仕掛けをしたんだよ」
ひとり冷めた様子で薫が言った。
「大したことはしていない。ただ、俺の知り合いのテレビ局のプロデューサーに頼んで取材に来てもらっただけだ。ロシア人美少女が窃盗犯を捕まえる。しかも日本の国技、柔道の技を使ってだ。ヤワ○ちゃんの第一話みたいで面白いだろ?」
「そんなものにまで目を通しているのかよ」
薫のツッコミに片那が、まあな、と涼しい顔をして言った。
「インタビューが始まる前、アナウンサーの女の人が意味ありげに、片那お父さんに向かってうなずいたから、何か変だなって思っていたけど、そんなことがあったんだ」
「さすがマリア。そういうのは見逃さないな。まあ、そういうことだ。面白いネタがもらえたとプロデューサーは喜んでいたよ」
「それで、萌~、マリーたんです。そして手でハートなのか」
「それはマリアのアドリブで、想定外だったが、まあ、いいじゃないか」
「ついていけね。でも、マリアが犯人を投げ飛ばさなかったらどうなっていたんだろうな」
「連絡しない。それだけのことだ」
片那が臆面もなく言った。
「簡単なんだな」
「難しく考えることでもないだろ」
「それもそうだけど……」
「いいじゃない。面白くって」
由佳が笑いながら言った。
――たぶん、何も考えないで言っているのだろうな。
薫は小さくため息を漏らした。
「うんうん。私もそう思う」
楓音も同意するようにうなずいた。
――楓音も同じか……。
薫の口からはため息しか出ない。片那とマリアはニコニコしている。これが正解なのだろう。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「はーい。どちらまさですか」
由佳が座ったままで玄関に向かって大声で問いかけると、楓音が「ちょっと、お母さん」と言って少し顔を赤らめた。
「駅前寿司です。出前、お届けに来ました」
由佳がいそいそと玄関に向かった。
「母さん、なに嬉しそうにしているんだよ」
薫が由佳の後姿を目で追った。
「久しぶりのお寿司が嬉しいんじゃないの?」
楓音がからかうような口調で言った。
「楓音」
片那が横目でマリアを見ながら、咎めるように言った。
「うちで寿司を取るなんて何年ぶりだろ。このぶんだと、明日は焼肉だな」
薫の言葉に、楓音が手を叩いて笑った。
「あ、あのー。そんなに気を使わないでください」
恐縮しきったようにマリアが片那を見て言った。
「気にしないでいいよ。こいつら悪ふざけが過ぎているだけだから」
由佳が出前の寿司を持って入って来ると、座卓の上に置いた。
「マリア、気にしなくてもいいよ。どんどん食べて」
「どうしたの?」
由佳が心配そうに訊いてきた。
「こいつらの悪ふざけを、マリアが気にしたみたいだ。まったく、少しは気を使いなさい。マリアは今日来たばかりなんだから」
「少し調子に乗りすぎちゃった。マリア、ごめんね」
楓音が謝るとマリアが気にしないでくださいと言った。
そんなマリアを見ながら、片那が、おい、と言って薫を見た。
ここは素直に言うことを聞くしかない。薫はマリアにごめんな、と言って軽く頭を下げた。
「まあ、いい。それじゃあ、じゃんじゃん食べようか。食事の時は楽しくしないとな」
「そうよ。楽しく行きましょう」
由佳が笑顔で言った。
「おっと、その前に。乾杯でもするか」
片那の呼びかけに、五人は麦茶が入ったコップを合わせた。
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