14 片那の過去(1)

 目を覚ますとレースのカーテンの向こう側は既に明るかった。薫は枕元に置いてある時計を手に取った。まだ朝の五時を回ったばかり。もう少し寝ようと思ったけど眠れそうもない。それもそうだ。昨日の昼間はずっと寝ていて、夜も十一時には寝ていた。いくらなんでも、そんなに眠れるものではない。


 薫は網戸を開けて窓から外の様子を眺めてみた。静まり返った住宅街からスーパーカブのエンジン音が聞こえてくる。


 窓辺に肘を乗せて遠くを見ていると、昨日の記憶がぼんやりと頭の中に蘇ってきた。昨日の今頃は、マリアと一緒に倉庫から逃げ出して、あいつらを追っていたんだよな。なんだか、遠い昔のことのように思える。


 薫は急にマリアの顔が見たくなった。マリアはすぐ隣の部屋にいる。少しだけ覗いてみようか。だけど、あの時みたいに悲鳴をあげられたらたまらない。やはり起きるのを待つしかないか。


 薫はマリアの部屋を横目に下へ降りていった。


 片那の部屋から明かりが漏れている。仕事でもしているのだろうか。そういえば、さっき由佳だとか寿司だとか、何か、そんな声が聞こえたような気がしたが――。


 薫は隙間からそっと中を覗いてみた。片那がパソコンに向き合っている。座卓の上、その回りにはノートや書類などが無造作に置かれてある。


「用があるなら入ってこい」

 片那がパソコンに向かったまま声を掛けてきた。


「なんだ、気がついていたのかよ」

 薫は部屋に入ると、片那の横に座った。


「当たり前だ。お前ごときの気配がわからないで、戦場では生きていけないからな」

「戦場って、親父は戦争に行ったことがあるのかよ」

「若い頃は戦場を取材していた。結婚してから行くのをやめたけどな」

「そうなんだ。戦争って、どんなんだ。俺にはまったく想像もつかないな」

「悲惨さ。言葉で言い表せないほどにな。ついさっきまで横で笑っていた人間が、気がつくと動かなくなっている。そんなことは日常茶飯事の世界だ。爆撃で街は破壊され、建物は瓦礫と化し、住むところを追われた人々は、どこから飛んでくるのかわからない銃弾に怯えながら暮らすことを余儀なくされる。地雷に吹き飛ばされ、命を失う人。機銃掃射で人がバタバタと倒れていく光景は地獄絵図だ。そんなことが毎日繰り返される」


 知らなかった。片那がそんなことをしていたなんて。十七年も一緒にいて、初めて知った自分の父親のこと。薫は不思議な感じがした。


 片那がパソコンから目を離し、座椅子の背もたれに寄りかかった。


「七十九年に始まったソ連によるアフガン侵攻を取材するために俺はアフガニスタンへ向かった。まわりの奴からは強硬に止められた。一歩間違えれば、命を落とす。戦場を取材中に死んだジャーナリストなどいくらでもいる。それに俺自身でさえ、まだ駆け出しの若造が戦場へのこのこ出かけていって、一体なにができるというのか、そんな思いもあったぐらいだ。でも、どうしても確かめたかったんだ。自分の存在意義を」


「存在意義を確かめるって?」


「自分はなぜ生まれてきたのだろう。そんなことを思い悩むなんて、中学生みたいだけど、あの頃の俺はそんなことを、本気で考えていたんだ。その頃の俺は、パンフレットなどで使う風景やグラビアの水着のお姉ちゃんたちを撮影して収入を得ていた。望んでいたカメラマンとしての仕事なのだから、それはそれでよかった。だけど胸の内では、違っていたのか、ずっと、心のどこかで違和感を引き摺っていたんだ」


