6 初キス? マリアの向こう側

 マリアは仕事が休みで朝から家に居る。


 薫は何度か話しかけてみようと思ったが、昨日のことがあってから、急に距離が開いたような気がして何も話せずにいた。いつもはマリアの方から話しかけてくるのに、今日はそんなこともない。


 そして何も話せないまま夜になってしまった。夕ご飯を食べたあと、マリアは由佳に浴衣を着せてもらって、レイと楓音と一緒にはしゃいでいる。薫はそんなマリアを横目で見ながら、このままでは駄目だと自分に言い聞かせると、縁側に出てきたマリアに思い切って話しかけてみた。「少し話さない?」薫が言うと、マリアはあっけなく「いいよ」と言った。拍子抜けしてしまった。今日一日、気に病んでいたのはなんだったのだろうかと思うほどに。


 薫とマリアは縁側に並んで座った。


「昨日はごめん」

 薫は素直に謝った。


 どう言うべきか色々と考えたけど、何を言っても言い訳にしかならないような気がしていたから、たとえ何を言われても、素直に頭を下げようと決めていた。


「いいよ。もう気にしていないから」

「でも、全然話しかけてくれなかったから、まだ怒っているのかなって」

「だって……見られちゃったし。なんか、話しかけづらくて。だから薫のほうから話しかけてくれないかなって思っていたの」


 見たと言っても、バッチリと見たわけではない。マリアが目に入った時には、すでに手で胸を隠していたから、ちらりと見えたような気がする程度だ。残念ながら、まったく記憶に残っていない。


 でも、まあいいか。こうして、またマリアと話すことが出来たのだから。思い切って話しかけて良かった。


 マリアは夜空を見上げると、星、あまり見えないねと言った。


 風鈴が風に吹かれて優しい音を奏でている。


「日本のこういうところ好き」

「ん?」

「お風呂入って、ご飯食を食べて、浴衣を着て縁側で涼む。アニメでしか見たことがなかったけど、こんなこと、本当にあるんだなって、いま実感しているところ。モスクワは夏でも涼しいし、夜なんかは寒いぐらいだから、こうして浴衣を着て外で涼むなんことは考えられないからね」

「この国では何百年と続いてきた文化みたいなものだからな」

 薫が笑った。


「浴衣、似合ってるじゃん」


 思わず口をついて出てしまった。言ったあと、薫は急に照れくさくなり、顔が火照るのを感じた。


「ありがとう」

 マリアが嬉しそうに言って薫を見たが、心の内側を見られたような気がして、薫は顔を背けてしまった。


「そのロザリオいつもつけているんだな」

 横を向いたまま薫が言った。

「これは私にとって、とても大切なものなの」

「誰かからのプレゼントなのか?」

「十五歳の誕生日にパパがプレゼントしてくれたものなの。それまで、パパからのプレゼントなんて、ろくなものがなかったから、初めてまともなプレゼントをもらって、すごく嬉しくて、それで、それ以来ずっとつけているの」


「ろくなものって?」

「マカロフPMとかAK47、それにSV―98とかもあったし、それに……」

 マリアの言葉が不自然に途中で止まった。


「それって……」

 薫の言葉も不自然に止まってしまった。


「ち、違うの。銃とかではなくて、そ、その武器の解説とか書かれてある本のことよ。そう――本。なんか、パパは自分がそういうものが好きなせいか、娘にも武器のこととかを教えようとしていたみたいで……。でも、私は全然そんなものには興味がなかったし、いい迷惑だったから。だから、ろくなものがないって言ったの」


 マリアが早口でまくし立てるようにして言った。


 それもそうだ。娘の誕生日プレゼントに実銃を与える親など、世界中探したっているはずもない。薫が、俺なら嬉しいけど、娘としてはそうだろうなと言って相槌を打つと、マリアが深くうなずいた。


「そんなパパでも、パパなりに私に対して思うものがあるのかなって、時々、考えることがあるの。昔はパパが願うような良い子でいたいって思っていたから、そんなことは考えもしなかったけど、でも、自分で考えて生きていきたいって思うようになると、パパの気持ちがわかるような気がしているの。だから――」


 マリアが夜空を見上げた。


「だから、薫。決めるのも自分、動くのも自分よ。他人じゃない」

「いきなりどうしたんだよ。なんで、突然、話が俺に向くんだよ」

「だって、薫は自分から動こうとしないじゃない。じっとしていても、何も始まらないし、何も見えないのに、いつも家にいて同じことばかりしている」


「なんで、突然説教になるんだよ。それに、俺のことなんて、マリアには関係がないだろ」


「それもそうね」

 そうあっさり言われてしまうと、突き放されたようで良い気がしない。


「それじゃあ、もう一つ質問。薫はキスしたこと、ある?」

「さっきからなんだよ、いきなり変なことばかり言いだして」

「いいじゃない。それに、お話しようと誘ったのは薫の方でしょ。それで、キスしたことはある? もちろん、お母さんというのはなしだからね」

「ね、ねえよ」


 薫はムスッとして答えた。何故か妙に恥ずかしかった。学校では、したとかどうとか話すやつはいるけど、どこまで本当のことなのかわかったものじゃない。だけど、みんな興味があるからそんな話をするのだろう。たぶん、自分もその中の一人ということを自覚しているから恥ずかしく思えるのかもしれない。


「だったら、してみよっか、キス。私もしたことがないの。どんな感じかなってずっと思っていたから」


 マリアの瞳が薫の表情を確かめるようにして、じっと見つめている。薫は焦った。してみよっか、でするものではないと思う反面、してみたいという欲求というか、好奇心はある。


 自然と体の内側から震えがきた。


 ――どうしよう。どうすればいいのかわからない。でも、とりあえず、してみようかな。いや、やっぱりまずいよな。


「――って、思ったけど、やーめた」

「へっ?」

 薫は無理やり現実に引き戻されて、図らずも間抜けな声を出してしまった。


「だって、薫、ビクビクしているだもん。そんな、あやふやな気持ちでは、私の初キスの相手は務まらないわ」

「結局、俺は何も決められない男というわけか」

「そんなことないよ。とりあえず、いまと違うことをしてみたらいいんじゃないかな。そうすれば、これまでとは違う朝を迎えられると思うわ」


「そういうことですか」

「茶化さないでよ。好きな人にはちゃんとしてほしいだけなんだから」

「わかりました」


 薫は半ば投げやりな返事をしたけど、胸中は複雑だった。マリアは日本に来てまだ数日しか経っていないのに、すでに自分の居場所を見つけて毎日、楽しく過ごしている。それに引き換え、自分は相変わらずだ。変化のない毎日を過ごしている。マリアと比べてみると、毎日を無駄に過ごしているような気がしてならない。毎日、することがあるのは恵まれていることだと考えれば、自分は不遇の日々を送っていることになる。


 ――確かに、それではいけない。


「薫も明日から萌え萌えカフェに一緒に行こうよ。キッチンでバイト募集しているから、夏休みだけでも働けばいいんじゃない?」


「ノー・サンクス。それだけはごめんだ。何をするのかは自分で決めるよ」

 薫がそう言って親指を立てると、マリアも「それならいいんじゃない」と言って、同じように笑いながら親指を立ててみせた。


 薫は夜空を見上げた。星を見るには都会は明るすぎる。この夜空の向こうに、目には見えない無数の星が隠れている。薫はマリアにも同じようなことを感じ始めていた。まだ自分の目に見えていないマリアがいるような気がした。

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