第40話

 少し早めに着いた沖谷は、二杯目のコーヒーを頼んでいた。店は昭和を思い出させるような造りで、肩身の狭い思いをせずに済んだ。それよりかまだ六本木にこんな店が残っているのかと少し驚いていた。

 カウンターに並んでいた新聞を手に時計を確認すると、すでに一時を過ぎている。電話をするか迷っていると、入口からこの店には不釣り合いな、そうどこかの女優のような一人の女性が店に入ってきた。同時にあの家の前で見た女だと、胸が年甲斐もなく高鳴った。男性店員が駆け寄り、一人かどうか聞いている。その対応は沖谷の時と明らかに違った。

「ここで待ち合わせをしているんですが……」

 狭い店内に、聞こえる声は濁りがない透明で綺麗な声だった。沖谷は待ち人だと思ったと同時に、運命のようなものを感じた。

「荊木さん?」

 席から手を挙げ名前を呼んだ。彼女は走ってきたのか息を切らしている。声に気付き、苦しそうな顔から安心した優しい笑顔を向けてきた。

 荊木は沖谷の正面に座った。その拍子に石鹸のようなさわやかな香りが鼻をくすぐる。店員が水とオーダーを聞き、彼女が頼んだコーヒーはすぐに運ばれてきた。

「すみません。遅れてしまって」

「いえ。大丈夫でしたか?」

「ええ。病院が少し混んでいて」

「お体、悪いんですか?」

「そういう訳では」

 ほほ笑みながら沖谷を拒絶している、そう感じて直ぐ本題に入った。


「早速ですが、天田楓さんのことですが。仲は良かったんですか?」

「普通、だったと思います」

 沖谷は荊木の眩しさに、つい男としての性が勝りそうになるのを堪えた。

「何か気になった事とかは?」

「いえ。最後の方は連絡もなかったですし。だから亡くなったのも人づてに聞いたんです」

「そうですか。でも、わざわざ京都まで行かれていますよね?」

「お水の世界に入った時に、初めていろはを教えてくれた人でしたから。それが?」

 遠方まで足を運んだ事を、沖谷が責めたような口ぶりになっているようだった。

「彼女、天田さんの趣味とか聞いたことは?」

「趣味? そうですね……特に聞いたことはないかなあ」

 天田の趣向は人に言えるものではないのは百も承知だった。

「それより沖谷さん?」

「はい」

「お会いしたこと、ありますよね?」

 透き通った瞳に吸い込まれそうになった。同時に体の奥の方で何かが這いずりだし不安になる。

「ええ。一瞬だったのによく覚えていましたね」

「――」


 あの家の施工主の名前を思い出し、目の前にいる彼女とどういう関係があるのか気になった。沖谷が聞く前に、彼女が答えてくれた。

「住むんですよ、あの家に」

「結婚されるんですね。おめでとうございます」

 祝福の言葉に、彼女の顔は表情を無くした。怒っているのか、赤の他人に言われてもと思っているのか読み取ることができない。ただ冷やかに沖谷を真っ直ぐと見つめてくる。

「そういえば沖谷さんはなぜあそこに?」

 今度は沖谷が固まる番だった。昔あそこで凄惨な事件があった。それを今後住むことになる新婚に伝えてもいいものなのか。いや土地を買う時にそういうことは、事前に告知しているはずではないだろうか。沖谷は迷っていた

「もしかして沖谷さん、事件を担当されていたんですか?」

「やはりご存じでしたか」

「まあ、自分の住む場所ですから。まだ追いかけているんですか?」

「いや私はもう、年末で退職です。でもあの事件だけはね」

 そうあの事件だけは、関わった警官の人生を変えたのだ。

「犯人、捕まっていないですよね」

「我々も手を尽くしてはいるんですが」

「でも」

 彼女は窓の外を見ながら呟いた。窓越しの光が、聖なる輝きを放って彼女を祝福しているように見えた。それなのに何かの罪を背負っているような、物憂げな顔。美しいとしか言いようがなかった。


「でも犯人はそれなりの罰を受けているような気がします」

「罰?」

 彼女の瞳はどこか遠くの世界を見ていた。

「思い出しました。咲さん、お金回りがよかったみたいですよ」

「え?」

「咲さんのご両親にあった時に、そんなことを言っていました」

「そうですか」

「すみません。あまり情報がなくて」

「いえ。ご協力ありがとうございます。ですが、あの家に住むのは、気持ち悪くはないですか?」

 意外そうな顔をした彼女に、沖谷は不思議な気持ちになる。だがそんな気持ちを吹き飛ばすような笑顔で「まったく」と返してきた。沖谷は礼を言い、伝票をもって立ちあがった。

「沖谷さん」

「大丈夫です。経費で落ちますから」といい男ぶってみたものの、たかだが数百円のコーヒーにと思われたかもしれないと急に恥ずかしくなり、素早く会計を済ませて店を出た。


 押し迫る退職日は、着々と迫ってきていた。釣鐘からは「年末はうちで過ごさないか? 退職祝いをしてやるよ。それに色々と話したいこともあるしな」と何度か連絡があり、その度にただの市民になる日が近づいてくるのを感じずにはいられなかった。鎌田明理や天田楓に関しても新しいことが出てこない。拷問SMが死因だとしても、その場で死んだわけでもないし彼女らの性的趣向だ。

 沖谷は報告書をまとめて松井刑事課長に上げた。報告書には性的趣向に関しては書いたが、因果関係があるのか? と聞かれればわからない。その数日後、松井に呼ばれたが気持ちがこもっていない労いの言葉と別れの挨拶をされただけだった。

 本庁に戻る途中、急に自分の存在は何なんだろうかと考えた。若いころはノンキャリアながらも出世して同じノンキャリアの後輩から尊敬の目で見られ、大きな事件も担当して充実していたはずなのに、退職日が近づくにつれ昔の自分の栄光が霞んで幻だったのはと思える。妻も亡くし、娘は沖谷が昔そうだったように見向きもしない。今まで積み上げてきたものが、退職というだけで全て砂の城のようにあっけなく崩れてしまう恐怖。早まってしまった。そう思った。しかし遅かれ早かれ同じ気持ちなるのは否めない。辞めればただの人。それが怖かった。


 本庁の前に着いたところで、携帯が鳴った。ディスプレイには釣鐘と出ている。なかなか鳴り止まない携帯と睨めっこをするが、先に根負けをした。

「はい」

「やっとでたな沖谷。どうだ? 来る気になったか?」

「いや、まだ何とも」

「なあ沖谷。あの事件のことなんだがな」

「え?」

「いや。お前が来たら話すよ」

「何かあるんですか?」

「さあな。じゃあ来る日と時間が決まったら連絡をくれ」

 電話の向こうでニヤついている釣鐘の顔が見えた。釣鐘は昔から相手に気なるようなことをいい、お預けをくらわしてその様子を見て楽しむ事がたまにあった。本人は子供がするちょっとした悪戯気分だが、お預けを食らった方は釣鐘が教える気になるまで、悶々と過ごさなければいけない。それにどうお願いしても釣鐘は答えを言わないので、電話の意味深な内容の事も、沖谷が足を運ぶまでお預けをするつもりだろう。

 だがあの事件に関して、沖谷より先に退職した釣鐘が新しい情報を持っているとは思えない。もし何か知っているなら、すでに何らかの動きがあったはず。解けない数式に今更悩んでも仕方がないと言い聞かせて、いるべき居場所へと帰った。


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