3 予期せぬ連絡(1)
秋葉原駅の改札を出ると、夏の空が広がっていた。やっぱりここも暑いのか。真夏だから当たり前のことなのに腹立たしく感じる。早く自分の部屋に帰りたい。薫はそんなことを思いながら額の汗を拭った。
「暑いね」
横に立つマリアが空を見上げている。
――そうですね。
薫は小さな声で投げやり気味に言うと、マリアが「何か言った?」と顔を覗き込んできたが、薫は何でもございませんと適当に誤魔化した。答えるのが面倒くさかったと言うよりも、やっとあの息苦しさから解放されたのだから、余計な話はしたくなかった。
西荻窪からここまでの電車内は、薫にとってある意味生き地獄のようだった。他人の好奇の目に晒されるのが、これほど落ち着かないことだとは知らなかった。
白人のブロンドヘアの美少女が垢抜けない男子高校生と一緒にいるのは相当、目立つことはわかる。それは仕方がないことだろう。だけど、マリアはそんなことなど気にせずに、何かというと必要以上に薫との差を詰めてきた。そんなにくっつくなと小声で言うと、少し離れるが、またすぐに近寄ってくる。他人ならまだしも、こんなところを知り合いにでも見られたらどうしよう。そんな思いもあってか、電車内にいた三十分あまりもの間、薫はずっと他人の目を気にしてばかりいた。
「さあ、行こう!」
マリアが元気よく言って薫の腕を取った。
薫は腕の部分に柔らかい感触を覚えたような気がして、腕の筋肉がビクッと反応してしまった。しかしマリアは何事もなかったようにさっさと歩き始める。
「おい、暑いから、そんなにくっつくなよ」
「いいじゃない。それよりも、薫ってガンマニアなんだって?」
「そうだけど」
「あと、毎日、ゲームばかりやっているって、楓音が言っていたけど」
「ろくなことを言わねえな、あいつは」
「秋葉原にはよく来るの?」
「前は、月に一度は来ていたけど、いまはそんなに来ないかな」
「そうなんだ。でも、いいな」
「なにが?」
「だって、こんな楽しいところに薫はいつでも来られるんだもん」
マリアが萌え萌えビルの前で立ち止まった。
「着いたよ。お店はこのビルの三階よ。これからも来ることになるでしょうから、ちゃんと覚えておいてね」
ビルの中に入ると、ひんやりとした空気に包まれ、ヘタれていた体が生き返るのを実感した。そのままエレベーターで三階に上がると目の前にカフェの入り口があった。
「ちょっと待っていてね」
そう言ってマリアが店に入って行くと、すぐに中年の男と一緒に戻ってきた。背の高さは、ゆうに百九十センチぐらいはある。それに、かなりの筋肉質というのが服の上からでもわかる。まるでプロレスラーみたいだが、優しい目元は威圧感を感じさせない。口ひげもいい感じでさまになっている。たぶん、親父が言っていた元傭兵だったという人だろう。
「薫くん、久しぶりだね」
その目元と同じように優しい声だった。
「大きくなったね。ぼくのこと、覚えてない?」
「え、えーと」
「薫くんの家で、何回か、会っているんだけどな」
薫は記憶を辿ってみたが、どうしても思い出せない。というよりも、片那は、いまもそうだが、しょっちゅういろいろな人を家に連れてくるから、いちいち覚えていられなかったのが本当のところだった。
「すみません」
薫は素直に頭を下げた。
「いいよ、いいよ。気にしないで。最後に会ってから、もうだいぶ経つからね」
男が笑った。
「私、用意してきますね」
隣で二人の様子を見ていたマリアが店の中に入っていった。
「かわいい子だね」
「え、ええ――まあ、そうですね」
「あっと、ごめんね。申し遅れたけど、萌え萌えカフェ店長の尾上です。薫くんのお父さんには昔、いろいろとお世話になったんだよ」
「そうなんですか。尾上さんは以前、外国人部隊で傭兵をしていたということは聞いていますけど」
「昔のことさ。いまはしがないメイドカフェの店長だからね。まあ、その話はいいとして、今日は楽しんでいってね」
尾上は扉を開けて薫を招き入れた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
可愛らしいメイドが一斉に薫に向かって頭を下げた。その中にはメイド服に身を包んだマリアもいる。薫はマリアを見た瞬間、逃げ出したくなったが、それを察していたかのように、既にマリアの左手は薫の腕をつかんでいた。
「ご主人様、こちらでございます」
強引に窓際の席に連れていって座らせられると、マリアが顔を寄せてきてニッコリと微笑んだ。近寄るなと言っても、逆効果でしかないことは既にわかっている。だけど、逃げ場のないこの状態。どうすればいいのだ――。顔が火照り、鼓動が高鳴る。薫は咄嗟に顔を横に向けた。
「ご主人様。今日は何をお召し上がりになられますか」
「な、なんでもいいよ」
間近でマリアの声がするが、薫は横を向いたまま適当に返事をした。
「それでは、おまかせということで、よろしいですか、ご主人様」
「そ、それでいいです」
「かしこまりました、ご主人様」
