第30話

「――」


 起きている時はいつもニッコリしながらお帰りなさいというのに、清香はテレビから目を離さない。そしてここに来た時のように体を硬直させて、極度の緊張が清香を支配しているのが伝わってくる。菜々子はもしかして今日急に出て行った事に対して怒っているのかと思った。しかしそうではないということを、肩に手を置いた時に感じた。さらに体を硬直させおびえた目で菜々子を見てくる。その視線はなぜか菜々子の心臓を一気に収縮させても飽き足らず、圧をかけてくるように苦しくなり、うまく息が吸えなくさせた。


「どうかした?」


 努めて冷静に優しく清香に聞いた。清香は見るからに体が鋼になっているように感じられ、菜々子の顔に恐れにも似た焦りの色が薄く滲みでる。でもなぜそう感じてしまうのか、理解できなかった。ただ今のこの状況を壊さなければいけないと、強く思った。


「清香ちゃん?」


 肩に置いた手から、清香を中心に振動が波のように菜々子に伝わってきた。清香の目にはただ狼狽が見え、別れるまで向けられていたものとは全く違っていた。子供が無性に母親のぬくもりを乞いながら拒否され、谷の底に落とされたような、何とも言い難い気持ちになり、目の奥がほんのり熱くなるのを感じていた。

 菜々子は清香の返事を辛抱強く待つことにした。


「荷物……クローゼットにしまおうとしたら、中にあった入れ物を落として……」


 菜々子は立ち上がって、クローゼットを開けてみた。雑貨店で買った二十センチほどのかごあみが前後逆になっていた。機械的な動作で、籠に小さな飾りボタンが付いている方を前にしてリビングへ戻った。


「清香ちゃん、中を見たのね」

「ごめんなさい。ごめんなさい」


 清香が謝れば謝るほど、遠くへと追いやられている気分になってくる。

 籠の中を見てしまってなのか、それともその中にあった秘密にしていた物を見て謝っているのか、様子からして後者のような気がした。


「私が怖くなった? 嫌いになった?」


 その言葉で清香はやっと菜々子と視線を絡めた。時間にして数秒だっただろうが、やけに長い時間に感じられた。そして清香は大きく頭を左右に振る。菜々子は床に足が沈み込んでいた錯覚があったが、吐いた息とともに足裏に硬さを感じられた気がした。


「あ」


 清香が小さく声を出して「どうかした?」と聞いた。すると清香が菜々子に顔を寄せてくる。その動きに呆気にとられていると、頬にざらりとした感触があった。至近距離にある清香とが合うと「菜々子さんの涙」と言うので、窮屈そうにしていた心臓と肺が解放されたように呼吸を始める。


「私は菜々子さんとずっと一緒にいます。何があっても味方です」


 アダムとイブに囁いた蛇がもしかしたらこんな感じだったのかもしれないとふと考えてしまうほど、菜々子には甘美な響きに聞こえた。そして菜々子は、「本当にずっと味方?」と聞き直し、応えるようにもう片方の頬を清香は舐め、儀式のように菜々子は清香の頬の傷を舌でなぞった。



 菜々子は出来る限り店に入り、赤松の下で働く日までの間、少しでも蓄えを増やそうと暇があれば働いた。赤松とは毎日連絡を取り合い、時間が出来れば店に来てもらい、短い恋人の時間を過ごした。互いに時間が空けば、少しの時間でも赤松の希望をなるべく叶えた。


 家に帰れば清香が軽い食事を作って待っていて、忙しいながらも毎日が充実していた。

 十二月二四日クリスマスイブ。赤松は年末年始、時間がなく会うことは叶わなかったが、菜々子には嬉しい誤算だった。清香を夜の街に連れ出して、雑誌で調べたイルミネーションを何件も回った。相変わらず外に出るのを嫌う清香だったが、明るい都会とは言え昼間と違いそれなりには暗い。


 いつも気にする傷で俯き加減の顔は心なしか上を向き、クリスマス一色に染まった景色を清香は楽しみ、目の中に星を作ってキラキラと輝かせ、自然と笑顔になっている。

 服は菜々子が上から下までコーディネートしたものを着ている清香は、周りの誰よりも愛くるしかった。


「どう清香ちゃん?」

「すごく、すごく綺麗です。魔法の国みたいです」


 目の前にある巨大なツリーに釘付けになりながら、可愛らしいことを言うので、思わず菜々子からも笑みがこぼれる。


「菜々子さん、私のこと子供だと思いませんでしたか?」


 清香は少しだけ口を尖らせながら拗ね顔をした。


「そんなことないわ。可愛いと思っただけ。それに――」

「それに?」


 街、いや世界中が今光に溢れているだろうこの時期。確かに綺麗だが、ただ多くの電球が使われているとしか思えず、清香のように純真な気持ちになることはできない。少なくともそれは自分が穢れているからかもしれない。冷たい空気で透明感を出している青い光の中に、何かを見つけられるかもしれないと見入っていた。

 その時、不意に菜々子の手強く握られた。


「菜々子さんの隣には私がいます」


 目が合うと、清香は照れくさそうに反らした。最近清香は菜々子に寄り添うように傍にいることが多くなった。リビングでパソコンを開けていると、膝に頭を乗せながらうとうとし始めたり、テレビを見ていると腕を絡ませながら体も預けてくる。二人での生活が当たり前になって、清香が甘えてくれるようになったのは喜ばしいことではあった。しかし清香の今までの処遇を考えると、菜々子に依存しすぎで心配にもなる。


 そんな事を考えながら反対では、清香の細胞一つ一つまで浸食する程に依存させて離れられないようにしたいと、もう一人の自分が企んでいる。しかしそんなことをすれば、今まで清香をそばに置いていた人間とかわらない。ずっと一緒だと、味方だと清香はいってはいるが「ずっと」という言葉を菜々子は信用することはできないし、いずれ清香を独立させなければとも思っている。