「水着のお姉ちゃんよりも重要な被写体ってあるのか?」

「黙って聞けよ」


 笑いながら嗜める片那に、薫はおどけるようにして、小さくうなずいた。そして片那は話し始めた。


――俺は高校生の頃は報道カメラマンになりたいと思っていたんだ。国際的な賞を取るような写真は、どれも何かを訴えかけてくる。それだけで、なんの説明もいらないほどにな。たった一枚の写真が世論を変えることさえある。俺もそんな写真を撮りたいって思っていた。


 そんな気持ちが根底にあったのか。ある時、テレビでロバート・キャパの半生をやっているのを見ていて、高校生の頃の自分を思い出したんだ。そして何かが違うと感じているのなら、本当の、自分の存在意義はそこにあるのかもしれないと漠然と思った。


 俺はそれを確かめてみたくなった。報道に詳しい人や、関係者を紹介してもらって話を聞いたり、情報を集めたりした。だけど勢いとは逆に、話を聞く度に、気持ちが萎えていった。あまりにもジャーナリズムのことを知らなさすぎていたことに、気付かされてしまったからな。


 そんな俺を見て、誰もが行くのはやめたほうがいいと、話の最後に付け加えた。だけど俺はそんな声を振り払って一人で日本を出た。所持金は十万とちょっとしかなかった。航空券を買って残ったのがそれだけだったから、どうしようもない。銀行でドルに両替したら五百ドルにもならなかった。それでもアフガニスタン国境まで行けばなんとかなるなんて、わざとお気楽に考えたりして、不安を誤魔化しながらの出発だった――。


「クレジットカードとかなかったのか?」

「当時は、まだそれほど普及していなかったからな。クレジットカードなんて、持っている人の方が珍しかった時代だよ」


 ――そんな時代だったんだ。


 薫は片那の話に聞き入っていた。無謀だけど、すごい行動力だと思った。家にいるのがライフワークになっている自分には、とてもそんな真似は出来ない。というか、それ以前に、そんなことをやろうなどとは絶対に思わない。


 片那の話は続いた。


 ――もし、何も得るものがなかったら、写真は諦めよう。そんな思いで降り立ったアフガニスタンの地で、いきなり窮地に陥ってしまった。街に入ってすぐだった。数人の暴漢に襲われて、身ぐるみ剥がされてしまった。通りすがりの人は誰も助けてくれなかった。銃を突きつけられて為すすべもなく、カメラや現金など、金目のものはすべて持っていかれてしまった。残ったものは、着替えと靴底に隠しておいた十ドル札が五枚、それにパスポートだけだった。


 兎にも角にも、俺の戦場取材は着いた途端に終わってしまった。俺はその場に座り込んだまま、しばらく呆然としていた。知り合いもいないし、所持金はたったの五十ドル。おまけに言葉もまったく通じない。戦場に旅行案内所などあるはずもないから、本当にお手上げだった。とことん追い詰められた俺は、もうその場から動く気力もなくなっていた。その時、近くで騒ぎが起こった。


 見ると、一人の白人の男が、三人の男たちに囲まれて暴行を受けていた。白人の男はいいようにやられっぱなしだった。一人に対して、三人がかりというのも許せなかったけど、俺は、持ち物を奪い取っていった暴漢に対する怒りの矛先をそいつらに向けた。


 何のためらいもなく、そいつらの間に割って入っていった。だけど白人の男はダウン寸前だったから、状況は、俺一人が三人を相手にすることになっていた。でも、ここまで来て、引くわけにもいかない。俺は三人を相手にやるしかなかった。だけど、漫画のように上手くはいかない。結局、俺も奴らのサンドバッグにされて、そのまま気を失ってしまった――。


 とても大人のすることではないと、小生意気なことを思ったが、よく考えてみたら、それは、親父にも若い時があったということなのだ。それに引き換え、自分には熱くなることなど、なにもないなと薫は思った。


 友達とか仲間内では、冷めた考えでいることが、文字通りクールだと思っているようなところがある。でも、それは違うのではないのか。時には、もっと熱くなってもいいのではないのか。親父の話を聞いていると、そんな気にさせられる。

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