乙女射撃手マリアの休日

風来ゆう

1 来たばかりなのに……

 真夏の太陽が照りつける秋葉原の街に、爆竹を鳴らしたような乾いた音が数回響き渡った。マリア・イワノフは手に持ったハンドタオルを首筋のところで止めたまま、音がした方向に視線を移した。これまでに何度も聞いてきた音。しかし街の雰囲気は特に変わった様子は感じられない。街は平然としているが、横にいる葉山片那に視線を向けると、片那は前を向いたままゆっくりとうなずいた。


 通りには多くの人たちがいる。歩いている人、立ち止まっている人、信号待ちをしている人。その中の何人かは音がした方を見たりしているが、それが銃声だと気づいている様子はない。他のほとんどの人たちは、まったくの無関心だ。いまがどれだけ緊迫した状況にあるのか、誰一人としてわかっていない。もしここがモスクワならば、すでにパニックになっていることだろう。だが、それも仕方のないことか。ここにいる人たちは皆、普通に生活していれば、銃声を聞くことなどない平和な国に暮らしているのだから。


 片那がマリアの腕を軽く小突いた。五十メートルぐらい先に警察官に追われている二人の男が目に入った。二人共白人でこっちへ向かって走ってくる。けたたましく鳴り響く幾つものサイレンがビルの向こう側から聞こえてきた。


 パトカーの姿が見え、サイレンが間近に迫ってくると、追われている男が走りながら後ろを振り返った。ほぼ同時に、道路脇に止まっていた黒のセダンが大きな爆発音を伴って炎上した。爆発の反動で道路に飛び出してきた炎を纏ったタイヤを避けようとした車が派手なスキール音を鳴り響かせると、後ろから走ってきた何台もの車が立て続けに追突した。そして対向車線まで流されるようにして飛び出したその中の一台が対向車を巻き込んで道路を塞いだ。


 ここまできて漸く状況を察したのか、通行人たちが騒ぎ始めた。


 煙の向こうに行く手を阻まれた赤色灯が見える。


 マリアと片那は警察官に追われている二人に目を移した。男たちがふた手に別れた。ひとりは中央通りを横切っていき、もう一人はこちらに向かって走ってくる。

「マリア!」

 片那が素早く鞄からマカロフPMを取り出すとマリアに手渡した。


 ――日本に来たばかりなのに、なんで、こんなことに巻き込まれなければならないのよ。

 マリアは渋々銃を受け取ると片那を見た。

――さっさと片付けちまえ。

片那の目がそう言っている。


 マリアはマカロフPMを手に、中央通りを渡っていく男を目で追った。


 走っていた男が立ち止まった。そして振り向きざまに、後を追っている警察官に銃を向けた。警察官が咄嗟に地面に伏せた。通行人の中から悲鳴が上がった。マリアは男の動きに集中した。男との距離は五十メートルほどだ。マリアは右手に持ったマカロフPMの感触を確かめると、男に銃口を向けた。

――What the hell are you doing? 

 マリアが言い終わる前に、男が持っている銃が吹き飛んだ。

――誰なの?

 マリアは銃を構えたまま、あたりに目を走らせた。

「マリア、前を見ろ!」

 片那の声がした。言われるままに前を見ると、もうひとりの男が、まっすぐにこちらへ向かって走ってくる。マリアは片那にマカロフPMを投げると、顔にかかったブロンドもそのままに男を見据えた。


 行く手を阻むように立っているマリアを見て、男の口端が僅かに上がるのが見えた。

――私を人質にでもしようと思ったのかしら。

 マリアは男が一瞬見せた下品な笑いにつられてあげようかと思ったが、すでに分泌されたアドレナリンはリセット不可能だった。胸のロザリオが大きく跳ねると同時に、男の体が宙に舞った。

――体が勝手に反応しちゃった。ごめんね。

 マリアは路上に仰向けに倒れた男を見てつぶやいた。


 すぐに大勢の警察官たちが集まってきて男を取り押さえた。拳銃を吹き飛ばされた男も大勢の警察官に囲まれている。


 片那が、さあ行くかと言って、マリアの肩をぽんと叩いた。二人の男も無事捕まったことだし、これ以上ここにいる必要はないということなのだろう。マリアはあまりの手応えのなさに少し不満だったが、二人は取り押さえられてしまったのだ。これ以上、何もすることはない。それに片那には逆らえない。マリアは仕方なく片那について歩き始めようとした。


