第39話
エリアマネージャーが急に退職してしまい、その管轄分である勤務管理をしばらく菜々子が受け持つことになっていた。決められた期日で本社にファックスをしてくるように指示をしていたが、数店舗だけが決まって送られてこずに、菜々子が店まで出向いて回収しなければかった。
事務所と店の往復をしながら作業を進めなければならず、店に受け取りに行くにも昼を過ぎなければ責任者が来ない。この日も尻を叩かなければ事務作業をしてくれない店長がいる店舗に向かった。
「お疲れ様です。本部から何度も連絡が入ってると思うんですが」
「荊木さん。今からしますんで」
顔は例えると魚類の二十代後半の男性店長は、自分目当てで資料を流してきて来ないのだろうと思っていた。厨房では仕込みをしているアルバイト男性が、チラチラと菜々子を見ている。
「荊木さん、スムージージュースはどうですか?」
魚の顔をしているのにと思いながら「大丈夫です」と返す。
「じゃあ事務所で待っててください」
菜々子が来るといつも二人きりになろうとする。そして手を動かすことより口を動かしてばかりで、なかなか店を出ることが出来なかった。
「仕込み、見せてもらっていいですか?」
「え? 仕込みをですか?」
「はい。どんな感じなのか見てみたいんです」
「面白くないですよ」
「ダメ、ですか?」
「わかりました。自分も直ぐに書類を仕上げるんで、見学しながら待っていてください。おい、荊木さんの邪魔、するなよ」
と厨房に声を掛けて事務所へ入っていく。菜々子は邪魔をしているのは魚本人じゃないかと思わず声を出しそうになった。
店はイタリア料理がメインの居酒屋で、ほとんどの食事が千円以下の設定だ。それなのに店内は高級レストランを少し崩したような内装で、安い料理を食べながら高級感が味わえる造りになっている。酒は料理の種類より多く、百種類以上はあるようだった。
厨房ではアルバイト二人が淡々と仕込みをしている。らしく見せるためなのか、本当に使っているのかわからないフライパンが、飾りのようにぶら下がっている。壁際には大人が数人は入れそうな冷蔵が置かれていた。
「冷蔵庫、開けていいですか?」
急に声を掛けられたアルバイト二人は、声を上擦らせながら同時に「どうぞ」と返事をした。中には仕込み終わった料理、生ハムや肉の塊が置かれているが、大きい割に食材が詰め込んであるわけでもなかった。
「冷蔵庫の中って、もっとパンパンに入ってるのかと思ってた」
菜々子の独り言に、作業をしていたアルバイトが答えてくれた。
「よく出る料理とか、長持ちするものは少し多めに仕入するけど、他は無駄が出ないように発注するんで」
「へえ、そうなんだ。ハムとかあるの?」
「ハムはここの会社の売りの一つだから。一番端の扉に何種類か入ってる」
菜々子は言われた扉を開くと、空腹感を思い出せるようないい香りがあふれ出てきた。上下に仕切られた中には、四つの塊がアルミのトレーの上に置かれている。トレーにはそれぞれハムの名称が書かれていた。
「美味しそうね」
「食べてみます?」
作業を終えて魚顔が、ニコニコしながら菜々子の背後に立っていた。
「じゃあまた今度、お願いできますか? 今日は他の店をまだ何件か回らないとダメなんです」
「そうなんですか。じゃあ今度是非!」
「ええ」
書類を受け取った菜々子は「必ず」と返事をして残りの店を周った。
後日、周防に連絡をとり、家族にハムを分けたいので一つほどどうにかならないと、種類を指定して問い合わせてみた。その電話を切って直ぐだった。反射的に通話ボタンを押した菜々子は、周防だと思い込んで電話に出た。
「周防さん?」
「あ、いや……警視庁の沖谷といいます。周防さんに連絡先を聞いて」
低めの渋い声が、耳から心臓に伝わり、小刻みに振動する。
「――」
「もしもし?」
「あ、え? はい」
「突然すみません。本当はもう少し早く連絡するつもりだったんですが」
