2 何もしたくない(3)

 薫が部屋で寝転んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。

「お兄ちゃん、開けるよ」

 外から楓音の声が聞こえた。


 薫がなんだよと言うと、ドアが開いた。マリアも一緒にいる。

「どうしたんだよ」

「お父さんからマリアに家の中を案内するようにって言われたから」

「案内しなきゃならないほどの豪邸かよ」

「まあ、いいじゃん」

 楓音が苦笑いをした。


「マリア、ここはお兄ちゃんの部屋」

 楓音がマリアに言った時、スマートフォンが鳴った。

「お兄ちゃん。ちょっとマリアの相手をしていてね」

 楓音が電話の相手を確認してから薫に言うと、スマートフォンを両手で包み込んで自分の部屋に入っていった。


 ――そんなことをしなくても見えないから。それにしても、なぜ、ああも隠したがるのだろう。まったく理解できない。


「よかったら入れよ」

 薫が言うと、マリアが部屋に入って来た。

「うちの親父とマリアのお父さんって、どんな知り合いなんだろうな、マリアは知ってるの?」

 薫が切りだすと、マリアが話し始めた。

「詳しいことはよく知らないけれど、私のパパとは、かなり仲がいいみたい。そうじゃないと、パパが私を一ヶ月も他人の家に預けるなんてこと、絶対にしないからね」


「お父さん、厳しい人なんだ」

「厳しいなんてものじゃないわ。どうやっているのか知らないけど、毎日、監視されている状態。元KGBだから、そういうことに関しては完璧だわ」


「マリアのお父さんってKGBだったんだ。かっこいいな。でも、元って言うことは、いまは違うってことか」

「よく知らない。パパがKGBを辞めたっていう話を又聞きしただけだから、本当はどうなのかわからない。パパは仕事のことは何も言わないから。ただ、いまも国家機関で働いていることだけは確かみたい」


「そうなのか。でも、そうだったら、厳しい人っていうのもわかる気がするな」

「そのおかげで、男の子と付き合うどころか、ちょっと話しているのを見られただけで、その日の夜は、尋問のようなお説教が始まるからね」


「娘も大変だな」

 薫が笑った。


「笑い事じゃないわ。私だって、恋もしたいし、気になる男の子だっているのに、パパのせいでまともに付き合うことすら出来ないんだから」

「いままでに付き合った人はいないんだ」

「何人かはいるけど、持って一週間ってところね。長続きしないのは、すべてパパが原因」


「ご愁傷様」

「本当にそう。パパさえいなければっていう言葉を、これまでに何度つぶやいたかわからないわ」

 薫はただ黙ってうなずくしかなかった。


「ねえ、楓音から聞いたんだけど、薫はずっと家の中で引きこもっているって、本当なの?」


 ――余計なことを……。

 あとで楓音にはきつく言っておかなければ。


「ずっと家の中にいて、なんか面白いことでもあるの?」

「別に。ただ、外に出てもやることがないから家にいるだけさ」

「だったら、明日お店に来ない?」

「お店って、萌え萌えカフェ?」

「うん。面白いよ」

「パス」

「なんで?」

「メイドカフェなんか興味ないからな」

「でも、よくないよ。ずっと家の中にいるなんて」

「ほっといてくれ」


「マリア、ごめん」

 スマートフォンを片手に楓音が入ってきた。


「大丈夫だよ」

「お兄ちゃんと何、話してたの?」

「内緒」

「えっ、なんか意味深」

「そんなんじゃないよ。薫、明日一緒に行こうね。九時に出発よ」

「だから、行かないって、言っているだろ」

「えっ、どこへ行くの?」

 楓音が興味津々な表情で薫とマリアを交互に見た。


「萌え萌えカフェ。明日、一緒に行くことにしたの」

「本当に? いいな。私も行きたいけど、明日、部活なんだよね」


「だから、行かないって――」

 薫が言い終わらないうちに二人は部屋を出て行ってしまった。


 ――まったく……。

 薫は布団の上に寝転んだ。

 そういえば、俺っていつも寝転んでいるな。

 薫はそのまま天井を見上げてみた。

 そして、天井を見上げる――か。いま気がついたけど、やっぱり俺っていつも同じことをしているような気がする。


 ――でも、まあ、いっか。

 自然と漏れるため息。


 まあ、いっか――か。


 そういえば、疑問を感じることがあっても、いつもこの言葉で終わっているな。なぜだろう。


 面倒くさい。考えることすら面倒だ。

 薫は横にある漫画を手に取った。


* * *


「お兄ちゃん。お母さんが早くご飯食べなさいだって」

 階下から楓音の大きな声が聞こえてきた。

 薫は横に置いてある時計を見た。八時を過ぎている。

「いま行く」

 薫も大声を出して、Tシャツに短パンのままで降りて行った。


「ねえねえ、お兄ちゃん。今日、マリアと一緒に萌え萌えカフェに行くんでしょ」

「行くよね、薫」

 薫が何か言う前に、楓音の横に座っているマリアが口を挟んできた。

「だから……」


「薫、パンは自分でトーストしてね」

 由佳が目玉焼きとソーセージが乗った皿を薫の前に置きながら言った。


 薫は食パンをふたつトースターに入れて、大きなボウルに入ったサラダを自分の皿に取り分けた。


「だから行かないって言っているだろ」

 薫はわざと機嫌が悪そうに言った。

「お兄ちゃん、時間差で言わないでよ。ボケてんの?」

「うっせーな」

「いいじゃない。行ってきなさいよ。薫、夏休みに入ってから一度も外へ出ていないでしょ」

 由佳がたしなめるように言った。


「そうだよ。行きなよ。それにお兄ちゃん、このままだと本当に引きこもりになっちゃうよ。後悔するのはお兄ちゃんなんだからね。私は部活だから行けないけど、ちゃんと、マリアと一緒に行くんだよ」


「まさか、楓音に説教される日が来るとは思わなかったよ」

「あら、楓音は間違ったことは言っていないわよ」

 由佳が追い打ちをかけてきた。


「今度は、楓音も来てね。それじゃあ、薫。昨日、言ったように、九時に出るから用意しておいてね」

 マリアが薫に言うと、楓音と一緒に二階へ上がっていった。


 ――あと二十分もないじゃないか。

 トースターがチンと音を鳴らした。薫はトーストを手に取り、マーガリンを塗りつけると、慌てて口に押し込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る