3 予期せぬ連絡(3)
西荻窪に着くと、すっかり陽も暮れていた。薫とマリアは並んで歩き始めた。やっと帰ってこられた。朝からマリアに振り回されっぱなしだったけど、これで解放される。薫は心底ほっとしていた。そんな事を思っていると、突然、マリアが薫の手を引いて脇道へ入った。
「なんだよ。子供じゃないんだから、手を引かれなくたって、言えば、ちゃんとついていくよ」
「さっき言ったこと、覚えてる?」
「さっきって、何だよ」
「私が凄いってことよ」
「まあ一応、探偵さんだよな」
マリアが満足そうに二度うなずいた。
「それじゃあ見せてあげる。私の凄いところを」
マリアが来た道を振り返った。薫もつられて振り返ってみたが、いつもと変わらない見慣れた風景があるだけだ。
「レイ、わかっているから、隠れていないで出ていらっしゃい」
道には誰もいないが、そんなことには構わずマリアが大声を出した。
「やっぱりバレてたか……」
ひとりの少女が物陰から姿を現した。
目の前に立ったレイと呼ばれた少女が、ブルネットのロングヘアを見せつけるように手でかき上げて、薫とマリアを交互に見た。年は自分よりも若く見えると薫は思った。そして、マリアと同じぐらいに流暢な日本語を話しているのが、不思議な気持ちにさせられた。
「みえみえでね」
マリアが両手を腰に当ててレイを見た。
「さすがマリア。いつからわかっていたの?」
「とっくに気がついていたわよ。私と薫が、萌え萌えビルを出た時には、レイはもうついてきていたからね」
「だったら、もう少し早く呼んでよね。尾行も楽じゃないんだから」
レイが不満そうに言った。
「ちょ、ちょっと、待った。俺たちはこの子につけられていたのかよ」
「鈍いわね。この状況と話の内容を理解していれば、訊かなくてもわかることでしょ」
呆れたようにマリアが言った。
「それはそうだけど……」
「お兄ちゃん。薫くんって言うんでしょ。そんなおばさん、放っておいてレイと遊ぼうよ。レイのほうが若くてかわいいよ」
マリアの目が異様に光ったのが、はっきりと見て取れた。そうだ。この視線、ゲームセンターで見た視線と同じだ。
「あれ? もしかして怒った? こっわーい」
茶化すようにレイが言った。
「この子、マリアの知っている子か? それに、なんで俺の名前を知っているんだよ」
「その子は、私のパパとママの二人目の娘よ」
「そうか……、えっ? それって……」
「そういうことよ」
「ロシアでは何ていうのか知らないけど、日本ではそういうのは妹っていうんだけど……」
「そうね」
「い、妹?」
薫は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「せっかくだから、紹介しておくわ。その子の名前はレイ。私の二歳下の妹よ」
――最初からそういえよ。紛らわしいんだよ。
薫はよろしくと言って、レイに近寄ると、レイは両手で薫の手を取り、屈託のない笑顔を見せて、よろしくねと言った。その瞬間、レイの青く澄んだ幼気な瞳が、薫の心を撃ち抜いた。可愛すぎて、やばい。胸の高鳴りが収まらない。薫はレイの手のひらの温もりを感じたまま、何も言えなくなってしまった。
「相変わらず人に取り入るのがうまいわね」
マリアが呆れたように言った。
「何を言っているの? レイは薫お兄ちゃんにご挨拶をしただけですよ」
そう言ったレイを見て、薫はレイの中に潜む女を見たような気がした。
「そうなの。挨拶は大切だからね。よく出来ました。褒めておくわ。ついでに、ひと言忠告しておくわね。レイがなぜここにいるのか、おおよその見当はつくけど、これ以上、私に付きまとうなら、あとでそれ相応の報いを受けることになるから覚えておくことね。でも、レイが大人しくしているなら何もしないから、しばらく日本を楽しんで、さっさとモスクワへ帰ることね。わかりましたか、おバカさん」
「それはできないな」
レイが即座に断言した。
「面白いことになりそうね」
レイを見るマリアの目が光った。
レイも負けじとマリアに視線を合わせて余裕の表情を浮かべている。
「知っているでしょ。レイは面白いの大好きだから。でもお姉ちゃん。一応、訊いておくけど、レイがなぜ、ここにいるのかわかっているよね」
「言ったでしょ、見当はつくって」
「だったらいいけど」
レイが笑みを浮かべた。
マリアが言っていた厳しい親父さんのことなのだろう。でも、いくら厳しいといっても、わざわざ日本にまで見張りを寄越すものだろうか。もしそうなら、マリアの親父さんも相当なものだ。
