8 マリア、拐われる(1)

 マリアはいつも通りの時間に萌え萌えカフェに入った。ここへ来るまでの間、怪しい奴はいないか、一応注意を払っていたが、それらしき気配はなかった。しかし、自分を誘拐するのにチンピラ二人とは、ブルーパンサーは一体、何を考えているのだろう。どうせならジャッカルクラスの大物を雇ってくれたら、少しは楽しめるのに。正直、バカらしくて付き合っていられない。ブルーパンサーもお金に困っているのか、それとも、単に自分が舐められているだけなのか。多分、後者だろうけど、いっその事、わざと拐われてみようか、そんなことも頭を過ぎった。しかし、それはいくらなんでもやり過ぎか。パパに知られたら面倒臭いことになる。とりあえずいまはチンピラたちの出方を待つしかない。


* * *


 ――お帰りなさいませ、ご主人様。


 入り口のドアが開く音がすると、二人のメイドの明るい声が重なって店内に響いた。しかし、すぐに声は止まり、店内が異様な空気に包まれた。


 マリアは何か変だなと思いながらも、常連客の前で、ディスペンサーを手にオムライスのお絵かきに集中した。ディスペンサーを持つ手が震える。だが、ノズルの先端に意識を集中させなければならない。一瞬でも手元が狂うと、せっかくの絵が台無しになってしまう。


 これまで何度も失敗してきた。お客さんは笑って許してくれるけど、プロとして、これ以上の失敗は許されない。


「Where’s Maria!」


 男のダミ声が店内に響くと、マリアはビクッとして手元が狂った。ケチャップの線が大きく逸れた。


「また失敗か……。マリアちゃん、全然、上手くならないね」

 客が苦笑いを浮かべた。


 マリアはごめんなさいと謝ってから、ムッとして声がした方を向いた。


 ドアのところに、髭面の汚い格好をした二人の大男が立っている。一人は白人で、もう一人はヒスパニック系だった。


 ――なに、この汚い人たち。


 マリアが二人の男を交互に睨みつけると、その視線に気づいた白人の男がニヤニヤ笑いながら、横にいる男を見てうなずいた。男がゆっくりとベストの脇に手を入れた。その間も、男はマリアから視線を外さない。


 マリアの中に緊張が走った。


 一瞬の出来事だった。


 男の腕が素早く動き、一発の銃声がすると、テーブルの上に置かれてあるお絵かき中だったオムライスが皿ごと砕け散った。座っていた客は飛び散ったオムライスを顔や胸に浴びたまま固まっている。


 悲鳴が上がり、一瞬、店内はパニックになりかけたが、男が静かにしろと言って銃を向けると店内は静まり返った。


「お前がマリアか、大人しくこっちへこい」

 男がマリアに銃を向けたまま言った。


 ブルーパンサーに雇われたチンピラ二人というのは、こいつらのことか――。マリアは慎重に店内の状況を見渡してみた。まだ昼前で、お客さんは少ないけど、それでも席は半分ぐらい埋まっている。


 まさか店に来るとは思わなかった。ここで銃を乱射されたら大変なことになる。


「しかたねえ、こうしたらついてくる気になるかな」

 ヒスパニック系の男が近くにいたメイドの子を抱えると、頭に銃を突きつけた。


 ――ヒロちゃん!


 声も出せずに震えている仲間のヒロちゃんを見て、マリアの怒りがマックスまで跳ね上がった。ヒロちゃんはマリアの大の仲良しだ。ヒロちゃんを傷つけてみろ、こいつらただじゃ済まさない。


 だが片那から渡されたトカレフは鞄の中だ。ここで銃を持った二人を相手に素手で対処するのは無理がある。できないこともないけど、他の人が危険にさらされてしまう。


 尾上の姿が横目に入った。尾上は目で何かを訴えかけている。


 マリアは尾上とアイコンタクトを取ると、両手をだらんと下げて立った。


「やっと言うことを聞いてくれる気になったか、お嬢ちゃん」

「その前に、その子を放して」

「お前が来れば、すぐに放してやる」


 ――ならば、仕方がない。


 マリアは男たちに向き合ったままで人差し指を二度、軽く動かした。同時にベレッタが投げらてきた。手の中にベレッタが収まった瞬間、二発の銃声が響き渡ると同時に、男たちが持っていた銃が吹き飛んだ。