マリアが元気よく言うと席から離れていった。
――助かった。
薫は離れていくマリアの背中を見ながら、大きく息を吐いた。
薫は店内をひと通り見回してみた。一人で来ている男の人だけでなく、女性のグループや子供連れもいる。かわいらしいメイドの格好をした女の子が、それぞれのテーブルで、儀式みたいなことをしていたり、ケチャップでオムライスの上に絵のようなものを描いたりしている。「なんだろ、あれは」そう思いながら見ていると、お待たせしました、と言って、マリアがオムライスとスープ、それにオレンジジュースを運んできた。
「これは?」
「お絵かきオムライスです。ご主人様」
マリアが元気に言った。
「いちいち、ご主人様なんて言わなくてもいいよ。それに俺はまだ高校生なんだからさ」
「わかってないな。雰囲気を楽しまないと、雰囲気を、――ね」
「はいはい。それで、なんだよ、そのお絵かきオムライスって」
「これから私が、ケチャップでオムライスの上に絵をかきますから、ちゃんと見ていてね」
「ふーん」
マリアがケチャップの入ったディスペンサーボトルでオムライスの上に絵を描き始めた。
さっき、他の席でやっていたことか。薫はマリアの手元をじっと見つめた。
黄色い卵の上に赤いケチャップで線が引かれていくが、なんだか手元が怪しい。よく見ると、ディスペンサーボトルの先が微かに震えている。それに真剣すぎるマリアの目は、これから先のことを案じさせるような怖さを感じる。
なんかヤバそうだ――。薫は直感的にそう思った。
「はい、できました」
マリアが得意気な表情をして薫を見た。
「これ……、なんだよ」
細く赤い線が波をうって入り乱れている。なにかの絵らしきものが卵の上にあるのはわかる。両側にあるハートマークだけは、なんとなく認識できるが、全体的に何を描いてあるのかさっぱりわからない。
「くまさんだよ」
マリアが薫を見て微笑んだ。
「くまさんって、あのくまか?」
「あのくまって?」
「悪魔じゃないからな」
「そんなことわかってるわよ」
「こぐまの○ーシャとか、くまの○ーさんとかのくまかと訊いているんだけど」
「そうだよ」
マリアが元気に答えた。
「そ、そうか……」
「どう?」
「どうって、なにが?」
「鈍いわね。感想を聞いているの感想を。今日、初めてやったから結構、緊張したけど、どうかな――ご主人様」
言葉遣いが、それまでと違っている。最後に「ご主人様」と取ってつけたように言うが、その目は明らかに良い感想を強要しているのがわかる。
「子供はみな芸術家だと言ったピカソの言葉を思い出したよ」
「なにそれ? 褒めてるの?」
「答えは自分で見つけるもの。他人に訊くなよ。でも、このオムライスは結構いけるよ」
薫が紅く染まったオムライスを食べながら言った。
「本当? 嬉しい」
――このオムライスを作ったのはマリアじゃないだろ。
薫は全然わかってないなと思いながらもオムライスを口に運び続けた。
「薫はこの後どうするの?」
マリアは薫の隣の席に座ると、体を寄せてきた。横を向くと、マリアの顔が数センチのところにある。薫は咄嗟に顔を仰け反らせると窓際に体を寄せた。
――なんで、そんなに近づくんだよ。
そう思うも、声が出ない。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
やっとの思いで声が出るも、鼓動は収まらない。
「で、この後はどうするの? って訊いているんだけど、――ご主人様」
「思い出したようにして、ご主人様だなんて言うなよ」
「いいでしょ、ちょっと忘れていただけだから。それで、この後はどうするの、ご主人様」
「取り敢えず、せっかく秋葉原まで出てきたんだから、いつもの巡回コースを回ってみようかなと思っているけど」
「だったら、待っていてよ。ここ四時までだから。一緒に帰ろ、――ご主人様」
――はあ?
薫の気持ちなどお構いなしというように、マリアはニコニコと笑いながら薫の返事を待っている。
「あのなあ、一緒に帰ろって言うけど、あと四時間以上もどこで待っていろっていうんだよ」
「いいじゃない。四時十分に、ビルの一階ロビーで待ち合わせっていうことでいいかな、――ご主人様」
「ちょ、話を勝手に進めるなよ」
「それじゃあ、四時十分に待っていてね。遅れても怒らないでね、――ご主人様」
「お、おい、ちょっと……」
「あ、それと、店長がここのお会計はいいって。よかったね。タダだよ、――ご主人様」
マリアが薫の耳元で声を潜めた。
「だから――」
「どうしたの? あっ、ごめん。あっちのテーブルでみんなと一緒に魔法をかけないといけないから、行くね」
「おい、ちょっと待てよ」
薫の声など聞こえていないのか、マリアはそのまま行ってしまった。
いつもそうだ。結局、また押し切られてしまっている。
薫はスプーンを持ったまま呆然とするしかなかった。
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