「いえ。周防さんからは聞いていました」
「よかった。早速ですが、会ってお話しできないでしょうか?」
「わかりました。明日一時に、六本木の駅を出て直ぐにマッシュという喫茶店があるので、そこで待ち合わせをしませんか?」
「わかりました。明日、お願いします」
「はい」
電話を切った後、呆然と立ち尽くしていた。
「どうかしたんですか?」
傍にいた清香が入れたてのコーヒーを手渡しくれる。
「何でもないわ。それより引越しの準備は進んでる?」
「はい。でも」
「うん?」
「ここを出るのが少し、寂しいですね」
「そう?」
菜々子は出されたコーヒーを飲みながら、箱に物が詰められ殺風景になりつつある部屋を見回した。赤松と新しい家に住む事になってはいたが、清香を一緒に住まわせる訳にはいかなかった。だからと言って、清香を手放せない。新しい家の最寄駅に近いマンションに清香を移すことにした。赤松には妹として清香を紹介した時に顔の傷を見て哀れに思ったのか「何か出助けできることはないか?」と聞かれ、清香の生活の援助をしたいといった。赤松は快諾し、家賃を払ってくれることになった。生活費は菜々子が働いている間は、その給料から出すことにしている。
「家は別々になるけど、私がいる時には家にくればいいし、私が清香ちゃんの部屋に遊びに行ったりするわよ」
「でも」
「でも?」
清香は気遣うように話した。
「大丈夫、ですか?」
その言葉に中に、清香の色々な想いが込められている気がした。
「大丈夫よ。清香ちゃんの方こそ」
「私は、大丈夫です。菜々子さんがいてくれるなら」
「でも」
「菜々子さんに会うまでは、自分は生きていてはダメなんだって思ってました。でもそうじゃないって。家族を自分のせいで死なせてしまったこんな私でも、まだ生きていてもいいんだって、思えるようになったから」
「――」
清香はいつの間には強くなっていた。菜々子だけが孤島に取り残されていて、船に乗った清香が新たな陸地を見つけて漕ぎたしている。そう考えると自分はずっと止まったままだ。赤松に会ってからもそれは変わっていない気がした
「菜々子さん。今日は病院じゃなかった?」
「え? あ、うん。そうね。そろそろ行くわ」
机替わりにしていた段ボール箱にカップを置いて立ち上がった。
目の前には改修工事を数年前に済まし、綺麗な白い巨大な箱と、緑をふんだんに取り入れた公園のように大きな広場。ベンチには点滴を持ちながらパジャマを着て座っている患者。その前を車いすを押す看護婦。菜々子がいた頃は殺風景な駐車場で、息吹など感じることはなかった。そして全てが残酷だったという記憶しかない。
病院内に入ると、吹き抜けの高い天井にこれまた白い内装。病室も白。白に囲まれて過ごさせることで、時間間隔と現実味を徐々に失わせる作用があるように感じられるのは、今も変わりはなかった。
午前中、人がいつもより多く看護師たちが慌ただしく走っていた。よく見ると、待合席からは嘔吐する声がちらほら聞こえ、体をぐったりとさせている人が多い。「院内は静かに」という病院お得意の注意書きは、看護師たちが率先して破り、大声で名前を呼び合っていた。「まだなの?!」と苛々した声があちらこちらから聞こえてくる。
菜々子は受付に行き、約束していた医師の名前をつげる前に聞いてみた。
「あの、何かあったんですか?」
「ええ。集団食中毒みたいで。すみません」
「いえ」
受付の女性も忙しいのか、奥の方へと足早に消えていく。どこか緊張感に包まれた待合は、テレビを見ているような感覚だった。同時に菜々子は神を身近に感じた。以前何かで人生は振り子だと言っていた。悪いことが起きてその振り幅が大きければ、同じくらい良いことがやってくる。自分が今まさにそうなのではないか? 菜々子は椅子を埋め尽くしている患者の介抱を始めた。
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