14 片那の過去(2)

 ――気がついた時、俺は六畳ほどの小さな部屋の中のベッドの上にいた。一応、手当はされていたが、体のいたるところが痛んだ。フリーのジャーナリストはすべてが自己責任だ。何かあっても、誰も手を差し伸べてはくれない。だから、あの場所で死んでいたとしても文句は言えないのだが、こうしてここにいるということは、誰かに助けられたということだ。俺は部屋の中を見回してみた。ベッド以外には机と椅子、それに簡単な作りの棚があるだけだった。ここがどこなのかという手がかりになるような物は何もなかった。


 部屋のドアがノックされて、一人の若い白人の男が部屋に入って来た。その男は、俺とそれほど変わらない歳に見えたが、身なりからソ連軍の将校だとすぐにわかった。その男を見て、やっぱり来るんじゃなかったと俺は本当に後悔し、そして観念した。東西冷戦の代理戦争と言われたアフガン紛争。西側の一員である日本人の俺は、彼らからすれば敵みたいなものだ。このまま無事に帰れるとは思えなかった。


 だけど、その男はベッドの側まで来ると「ありがとうございました」と日本語で言うと、俺に向かって深々と頭を下げた。まったく予期していなかったことに、俺はわけもわからず、驚き、ただ、その男を見つめていた。


 男は英語で話を続けた。暴行を受けていた白人の男はソ連軍の関係者で、彼を助けに入ってくれたことに感謝すると言ってくれたんだ――。


「よかったじゃん。いい人で」


 思わず軽いノリで言ってしまった。薫は慌てて謝った。片那が経験したことは物語の中でのことではない。実際にあったことなのだ。それを変に茶化すような感じで言ってしまった。でも、片那はそんなことは意に介さず、同調するように、二度うなずいた。


「謝る必要などない。そいつは本当に、いい奴だからな。そいつの名前はセルゲイ・イワノフ。マリアとレイのお父さんだよ」


 薫は言葉に詰まった。そして生まれて初めて心の底から感動した。片那は、薫の知らないところで、たくさんの時間を重ねてきた。そして、その中のほんの一時の時間が薫の心を大きく揺さぶっている。心が揺れるほど、薫は自分の小ささを痛感させられた。


 ――それから、三日ほど俺はそこにいた。セルゲイも時間を見つけては、話の相手をしてくれたりした。俺たちは馬が合うのか、すぐに打ち解けて、軽口をたたきあうほどの仲になった。


 三日後、まだ怪我の状態は良くなかったが、動けないことはなかったから、俺は帰国することになった。セルゲイはソ連軍の車で空港まで送ってくれた。来た時とは違って、正当なルートでの出国だった。それらのすべては、セルゲイが手配してくれたものだった。


 そして俺は何もできずに、そのまま日本へ帰った。帰国後、俺は、あまりの不甲斐なさに、しばらくは何もする気が起こらなかった。自分の存在意義を見つけるなんて意気込んでいたことも、思い出すことすら恥ずかしかった。とことん自分のことが嫌になっていたんだ。


 やっぱり俺には無理なのか。そう思い始めた頃、セルゲイから電話がかかってきたんだ。セルゲイは俺の声を聞くと、無事に帰れてよかったなと言ってくれた。


 その頃、ほとんど誰とも話をしていなかった俺は、嬉しくなって、セルゲイにいまの自分のことや考えを話し始めた。人と話したのは久しぶりだったせいか、話したいことが次から次へと出てきた。その間、セルゲイはひと言も口を挟まずに黙って俺の話を聞いてくれていた。


 話が終わり、俺はセルゲイの言葉を待った。だけどセルゲイは何も言わなかった。俺は何か言ってほしかった。言うことがなかったら、相槌だけでもよかった。だけど何の反応もない。


 俺は何も言ってくれないんだなと言ってみた。するとセルゲイは、一番わかっているのは片那自身だし、俺がどうこう言うことでもないだろ。俺が出来るのは片那の話を聞くだけだ。だけど、もし言うことがあるとしたら、何かあったら、いつでも連絡をくれ。俺は片那の力になりたい。セルゲイはそう言ってくれたんだ。


