第41話


 菜々子は新年を新築の家で過ごせるように動き、赤松に手続きや立会いを任されていた。この日はガスの開栓と建築士が来るというので、真新しい匂いのする何もない家で待っていた。武家屋敷のように広く、天井には球状の和紙で出来た照明器具。入って直ぐ右手には和室があり、左手奥には広縁がる。広縁の窓はシャッターが下ろされていたので、まだ塗料の臭いが残る部屋の空気を入れ換えるため、勢いよく上げた。家の庭には柿の木が、一糸まとわぬ姿で寒そうにしている。空は灰色に染まり、今にも雪が降りそうだった。

「すみませーん」

「はーい」

 玄関に行くと作業着姿のガス会社の男だった。その直後、今度は建築士がやってきた。

「あなたが菜々子さんで?」

「ええ」


 白髪の五十代前後の男が親しげに話しかけてくる。赤松が間取りに拘り大変だった。今どきらしくない、一昔の間取りだと言っても頑なにと譲らなかったと。

「参りました。何か思い入れがあるようですね。まあ建築家としては不満はありますが、懐かしい感じがする間取りなんですよね。まるで祖父母の家を思い出すような温かい昔ながらのね。どうです? 一応不備がないか、見てもらえませんか?」

「わかりました」

 二階の部屋から一階に戻りまた広縁に戻ってきた。

「いかがです?」

「問題はないと思います」

「よかった。じゃあもしまた何かあったら連絡をください。それとこれを」

 建築家が名刺と鍵を渡してきた。

「この鍵は?」

「これはあの廊下の突き当たりある部屋の鍵です。そこだけ鍵つきを頼まれていて、スペースも広くとってるんです。書斎にする、みたいなことを言っていました。それじゃあ赤松さんにもよろしくと」

「はい」

 菜々子は鍵を持ったまましばらく広縁から柿の木を眺めていた。



 年が明け、赤松の勧めもあり清香を家に呼んで、ささやかなパーティーをした。準備には菜々子と清香の二人でして、赤松が「いいね。女性二人が台所に立っているというのは」と嬉しそうに言いながら、壁に掛けられた大画面のテレビを見ていた。二人は作業を分担しながら料理と軽いつまみを作り上げた。

 日が落ちた外は、ちらほらと雪が舞い始めていた。食事が出来上がった時にはすでに、赤松自身が用意したワインボトルを空けてしまい、この家は最高だ最高だと言いながら目がすわっていた。菜々子は清香をマンションに送っていくからと声を掛けた。

「俺も行くよ。帰り危ないし。それに酔い冷ましにもなるし」

 別に清香のために作った料理をタッパーに詰め、三人で家を出た。冷たい空気がじわじわと肌に染み込んでくる。特に赤松が料理の感想を言っているだけで、二人は無言だった。

「ねえ二人とも。少し寄りたいところがあるの。いいかな?」

「菜々子の行きたいところならいいけど、どこへ?」

「ちょっとね。少しだけ遠回りをするだけ。清香ちゃん大丈夫?」

「はい」


 菜々子は二人を連れて真っ直ぐに続く道を、右に曲がる。家から漏れるオレンジ色の明かりは、外の寒さと関係なく暖かそうにだった。ぽつぽつとある街頭には、雪がはっきりと浮かびがって、そこだけが吹雪いているように菜々子は見えた。差している傘には、静かに雪が積もり始めた。

 数分でその場所に着くと、菜々子は周りを見渡しながら道路の脇にしゃがみ込んだ。静かだった。シンシンと雪が降る、と昔から言うように、本当に音が聞こえてくるようだった。

「菜々子?」

 赤松の呼びかけを無視して数秒、手を合わせ続けた。そして体の左側が少し暖かいと感じた時、清香が同じように手を合わせていた。菜々子は立ち上がり、

「昔ここで事故があって、人が亡くなってるの。だから」

「――そうなんだ」

「人を殺してしまう気分って、どんな感じなんだろうね」

 清香の体温が、菜々子の背中に伝わってきた。

「さあ……俺には分からないよ。さあ行こう。体が冷えてしまう」

 赤松は先を歩きながら二人を急かした。



 退職はあっという間だった。デスク回りを片付け、いらない物は捨て、いる物は箱に詰めて抱えて持って帰った。思ったより軽い箱は、まるで仕事をしていた自分の骨壺でも持っている気分だった。送別会を、と言われていたが、例の事件が長引いて形だけの誘いなのは分かりきっていたので、「ありがとう。気持ちだけもらっておくよ」と格好を付けて部屋を出た。

 本庁の出口が近づいてくると、それまで軽快だった足が徐々に遅くなり、最後には止まってしまった。自動ドアの溝が境界線のように鈍く光っている。

「どうかしました?」

 出て行こうとする若い刑事が、不思議そうに声を掛けてきた。

「いや」

 沖谷は心を決め一歩を踏み出した。同時に強い風が背中を押すように吹き付けてくる。これで自分は国家権力とはと関係のない一般市民になったんだと、改めて感じずにはいられなかった。


