17 駆け引き(2)

 ――覚えていろ、クソジジイ。


 耳に残っているナダルの声はムカつくが、まずは、こっちの、おっさんを何とかしなければならない。


 マイクはシートを起こすと首を回した。まだジェットラグを抜け出せずにいて寝不足の上、クソジジイが余計なプレッシャーをかけてきやがるから疲れも取れやしない。


 フランクが駐車場の奥の空きスペースに車を止めて降り立つのが見えた。マイクは時計を確認した。三時五分前。時間には遅れないということか。生真面目なやつだ。だったら、こっちも付き合うとするか。マイクはサンシールドを外すと後部座席に放り投げた。そしてシフトレバーをドライブに入れると、サイドブレーキを降ろし、ゆっくりとアクセルペダルを踏み込んだ。


 わずか百メートルほどのドライブはすぐに終わった。フランクはマイクの車に気が付くと満面に笑みをたたえた。


「これは、これは、意外なところからのお出ましですね」

 マイクがペットボトルを片手に車を降りると、フランクが大げさに両手を広げて笑いかけてきた。


「暑いですね。こんなに暑くては、ペットボトルが手放せないですよ」

「そうですね。ところで、早くから来ておられたようですね」

「あなたも。約束の時間まで、まだ五分もありますよ」

「時間にルーズな人間にはなるなというのが、親の教えだったもので。ところで、早くに来られていたということは、偵察でもされておられたのですかな」

「そんなんではありませんよ。ここまで来るのなら、ついでにフェスティバルでも楽しもうかと思って今朝早く来たのですが、いつの間にか眠っていたようです」

「それは残念ですね。私はさっき、少しだけ見てきましたけど、なかなか楽しそうでしたよ」

「そうですか。では、これが終わったら行くとしますか」


「それでは早速、取引と行きたいところですが、ジョージとアンディの姿が見えないようですね」

「それについてはお詫びしないといけません。実は、急に状況が変わってしまい、お二人の釈放は見送られてしまいました」

「状況が変わったとは、どういうことですか」

「日本の警察からの要請ですので、それは私にもわかりかねます。今朝までは釈放される手筈になっていたのですが。その後、急に状況が変わったみたいです」


「ということは、取引はなしということになりますが」

「それでは私が困ります。約束通り、絵はお返し願いたいのですが」

「そう言われましても――残念ですが、これでは取引になりません」

「そうですか。では、絵の確認だけさせていただけませんか」

「それは、私が絵を持ってきていないと疑っておられるのですかな」

「そんなことはありません。ただ、ナダルのジジイが我々に依頼してまで取り戻そうとした絵を見てみたいと思いましてね。たしか「セーヌ川の月」とか言う絵でしたっけ。絵画については疎いのでよく知りませんが、なんでも、八十年以上も行方知れずだった幻の名画だとか。その車の中ですか? ここからで構いませんので、見せてもらえませんか」


「困りましたねえ。私はそんな気分ではないですけど、まあ、いいでしょう。嘘つきだと思われたくはありませんからね。ただし、そこを動かないでください。そうでないと、大変なことになるかもしれませんから」


 フランクが後部のドアを開けた。中には布に包まれた絵らしき物がある。フランクは布を取ると、マイクに向けて見せた。


「いかがですか。これでおわかりになられましたか。絵はちゃんと持ってきています。私は約束を守りますから」

 フランクがマイクの表情を窺うようにして見ている。


「そこ、どいた方がいいですよ。でないと――あんた死ぬよ」


 突如ラフになったマイクの言葉遣いに、フランクの表情が変わった。

 マイクは持っていたペットボトルの蓋を開けると車の中へ投げ入れた。


「何をなさるのですか」

 話している途中で、ペットボトルの中の液体に気がついたのか、フランクは咄嗟に車から離れた。


「いい匂いだろ」

 明らかに狼狽えているフランクを見ながら、マイクはジッポを取り出して点火した。


「や、やめろ。そんなことをしてどうするつもりだ」

「もう付き合いきれねえんだよ。そんな絵、燃えて無くなってしまえば、あのジジイも諦めがつくだろうと思ってな。どう思う、フランク。あんたの意見を聞かせてもらえないかな」