 その時、俺は思った。この旅で、一人とはいえ本当の友人が出来たのではないか。それだけでも行った甲斐があったのではないのかと。そして、その友人は俺の力になると言ってくれている。これ以上の後押しはなかった。


 俺は始めからやり直そうと決めた。すべてを失ったばかりだから、やりやすかった。とりあえずバイトをやりまくった。生活費もなかったし、カメラも買いたいし、旅費も貯めなければならない。もちろん情報収集も怠らなかった。立て直すのに二年ぐらいかかったけど、俺にとってそれは有意義な時間だった。


 その後、俺はカンボジア、ニカラグア、アンゴラなど、多くの戦場を取材した。もちろん、その間、セルゲイの力を借りたことも多々あった。


 九十一年のミハイル・ゴルバチョフ大統領の辞任でソ連は崩壊した。その時、俺はモスクワでセルゲイと一緒にいたんだ。その少し前にKGBは解散していて、セルゲイはそのまま職を辞していた。ソ連崩壊で、政治、経済が混乱する中、これからどうするのかと訊くと、結婚でもするかなと言って笑っていたのが、いまでも強く印象に残っている――。


 笑えないことが多かったはずなのに、笑いながら話している片那が羨ましく思えた。自分もいつの日か、こんな話が出来る大人になれるのだろうか。親父みたいになりたい。話を聞いていて、薫は心からそう思った。


「俺も親父みたいにジャーナリストになろうかな」

「楽じゃないぞ。だがな、決めるのはまだ早い。薫はまだいろいろなものを見て、経験して、考える時間を持てる歳だ。ゆっくりでいい。でも、無駄な時間は過ごすな。いまはまだ、それだけでいい」


 遠回しに、引きこもっているなと言われているような気がしたが、次の言葉でとどめを刺された。


「生きるっていうのは楽じゃないけど楽しいものだ。何が起こるのかわからないし、どんな出会いがあるのかもわからない。先のことは誰にもわからないからな。でも、ただ一つわかっていることがある。それは、いまの薫の時間は、その時のためにあるということだ」


 いつもなら痛いところをつかれて、下手をしたら逆ギレするところかもしれないのに、いまは素直に話を聞くことができる。


 台所から音がした。由佳が起きてきたようだ。時計は六時を回っている。


「起きたのか」

 片那が声をかけると、由佳が部屋に顔を出した。

「あら、珍しい」

 薫を見て由佳があくびをしながら言った。

「早起きしたから、親父の昔話を聞いていたんだよ。今ちょうど終わったところさ」

「そう、昔の話ね」

 興味がありそうな感じだったが、由佳はそのまま台所へいってしまった。


「それ、何しているの? レポートでもまとめているのか?」

 薫は広げられた書類やノートを見ながら訊いてみた。


「これか? 世界中の暇人たちに、ちょっとした刺激を与えてやろうと思ってな。もう少しで、纏まるから楽しみにしていろ」

「わかった。楽しみにしているよ」


 気になったが、訊いたところで教えてくれないのはわかっている。薫はそのまま片那の部屋を出ようと立ち上がった。


「それと、マリアが狙われている理由も大体わかったぞ」

 薫は息を呑んで片那を見た。

 片那は尾上からの情報がすべてではないと思うが、と断りを入れて話し始めた。

 話を聞いたあと、薫はやり場のない憤りを感じた。どんな名画なのか知らないが、たかだか絵のために人の命を奪おうとするなど有り得ない。


「でも心配するな。奴らは今、一刻も早く日本から出たいと思っている。しかしマイク・スミスがそれを邪魔している。今更マリアに構っている暇などないだろう」

「だったらいいけど、でも、奴らはどうにかならないのかな。俺とマリアはあいつらに殺されそうになったんだ。逮捕することは出来ないのか?」

「警察も本気で動いているから、逃しはしないだろう。すでにメンバー二人を逮捕しているし、ここでブルーパンサーのトップであるフランクを逮捕出来れば、壊滅まで持っていけるかも知れないからな」


 薫は「わかった」とだけ言って、片那の部屋を出た。


 階段を上がるとマリアの部屋の扉が目に入った。

 起きているかな――。


 少し気になったが、薫は軽く頭を振ると、そのまま自分の部屋に入り、敷きっぱなしだった布団の上に倒れ込んだ。

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