 二人の男は呆気にとられたまま、怯えたような目でマリアを見ている。


「死にたくなければ、その子を放すことね」

 ベレッタを構えたままマリアが言った。


 動かない男たちに向かってマリアが足を一歩前に踏み出した。


 男たちが顔を見合わせてうなずいた。ヒスパニック系の男がヒロちゃんを突き飛ばすと、勢いよく店から出ていった。


 ――こいつら、逃さない。


 マリアは尾上にAK47を借りると、二人のあとを追った。尾上は止めたが、マリアは聞こえないふりをした。ヒロちゃんに銃を向けただけでなく、せっかく描きあげた絵をオムライスごと吹き飛ばした罪は償ってもらう。あの二人だけは絶対に許せない。


 非常階段を降り、萌え萌えビルの外へ出ると、男たちが乗った黒のクーペが目の前を通り過ぎていった。辺りを見回すと、ビルの横にトリトンブルーのGSX―R1000Rが止まっているのが目に入った。マリアは駆け寄ると躊躇わずに跨った。すぐに、近くにいた持ち主らしき男が血相を変えて走ってきた。


「あの~」


 男が躊躇いがちにマリアに声をかけてきた。AK47を背に、メイド服を着た白人の女の子が、いきなり自分のバイクに跨ってきたのだから驚かないほうがおかしい。マリアは男の顔をじっと見つめた。男は困惑した表情を浮かべている。


「よろしくです~」


 マリアは名刺を取り出して笑顔で男に手渡すと、男が、はあ、どうも、と言って両手を使って丁寧に名刺を受け取った。マリアはその隙にセルスイッチを押した。エンジンが唸りを上げる。男があわてた表情で何か言っているが、その声は耳に入らない。マリアはアクセルターンで向きを変えると、R1000Rをフル加速させた。リッターSSの暴力的な加速Gがマリアの体を襲った。経験したことのない加速だが、ロシアで乗っていたバイクより格段に操作性がいいから安心してアクセルを開けることができる。


 マリアは車の間を縫うようにトリトンブルーの車体を走らせながら、黒のクーペを追った。まだそれほど離れていないはず。


 しばらくすると、赤信号で停まっている黒のクーペが見えた。


 ――信号をちゃんと守るとは、犯罪者にしては随分と律儀ね。


 マリアは黒のクーペめがけて一気に加速すると、マリアに気がついたのか、信号を無視して黒のクーペが急発進した。マリアは後を追って赤信号の交差点に突っ込んだ。交差点内に止まったままになっている車の間をすり抜けて黒のクーペを追った。


 あと数メートルまで迫った。なんとか前に回り込みたいが、奴らは抜かせないように車体を左右に大きく振りながら走っている。


 助手席側の窓が開いた。ヒスパニック系の男が顔を出すと、マリアに銃を向けた。マリアは咄嗟に車体を死角に入れたが、奴らはその隙に黒のクーペを一気に加速させた。みるみる離れていく。マリアはアクセルを全開にしたが、なかなか差は詰まらない。


 信号を無視しながら、物凄いスピードで走っていく。黒のクーペを避けようと急ブレーキをかけた車に次々と他の車がぶつかり、交差点内は追突した車で埋まった。マリアは僅かな隙間を走り抜けると後を追った。


 奴らを捕まえるまでアクセルは緩めない。


 マリアは必死に追った。


 見通しのいい直線道路に入った。黒のクーペがこれまで以上にスピードを上げた。マリアもアクセルを開けたが、これまでよりも更に強い風圧が容赦なくマリアの顔面を直撃する。スピードメーターは百二十キロを表示している。ヘルメットを被っていない状態では、これ以上スピードは出せない。マリアはアクセルを緩めるしかなかった。


 黒のクーペがみるみる離れていく。


 マリアはその後ろ姿をじっと見つめた。


 奴らは車の合間をチラチラと見え隠れしながらかなり先を行ってしまっている。


 そして視界から消えた。

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