「レイ、あなたが人に知られたくないことを、私がどれだけ知っているのか、考えたことがあるかしら」
レイが軽く息を呑んだ。マリアを睨みつけるように見ているが、なんとなく、その瞳には力がなくなったように見える。反対に、マリアは余裕の表情だ。形勢逆転か――。さすが、お姉ちゃん。なぜか、薫まで余裕でいられる気がした。
「何、それって、脅しかな?」
「それはレイが考えることでしょ」
「それもそうね。でも、それはお姉ちゃんが薫お兄ちゃんとベッタリくっついてデートしていたという事実と相殺にはならないほど些細なことじゃないかなってレイは思うけど、どうかな」
「話なんてね、いくらでも膨らませることが出来るのよ」
「あんなにベッタリとくっついてデートしていたら、それぐらいのことは言いたくなるか。でもレイはめげません。――と言いたいけど、薫お兄ちゃんも、お姉ちゃんのおっぱいの感触を楽しんだことだろうし、そんな薫お兄ちゃんに免じて、今日のことは忘れることにしようかな」
――妹よ。話の意味がぜんぜん通っていないじゃねえか。でも、マリアのおっぱい云々のところは当たらずとも遠からず。スケベ根性をレイだけでなくマリアにも見透かされていたようで恥ずかしくなる。だが、そんなことは微塵も感づかれてはならない。でないと墓穴を掘ってしまう。ここは毅然としているべきなのだ。
薫はちらっと横目でマリアを見てみた。マリアは見るからにバカバカしいといった表情をしている。
「賢明な判断ね。このままレイの顔を見ずにいられることを期待するわ。私とレイが次に会うのは、一ヶ月後のモスクワということになれば、お互いノープロブレムだからね」
レイの口が閉じたままになった。これで勝負ありか。
「薫、帰ろ」
マリアが薫の腕を取った。でも、なんか、レイのことが気になる。
「いいのか? せっかくだから、家に寄っていってもらえばいいじゃねえか。妹なんだろ」
薫の声には耳を貸さずにマリアは歩き始めた。
「そうだ! 忘れていた」
いきなり背後からレイの声がした。
マリアがまだ何かあるのという感じでレイに向き直った。
「萌え萌えビルでお姉ちゃんを待っている時にね、レイね、物凄いイケメンくんに声をかけられたんだ。それでね、レイ、ナンパされちゃったかなって思って、少しわくわくしながら話を聞いていたらね、その人、お姉ちゃんに伝言を頼まれてくれないかって言うの。酷いでしょ。レディに声をかけておいて、お姉ちゃんに用事だなんて。でも引き受けちゃった。どうする?」
「誰よ、そのイケメンくんって」
「知らない」
「名前は?」
「えっとね、ん……、忘れた」
レイが屈託のない笑顔をマリアに向けた。
マリアが誤魔化すなという感じで、大きくため息をつくと、両手を腰に当てて首を左右に振った。
やはり、まだ子供だ。薫はレイの仕草を見て思わず笑ってしまった。
「それで、伝言の内容は?」
「えっとね、確かね……、あの日、犯人の銃を撃ち落としたのは俺だ。あの日のことはすべて忘れろ。誰にも何も話すな。これは警告だ。そんな感じだったかな? お姉ちゃん、日本に来たばかりなのに、もう何かしたの?」
「ずいぶんと曖昧な伝言だな。なんだよ、その銃を撃ち落としたとかっていうのは。ここは日本だぜ。それに、これは警告だ、って、バカじゃね」
薫は何の気無しに思ったことを口走ってしまった。が、マリアも薫に同調するように、警告だなんて、バカバカしいわねと言って笑った。しかし、そう言って笑っているマリアを見て、薫はなんとなく演技をしているような、わざとらしさを感じた。何かを隠しているような、そんな感じがしたが、考え過ぎだろうと、すぐにその考えを打ち消した。
「でも、確かにそう言っていたもん。それに、――あっ、そうだ。名前思い出した。その人、確かマイク・スミスって言っていた。白人で物凄くイケメンなの」
レイが言うと、少しの間が開いた。
突然、マリアがこらえきれないという感じで吹き出すと、声を上げて笑い出した。
そんなマリアを見て、レイが不安そうな表情を浮かべた。薫もなぜ、マリアが急に笑い出したのだろうと不思議に思った。
「レイはからかわれたのよ。マイク・スミスだってさ。未だにいるんだ。そんな偽名使う人」
そう言ってから、マリアがまた笑い出した。
「なによ、失礼でしょ。せっかく伝言を持ってきてあげたのに。それに偽名だなんて言うけど、何の根拠があってそんなことを言うのよ」
まだ笑っているマリアにレイが憮然としている。
