4 それぞれの思惑(1)

 片那は座椅子の背もたれに寄りかかると目を閉じた。座卓の上に置かれたノートパソコンには、今しがた薫から送られてきた車の画像が画面いっぱいに開かれたままになっている。


――CIA、マイク・スミスか……。


 明らかな偽名。だが、それが感じている不安を何倍にも膨らませている。

 自然と大きなため息が漏れた。


* * *


 片那は夕方にかかってきた尾上からの電話を思い出していた。

 尾上はブルーパンサーが東南アジアを拠点にしているチンピラ二人を雇って、マリアを誘拐するよう、指示を出したという情報を掴み、片那に伝えてきた。


 尾上は、表向きはメイド喫茶の店長だが、情報屋という裏の顔も持っている。尾上が傭兵の頃に築き上げた人脈は、傭兵仲間だけでなく、主だった国の重要人物から裏社会に至るまで幅広い。そして、その情報網を使って様々な情報を手に入れることができる。片那もこれまでに尾上からの情報でいくつものスクープを手に入れていた。


 話を聞いた後、片那は不意打ちを食らったように、しばらくは声が出なかった。尾上にはマリアの素性など何も教えていないし、ましてやマリアに関する情報を集めるように頼んでいたわけでもなかった。


 しかし当然のように尾上はマリアが元KGB大佐だったセルゲイ・イワノフの娘だということをすでに知っていた。だが尾上は、そのことを知らされていなかったことについては何も言わなかった。あえて言う必要がないという片那の判断を理解しているからだろう。そしてブルーパンサーによるマリアの誘拐計画に関する情報を掴んだのも、マリアのことを調べていたのではなくて、単なる偶然からだった。


 尾上はヨーロッパを拠点にするブルーパンサーのメンバーが、なぜ日本で逮捕されたのかが気になり調べていた。奴らが日本で動くことなど珍しいことだ。それも国際指名手配されているのに、わざわざ日本まで来たということは、よほど大きな「何か」があるはずだという興味もあり、誰に頼まれたわけでもなかったが、それらについて調べていたところ、マリア誘拐に関する情報を掴んだのだった。


 しかしなぜブルーパンサーがマリアを誘拐しようとしているのか、その理由までは掴んでいなかった。マリアが秋葉原で投げ飛ばした男が、ブルーパンサーのボスであるフランク・マッキンゼーの弟、ジョージということ。そして、そのとき一緒に逮捕されたもうひとりの男が、フランクの右腕と言われているアンディだったことから、その報復としてというのが考え得る理由のひとつだが、本当のところはまだわからないと尾上は言った。


 片那も同様、腑に落ちなかった。奴らはマリアを拐ってどうしようというのだろうか。素早く考えてみたが、思い当たるようなことは何も思い浮かばない。強いて上げれば、尾上が言うように、ブルーパンサーのボスの弟と右腕と言われる男が逮捕されたことに対する報復行為だが、その可能性はかなりスリムだ。もしそんなことをしたら奴らは世界中の笑いものになるだけだ。小娘に投げ飛ばされて逮捕されたというだけでも恥なのに、その報復までするなど、普通に考えたらありえないことだ。


 それにマリアの父親のセルゲイは元KGBの大佐だ。KGBと言えば、ロシアそのものと言っても過言ではない。いまはFSBと名前を改めたが、その存在感は変わらず国家そのものだと言っていい。その組織の実力者だった娘を拐うと言うことは、ロシアに喧嘩を売るようなものだ。その結果、奴らは跡形もなく抹殺されるだろう。だからこそ東南アジアのチンピラを雇ったとも考えられるが、そんなことでFSBを欺けるわけがない。


 ここまで来て、片那はこの情報の信憑性に疑問を持ち始めた。長年の付き合いがある尾上からの情報とはいえ、考えれば考えるほど、ありえないことのように思えた。片那はそのことをストレートに投げかけてみた。すると尾上は情報源を明かすことはできないが、情報の信頼度は確かなものだとだけ言った。


 尾上にそう言われると、返す言葉はなかった。片那はこれまでに尾上からの情報でいくつものスクープを手にしていたし、情報の御蔭で助けられたことも一度や二度ではなかった。こと情報に関して、尾上が間違うことなどほとんどないと言っていい。しかもこの情報はマリアに関することなのだ。こうして知らせてくる前に、尾上は慎重に情報を精査しているに違いないのだ。


 しかし尾上は、いまのところ、それほど心配するような事態でもないだろうとも付け加えた。その根拠として上げたのが、フランクが自ら交渉して雇った二人のチンピラだった。 


 チャールズとディンゴと呼ばれているその二人組は、普段はナイトクラブなどで用心棒をしたり、プッシャー(麻薬の売人)をやったりして小遣い稼ぎをしているような小物だからだ。二人に取り柄があるとすれば腕力ぐらいなもので、もちろん知性の欠片すらないクズだ。普通に考えたら、そんな彼らにまともな仕事など依頼する組織などあるはずがない。それなのにブルーパンサーが仕事を依頼したということは、それほど本気ではないということなのだ。


 そんな尾上の説明は十分に説得力があった。が、それ以上に片那を頷かせたのは、付け加えるようにして言った尾上の言葉だった。


「そんな奴らにマリアがやられると思うか?」


 尾上がおちゃらけるように、片那に問いかけてきた。


 片那は何も言わず、スマートフォンを耳に当てたままニヤリとしてしまった。そうなのだ。その程度の奴らなら、マリアは決してやられはしない。いざという時のために、トカレフの一つでも持たせておけば十分だろう。マリアにちょっかいを出したら、ただでは済まないことを、奴らは返り討ちにあって思い知ることになるはずだ。


 それにしても、さすが尾上だ。そこまで調べているとは思いもしなかった。


「よく調べているな」


 片那が笑いながら言うと、「まあな」と至極当然のように尾上は答えた。これには片那も返す言葉が見つからなかった。それにしてもお粗末過ぎる。マリアを誘拐しよとしているのに、その程度の奴らに依頼するとは、ブルーパンサーのボスは一体何を考えているのだろうか。


「フランクは以前、一度だけチャールズに仕事を依頼したことがあるから、たぶんその延長線上でのことなのだろう。それとも探すのが面倒だったのか、もしくは金をケチったのかもしれない。ブルーパンサーも資金難らしいからな」


 尾上が笑った。


「チンピラ共の能力を見誤っているのか、それともマリアの能力を見誤っているのか。どっちだろうな」

「たぶん両方だろう」

 尾上がまた声を上げて笑った。


 これには片那もつられて笑ってしまった。


「でも、FSBに知られる危険を冒してまでマリアを誘拐しようとしていることが事実なら、奴らの目的だけははっきりさせておかないとまずいな」

「もちろん、そのつもりだし、すでに動いている。わかり次第、連絡する」

「なるべく早く頼む」

 片那の言葉に、尾上は軽い調子で「オーケー」と言うと、電話が切られた。


* * *

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