「落ち着け。落ち着いてよく考えるんだ。こんなことをしても、誰の得にもならない。もし、私にできることがあったら、なんでもしよう。だから――」

「不思議だよな。こういう時、なぜか悪党は皆、同じようなことを言う」


 フランクの制止には目もくれず、マイクはジッポを車の中へ投げ入れた。あっという間に車は炎に包まれた。


 フランクが呆然として燃え上がる車を見ている。


「大変なことになったのはあんたの方だったな」

「てめえ……殺す」

 フランクの目つきが変わった。これまでの上品さはすっかり消え失せている。

「やっと裏社会の人間らしい顔つきと言葉遣いになったな。心配するな。俺はその方が話しやすくていい」


「これは失礼。少々熱くなりすぎたようです。では、仕切り直しといきましょう」

 フランクがホルスターから銃を取り出すとマイクに向けた。


「一発で仕留めて差し上げますから、そのまま動かないでくださいね。そうでないと、何度も撃たないといけなくなります。そんな残酷なことはしたくありませんから」


「御託はいいから、しっかり狙えよ。そうでないと、あんたの命がなくなる」

「命乞いならわからないでもないですが、ここにきて、その安い脅しは理解できませんね。でも、まあいいでしょう。なにか言い残すことはありますか」


 フランクがマイクに銃を向けたままニヤリと笑った。マイクは引き金に掛かったフランクの指先に集中した。


 指先が微かに震えた。その瞬間、マイクは身を捩らせてホルスターに手を忍び込ませた。フランクの放った銃弾が頬をかすめた。マイクはそのままの姿勢で、コルト・パイソンを抜くとフランクに向けて撃ち放った。フランクが持っていた銃は弧を描いてアスファルトの上に落ちた。


「だから、しっかり狙えと言っただろ」

 マイクは銃をフランクに向けたまま言った。


「さてと、なにか言い残すことはあるか」

「銃の扱いがお上手ですね」

 フランクは怖気づくどころか、なぜか余裕の表情を浮かべている。

「言い残すことはそんなことか。珍しい奴だな」

 マイクの問いかけには応えない。ただ目だけが笑っている。


 ――なんだ、こいつは。


 その時、マイクは銃身の辺りに何かが当たる衝撃を感じた。

右手からコルト・パイソンが離れていった。


「いかがですか、ジョンの狙撃の腕は。あなたに負けず劣らず、なかなかのものでしょう」


 マイクは奥に止まっているワンボックスカーを見た。ジョンがライフル銃を持ち、こちらに向けて照準を合わせている。油断したつもりはないが、まさかこれほどの腕を持つやつがフランクの手下にいるとは思ってもいなかった。


「さあて、これからどう致しましょうか」

「さあな。どうなるんだ?」

「あなたを殺すことなど、実に容易いことだというのは、いまのパフォーマンスでおわかりいただけますよね。ジョンの腕なら、あなたの頭であれ、心臓であれ、一発で打ち抜きます」


 その時、炎に包まれていたセダンが大きな爆発音と共に宙に浮いた。ガソリンタンクに引火したのだろう。だが、そんな轟音にも、フランクは微動だにしなかった。炎を背に立つフランクは、まっすぐにマイクだけを見つめている。そして炎の向こう側からはジョンがライフルでマイクに狙いを定めている。


 ――やばいな。


 このままでは本当にやばい。死ぬにしても、こんな奴らに殺られるのは勘弁だ。だが、打つ手はなにもない。


「もう一つ、お教えいたしましょう。たとえジョンが失敗しても、他の場所からもあなたを狙っています。わかりますか、この意味が」


 ――ということは、まだ誰か仲間がいるのか。だが、思い返してみても、他には誰もいなかったはずだ。まさかチャールズとディンゴということはないだろう。あんな奴らが切り札的存在だとは考えられない。況してやイワサキがやるとはとても思えない。


 フランクは相変わらず余裕の笑みを浮かべてマイクを見ている。


 ――教えてくれと言っても、教えてくれるわけがない。もしかしたらブラフかもしれないが、いま置かれている状況が最悪なのは間違いない。


 マイクは立ち上る炎を見上げながら、胸の内で両手を合わせて神に祈った。


 ――マリアさま。


 最後に教会に行ったのはいつだったろうか。すぐに思い出せないということは、はるか昔のことなのだろう。それに、なぜマリアさまなのか。普通ならイエス様だろう。そうか、だからいまの俺は、神に見放されているのか。でも、いい。誰でもいい。本当に誰でもいいから、この窮地から俺を救ってくれ――いや、ください。でないと、本当に死んでしまうだろ――。

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