「レイ、マイク・スミスっていうのは、典型的な偽名よ。一昔前のスパイ小説や映画にはよく出てきていたわ」
「だったら、なぜ、レイにお姉ちゃんがいるって知っていたのよ」
「適当に言ったんでしょ。レイにお姉ちゃんがいても、いなくても、その場でいくらでも話は作れるわ。真相はこうよ。レイは隠れて私を待っていた。それを、たまたま通りかかったマイクくんが見て、レイにちょっかいを出した。これは、私の想像だけど、ほぼ間違いないと断言できるわ」
確かに、マイク・スミスなんてあからさまな偽名を使うなんて、いたずら以外に考えられない。それに、伝言の内容、状況的なことを考えても、マリアの言ったことが本当のところだろう。でも可哀想に、マリアに言われて理解したのか、レイはすっかり落ち込んでしまっている。薫は腕の時計を見た。七時半を過ぎたところだった。
「レイちゃん。まだ、少し早いからウチへ来なよ。ちょうど夕飯も出来る頃だし、一緒に食べようよ」
そう言って、薫はレイの手を取ると、レイはそれまでの落ち込みは何だったのかと思うほど、急に元気になって、本当? と目を輝かせた。変わり身が早すぎる。もしかして今のは演技だったのではと思いたくなるほどだ。薫がいいだろと訊ねると、マリアはあからさまに嫌な表情を浮かべながらも、黙ったままうなずいた。
薫が歩き出すと、左横にいるレイは薫の手を放さずについてくる。マリアは右横を歩いているが、さっきまでのように腕を絡めてはこない。いま、マリアはどんな表情をしているのだろうかと想像はしてみるものの、直接見ることは怖くて出来ない。
そのまま五分ほどの道のりを三人で歩いた。レイは楽しそうに色々と話しかけてきたけど、マリアはずっと無言だった。
家に着くと、レイは大歓迎された。楓音もレイを新しい友達が出来たと言って喜んでいる。マリアは相変わらず不満そうにしているけど、ここは姉として我慢するしかないだろう。
食事を終え、みんなで話しているうちに、もう遅いから泊まっていけばと由佳がレイに言った。その提案に楓音が真っ先に賛成! と言って、手を上げたが。その時についたマリアのため息は最大級のものだった。マリアの胸の内が手に取るようにわかる薫はどう反応すべきか戸惑ったが、結局、片那の泊まっていけという、鶴の一声でレイは一晩泊まっていくことになった。
もちろん、片那はマリアとレイの父親、セルゲイに電話を入れて、レイが自分の家に泊まることを伝えた。レイはセルゲイの東京に住むロシア人の友人の家に滞在していたが、セルゲイはあっさりとレイが泊まることを了承したみたいだった。
これで、セルゲイがレイを使ってマリアの監視をさせていたことが完全にバレたわけだが、十五歳のすることなど、こんなものなのだろう。
食事が終わると、楓音とレイとマリアの三人は一緒に風呂に入った。さっきまで仏頂面だったマリアはどこへ行ったのか、風呂の中で楽しそうにはしゃいでいる声が薫の部屋にまで聞こえてきた。
――俺も男の兄弟がほしかったな。
薫はふとそんなことを思った。楓音に一緒に風呂に入ろうなんて言ったら、地球の裏側までぶっ飛ばされるだろうからな。まあ、楓音なんかと一緒に入りたくもないけど。
それでも風呂場から伝わってくる楽しそうな雰囲気は羨ましく思えてしまう。
薫は三人が風呂から上がるのを待っている間、暇つぶしに今日、スマートフォンで撮った画像を眺めてみた。マリアはプリクラだけでは飽き足らずに、薫のスマートフォンで写真を撮りまくっていた。秋葉原の街並み、ショーウィンドウや道端を歩いていた猫にまでシャッターを押していた。もちろん薫とのツーショットもある。
マリアはスマートフォンを持っていなかった。マリアが言うには、スマートフォンは、わざと家に置いてきたみたいだった。もしスマートフォンを持ってきていたら、毎日のように、父親から電話がかかってきたり、位置情報を使って監視されるかもしれない。せっかく日本へ行くのに、そんなことになったら鬱陶しいというのがその理由だという。
父親には、うっかり忘れてきてしまったということにしてあるらしいが、親子して、そこまでやるか、というのが、その話を聞いた時に薫が思ったことだった。
もしかしたら、そのことがあって、マリアの親父さんはレイを日本へ寄越して監視みたいなことをさせていたのだろうか――。などと考えてみたりしたが、それはあまりにも考えすぎとも思えた。
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