 清香は傷だらけで少し身体に難はあるが、気立てのいい子だ。料理も上手く、掃除も隅々まで部屋を綺麗にしてくれる。菜々子が帰るまで起きて待っているし、軽く食事も作ってくれている。こんな女性が今の日本にどれだけいるだろうか。確かにこのまま清香が言葉通りに傍にいてくれるならば、菜々子も助かる。しかし自分が幸せを与えてやることは多分できない。赤松の計画もうまくいくかわからない。


「あと二年」

「え?」


 菜々子の独り言に清香が答える。

 二年。大学を卒業して赤松の元で働きながら彼の元に行くまでだと、菜々子は自分の中で清香を手放すための期間を決めた。以前は清香を巻き込んでも構わないと考えていたが、なぜか自分のために清香を汚してはいけないように感じ始めていた。同居をし始めて情が移ったのだろう。菜々子は手袋越しの清香の手を握り返しながら、自分の顔に近づけて頬に当てた。


「そうだね」とさっきの清香の言葉に返事をしたが、胸の奥が熱い鎖で締め上げられたように苦しくなり、ほんのり目の奥にその熱が伝染してきた。


 それから三十一日の夜に清香と二人で初詣を済ませ、初日の出を見る前にマンションに帰ると、その足で周防とお参りをするために、穴場だという寺に出向いた。清香と出かけた時もそうだったが、どこからこんなに人が湧いてくるのかわからない程に、電車も道も人だらけで菜々子はうんざりしていた。


「菜々子、大丈夫か?」

「大丈夫。でも人、本当に多いわね」

「ああ、はぐれるなよ」


 周防が慣れた手つきで菜々子の肩に手を回し、体に強く押しつけられた。ジャケットを通して柑橘系の香りがしてきた。菜々子は周防に頭を預けるようにした。


「なあ」

「何?」

「俺、臭くない?」

「どうして?」

「いや何か最近、オッサンと絡むようになってさ」

「うーん……そうだね。臭う」

「え ?!」

「柑橘系のいい匂いかな」

「よかった」


 密集していた流れに少し隙間ができ始め、家族連れは道沿いに並んでいる出店で足止めされている。人並みに流されるまま進んでいると、大口を開けているような朱色でできた大きな門が現れ、人が吸い込まれていく。


 菜々子と周防も人の多さに疲れながら門をくぐる。奥には東京タワーが、新年に浮かれる菜々子たちをあざ笑うようにそびえ立っていた。幅広い石畳を進み、人の頭の間から本殿がちらほらと見え始めた時、周防が穴場だと言って意味がここでようやく理解できた。


「寺と東京タワーのツーショット」


 周防がどうだと言わんばかりに言い、勝ち誇ったように白い歯を見せ笑っている。


「なんか変な感じだね。変ってる」

「だろ? 今と昔が見える場所だと思わないか?」

「そうね」


 菜々子は歩きながら周防の体に手を回した。はたから見ればただのバカップルにしか見えないだろうがしかたがない。それにこの体制なら周防から菜々子の顔は見えない。精一杯の笑顔を見せても、どこから白けているのを知られるのは避けたかった。今更かもしれないが、それなりの配慮も必要だろう。


 階段を上り本堂の前につき手を合わせる。周りからは線香の香りが、人の間をぬって漂ってくる。周防が熱心に手を合わせている横で、菜々子は冷めた気持ちでそれを眺めていた。


「あれ? 菜々子はもういいのか?」

「え? ええ、まあ」

「就活、うまくいくといいな」

「そうね」


 菜々子は周防に赤松の世話になることを言っていなかった。本堂を離れ屋台で適当なものを買いながら、周防が春から本社での本格的な研修が始まるのだと話していた。菜々子は適当に話を合わせながら、清香の待つ部屋を頭に浮かべていた。


「疲れたーー」


 菜々子は靴を脱ぎ、玄関に倒れこむように屋台で買ってきた綿菓子を片手にリビングに入った。


「お帰りなさい」


 テーブルの上には正月らしい和食が並んでいる。


「清香ちゃんこれ」

「本当は御節料理を作りたかったんですけど、時間がなくて。来年は三十日から作り始めて、立派な御節を作りますね」

「これだけでも十分じゃない」


 赤い盆の上に煮物がセンス良く盛り付けられ、ほかの皿には野菜を湯葉で巻いたもの、卵や頭付きのエビ、栗金時にお雑煮が準備されていた。


「――すごい」

「そんなことないです。来年は楽しみにしていてください」

「今の若い子でも作れるんだ」


 零れ落ちそうなほど目を見開いていると、弾んだ声で座るように促された。菜々子も人並みの中を歩き疲れていて、自然と膝が床に着いた。


「コートかけておきますね」


 清香がいつのように上下に髪を揺らしながら、コートをかけに行く。戻ってくるとお膳が用意された席ではなく、菜々子の隣に距離を取って正座をする。


「菜々子さん。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」


 菜々子もあわてて挨拶を返した。


「あ、いえいえ。こちらこそよろしくお願いします」


 清香の三つ指を付き、冬の空気のように張った背すじのお辞儀は、育ちがわかるようだった。顔を上げた清香は「さ、食べてみて下さい」とせかし、祝箸を手にして栗金時を口に運ぶ。清香があまりにも熱心に見てくるので、心なしか緊張してしまう。


「どうですか?」

「うん。おいしい」

「よかった!」


 花が咲き始めたように清香がほほ笑む。いずれこの笑顔は他の誰かに向けられるのだと思うと、菜々子に影を落とした。


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