 直ぐに年が明け、郵便受けの束になった年賀状に入っていたのは、定年退職をしたことを知っている娘からの冷えきったハガキだった。印字だけの文字がよけいに寂しさを募らせた。再就職は四月からで、しばらくは自由に時間が使えるとは思っていたが、実際には何をしていいかわからない。買い物に出かけても、散歩をしても、時間がなかなか進まない。だからといって、家の中を隅々と掃除する気もなれない。朝は遅くまで寝たくとも、体に染みついた習慣で今まで通りに起きてしまう。

 近所付き合いもないので、一日何も話さずに終わってしまうことがほとんどだった。流石に危機感がでてきた。沖谷は携帯を手にして釣鐘に連絡をいれた。

「おお! そろそろ掛かってくるだろうと思ってた。どうだ?」

 直ぐに出た釣鐘は、沖谷の気持ちを見透かしているようだった。

「多分、釣鐘さんの考えている通りだと思います」

「そうか。で? いつから来る?」

 沖谷は壁に掛かっているカレンダーを見たが、十二月のままだった。

「じゃあ週明けにも」

「わかった。待ってるぞ」

 電話を切り、カレンダーを買いに行くという理由が出来た沖谷は、ジャケットに財布を突っ込んで家を出た。

 週明けは雲一つない青空が広がっていた。釣鐘の家に向かう途中、手ぶらではと和菓子を買うことにした。


 高速に乗り、途中サービスエリアで昼食をとった。仕事以外で、久々にのんびりた気分でハンドルを握って景色を楽しんだ。家を出て一時間半ほどのドライブは心地いい疲労感があった。

 ナビを頼りに進む道は舗装されていた。周りは山と畑が広がり、透明度の高い綺麗な川が流れている。しかし目的地直前、画面の道は白くなりその上を矢印が点滅していた。どうやらナビが古くなっているようだ。車を一旦停止させ、釣鐘に電話をした。

「沖谷です。近くまで来てるんですが、ナビに道が」と言い終わらないうち、「どの辺りだ? 目印になるものあるか?」と聞かれ、もう一度周りを見渡した。よく見ると水車小屋があった。

「それじゃあ、そのまま道を進むと左右に分かれた道があるから、そこ左に進んでくれたらすぐにわかる」

「わかりました」

 沖谷は言われたとおりに車を走らせた。直ぐに釣鐘が言っていた道が現れ、指示通りに左へ曲がる。五分ほど走ったところでこの山間にすこし不釣り合いな真新しい家が並ぶ場所が見えてきた。ちょうど集落の入り口に釣鐘らしき人物が、手を振っているのが見えた。

「ようこそ。車はこっちだ」

 誘導しながら前を走る釣鐘を轢かないように車を進める。平屋でデッキがついたログハウスの前にはそれぞれの畑があり、なかにはピザ釜がある家もあった。車から降りると、「よく来たな」と釣鐘が黄ばんだ歯を見せた。

「まあ入れ」

 スコップやら鍬が置いてある玄関から中に入ると、釣鐘は嬉しそうに説明を始めた。


「入って右がキッチンで左には風呂、トレイ、廊下を挟んで和室。右手には寝室があって、正面がリビングだ。どうだ? 広くていいだろ? この辺りは、田舎暮らしに憧れて住んでいる人間ばかりだから、付き合いも楽だしな。それと」

「あなた。とにかく座ってもらったら?」

 お茶を入れた釣鐘の妻、朋子(ともこ)が呆れながら後ろに立っていた。

「案外、近かったでしょ? 晩はここで取れた食材ばかりだから、楽しみにしてて下さいな」

 何度か、夫に着替えを届けにきた朋子を見たことがあった。きつい目で、いつもイライラしてそうなイメージだったが、印象とは真逆の優しそうな全く違った顔付きになっていた。

「え? 晩飯って?」

「今日は泊まるだろ? 美味しい地酒も用意してる」

「いや、でも、何の準備も」

「あらそうなの? じゃあ、この人の服を借りればいいじゃない。ね?」

 ニヤついた釣鐘を見て、沖谷も折れるしかなかった。夕食は六時前から始まり、八時を過ぎた頃には二人とも完全に出来上がっていた。朋子は近所で仲のいい奥さんが、旦那が用事で実家に帰って一人だから、女子会をすると言って出ていった。沖谷にも久々に楽しい酒だった。

 話は昔の事件から歴代の刑事部長の悪口で花が咲いた。時計の針がもう零時を差し、そろそろ寝ようかとなった時だった。それまで笑っていた釣鐘が、神妙な面持ちで沖谷に話し始めた。

「あの事件、一つだけ秘密にされたことがあるんだ」

 二人の間であの事件と言えば渋谷区で起こった、あの凄惨な事件しかない。酒を飲んで緩みきった頭が、急にクリアになった。

「秘密? どうして? 何を?」

 釣鐘に詰め寄るように体を動かそうとしたが、アルコールが体に回り思い通りに動かない。釣鐘は数秒沖谷の目を見た後、静かに話し始め最後にこう言った。

「仕方がなかったんだ」と。



 この日、赤松は海外出張で家を空けることになっていた。いつのように仕事を終えて清香の部屋に寄り、広い家に帰ってきた。冷え切った家の中をそのままに、持っていたバックから鍵を取り出した。以前に預かった鍵のスペアだ。二人で暮らし始めて落ち着きを取り戻してはいたが、この部屋の中を見せてくれることは無かった。そして赤松がこの部屋に出入りするのは、いつも菜々子が寝てからだった。

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