 そのとき警察官が二人、マリアに近づいてきた。


 片那が警察官を見て、あからさまなしかめっ面をした。

「あ、あの……キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」

 警察官がたどたどしい英語でマリアに話しかけてきた。

「日本語で大丈夫ですよ。私、日本大好きですから」

 マリアが言うと、警察官はほっとしたような表情を浮かべた。しかし横にいる片那は不満そうに、わざとらしく大きな咳払いをした。

 マリアはそんな片那を見て、何かまずいことを言ったかなと思ったが、気にしても仕方がない。


――まあ、いっか。どうせ、大したことではないだろう。それに、ただ話をするだけなのだ。深く考えることでもない。

 マリアは自己完結させると、笑顔で警察官に向き合った。


「それはよかった。少しお話を伺いたいのですが」

「それでしたら、私が代わって伺います。この娘は日本に来たばかりなので、わからないことが多いと思いますから」

 片那が割って入ってきた。


 二人の警察官は互いの顔を見合わせて困惑の表情を浮かべている。

「私なら大丈夫ですよ。日本語得意ですから」

 片那がマリアの腕を小突いた。何かのサインなのだろうか。それとも――。


――言いたいことがあるのなら、はっきり言えばいいのに。

 マリアは片那の腕を小突き返した。すると片那がマリアを無視して警察官に向かって話し始めた。


「マリアは柔道が得意で、たまたま向かってきた犯人を投げ飛ばしただけです。他に何かありますか?」

 勝手に話を完結させようとしている片那に、警察官が唖然としている。

「ありませんか。それでは私たちは先を急ぎますので、これで失礼します」

 片那が軽く頭を下げると、マリアの腕を取って歩き始めた。

「あっ、ちょっと……」

 警察官が慌てて呼び止めた。片那は仕方がないという感じで、名刺を取り出すと警察官に手渡した。

 警察官は渡された片那の名刺を真剣な表情で見ている。

「なにかあれば、連絡ください。警視庁、捜査一課長の立花さんとは、長年懇意にさせていただいておりますので。それでは」


 捜査一課長の名前を出すと、警察官の態度があからさまに変わった。歩き出したマリアと片那に向かって敬礼までする始末だ。それを見たマリアは、立ち止まって警察官に向かって愛想よく敬礼をしてみた。警察官は直立不動で、こっちを見ている。

「バカなことをしてるんじゃない」

 片那が耳元で囁くと腕を引っ張った。

 目つきがこれまでとは違う。不満だけど、仕方がない。もし片那に逆らったのがパパに知れたら、すぐにモスクワへ連れ戻されてしまうだろう。やっと日本に来ることができたのだから、それは絶対に避けなければならない。来た日に帰るなんてことになったら最悪だ。


 それでもマリアは我慢ならなかった。別に悪いことをしたわけでもないのに、なぜ逃げるようにして立ち去らなければならないのだろう。

「いいじゃない、少しぐらいお話したって」

 思っていることが口をついて出てしまい、マリアは慌てて口に手を当てた。

 そんなマリアを片那が窘めるような目で見た。

「はーい」

 マリアはわざと不服そうに返事をしたが、片那は「わかればいい」と言って、歩き始めた。


「そうだ――」

 マリアが言うと、片那がやれやれという感じで振り向いた。

「さっき犯人の拳銃を撃ったの片那お父さんじゃないよね」

「どういうことだ。撃ったのはマリアだろ」

「私じゃない。私が撃つ前に誰かが撃ったみたい」

「本当か?」

「本当よ。私は一発も撃っていないから」

 片那お父さんが撃ったと思っていたけど、よく考えてみれば、銃は自分が持っていたから、それはありえないか――。だとしたら、一体誰が撃ったのだろう。日本では銃を持ち歩いている人などいないはずなのに。


「もしマリアが撃っていないのなら、他の警察官が撃ったのかもしれないな。気にする必要はないと思うが、とりあえず後で調べておくよ」


 確かにその可能性はあるだろう。同僚の警察官を守るためというのは十分説得力のある話だ。だけど、まわりには大勢の人がいた。そんな状況で警察官が発砲するだろうか、それに、あれだけ正確に撃ち抜く腕があるのかも疑問だ。そんな腕の持ち主などそうはいないはず。偶然、当たったことも考えられるけど、銃声は一発しかしていない。そう考えると他の警察官が撃った可能性はかなり低いような気がする。


「警察の人じゃないような気がする。犯人が持っている銃を一発で撃ち落とす。相当な腕の持ち主だわ」

「考えすぎだろう。日本の警察にだって、腕のいいやつがいるかも知れないじゃないか。さあ、行くぞ」

 片那がマリアの腕を取った。

 マリアは仕方なく片那について歩き出した。


「あの……。関東テレビですけど。少しよろしいですか」

 マリアは片那に促されて駅への道を歩いていると、テレビカメラを従えた女性アナウンサーがいきなり現れて、行く手を塞ぐようにして立ちはだかった。

――えっ、うそ……。テレビ?

 マリアはドキドキしながら女性アナウンサーを見た。

「先程の犯人逮捕に至るご活躍について、少しお話を伺いたいのですが、よろしいですか」

 女性アナウンサーがマリアにマイクを向けると、横に立っている片那に向かって小さく頷いた。

 ――何、今の?

 気になるけど、まあ、いいや。とにかくテレビカメラに集中しなければ。


 マリアはドキドキしながらも横目で片那を見てみた。思っていた通り、小難しい顔をしている。だけど日本のテレビに映るチャンスを逃すわけにはいかない。片那にお伺いを立てても、返ってくる答えは聞かなくてもわかる。ここはノリと勢いで行くしかない。


 ――やったね!

 マリアは髪に軽く手櫛を入れると、マイクに向かって、「はい、よろしくお願いします」と愛想よく言った。途端に、片那のひときわ大きな咳払いが聞こえたが、聞こえません。それは聞こえませんとマリアは心の中で繰り返した。

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