第42話

 ドアノブが回らない事を確認してから鍵を差し込んだ。気持ちよく鍵が回って手を掛けた。ゆっくりと開けると床はフローリングで壁には棚が並んでいた。書斎机があり、パソコンの横には書類が積まれている。棚には本とは別にDVDも並んでいた。菜々子は並んでいる一枚を手に取ってパッケージを見た。それは拷問が撮影されたもので、並んでいるものはどれもが同じ系統だった。机にあるパソコンを起動させ、お気に入りに入っているページを開けていくと、同じようにSM拷問、性的なものではなくただ人をいたぶり楽しむ拷問のページがずらっと入っていた。

 なかには同じ趣味を持つ者同士が集まる、SNSも入っている。菜々子は目を一旦そむけ、激しく打つ胸元を抑えながらパソコンに保存されているフォルダを開けた。中には拷問されている菜々子の写真が出てきた。もちろんそんな覚えはない。よく見ると赤松本人が合成した写真のようだ。


 次に三つある机の引き出しを上から順番に開けいく。二段目の引き出しの奥に、所々に錆びた四角い缶が出ていた。震える手で菜々子はその蓋を開けてみた。中には小さめのノートと濃い茶色の汚れが付いた布が入っている。ノートの中を見ると、ある家族をどのように殺し、その時にどんな顔をし、どんな言葉を発していたか。その時の心情が細かい字でびっしりと書き込まれていた。菜々子は全てに目を通してから汚れた布を手に取った。

 持った瞬間に何かが挟まっている感覚があった。ゆっくり開けていくと出てきたのは、小枝のような爪が付いた小指と、自分の爪よりも小さめの爪だった。

 菜々子は二つを缶に戻して部屋から出ようとした時、近くにあったゴミ箱を思いっきり蹴飛ばしてしまった。音に驚き、慌ててゴミをかき集めた。中は丸まったティッシュばかりで、そこからあの独特な生臭い精液の匂いがしてきた。赤松はセックスが嫌いなのではなく、普通のセックスでは満足が出来ない。だからこの部屋で菜々子の合成写真を見ながら、時にはDVDを見ながら性的欲求を満たしているのだと気付いた。


 菜々子は怒りで震える体を自分で抱きしめながら、何とか部屋から抜け出した。

 菜々子はその足で清香の部屋に転がり込んだ。清香をベッドに押し倒して自分の唇を清香に重ね、舌をそのままねじ込んだ。清香は嫌がることなくそれを受け入れている。それが反対に菜々子を冷静にしてくれた。

「どうして」

 清香に問いかけたが、返ってきたのはキスだった。慌てて菜々子は清香から離れようとしたが、腕を強く掴まれた。

「菜々子さん、逃げないでください。私、菜々子さんのためなら何でもします。何をされてもいいです」

 細い腕が、首に巻きついてきた。

「どこまでも、どこまでも一緒にいます」

 清香の腕をほどき、しばらく考えた。躊躇したのは、一緒にという言葉に不安があったから。人がずっと一緒にいられないという事は、身に染みて知っている。親も妹も家族ずっと一緒だと言って、いなくなった。そう言われて急にまた居なくなるのではと、ただただ怖かった。それにどうしても赤松を許すことができない菜々子がすることを見て、清香が自分を見る目が変わることも怖かった。

 彼女を引き取ってから忘れていた気持ちが蘇り、勝手に期待をしてしまう。ずっと一人で殻に閉じこもり、偽りの人生を歩んできた。一生それでいいと思っていたのに、一緒暮らし始めて秘密を知られ、それでも一緒にと言ってくれる彼女とならと思い始め、病院にも行き始めた。結局は清香が諦めて人生にきっかけを作ってくれたこに気がついた。

「清香。海の家に行ってて欲しい。後で自分も行くから。それと」

 菜々子は自分で作っていた頑丈な繭からを、徐々に破り始めて本来の自分に戻りつつあった。



 二週間の出張予定だった赤松から連絡が入ったのは、その二日後だった。菜々子は出社をせずに家にいるように言われ、それなら海の家に行くというと「それがいい」と赤松も同意した。海の家に行く事は誰にも言わないで向かって欲しいと言われたので、仕事用の携帯の電源は落とすことにした。

 テレビでは赤松の会社が起こした、食中毒事件が連日報道されている。衣服や大切な物、そして大量の食料を買い込んで清香と共に海の家でくつろいでいた。

 飲食業を展開する会社には大打撃だろう。会社はイメージダウンと株価の下落でかなりの損失に加えて、賠償請求もされるだろう。ランチを展開をしている店も中には含まれ、犠牲者数は数百人に上ると予想された。あの日、病院で手に入れた汚物をハンカチしみ込ませ、近くに寄ったと言う口実で幾つかの店を回った。キッチンにはいってさりげなく、まな板や包丁にハンカチをなで付けた。菌をばら撒くのは案外に簡単だった。

「菜々子さん?」

「うん?」

 窓際の椅子に座っている菜々子の背中に、清香が抱きついてきた。

「赤松さん。来るでしょうか?」

「来るよ。逃げてくる。地下の用意は出来てる?」

「はい」

「ありがとう。じゃあ赤松が来たらお願い」

「はい」


 テレビでは役員たちの謝罪会見が連日流れ、初日の会見で責任者の赤松が姿を現さなかった事で、かなり野次が飛ばされていた。帰国していることはすでに記者が調べ上げ、役員が出張先から向かっているという言い訳は通じるわけもなかった。

 赤松が海の家に来たのは三日後の深夜だった。上から下まで黒づくめで、バックを抱え込んだ赤松は、不審者そのものだった。

「玄一さん!」

「菜々子。すまない今はまだゆっくりとできない。とにかくこれを預かっといてくれ。またすぐに来る」

「玄一さん!」

 赤松は家にも上がらず、少し離れて止まっていたタクシーに乗り込んで行ってしまった。

 中には権利書や通帳、証券と金に関するものばかりだった。菜々子を信用してなのか、それとも切羽詰った状態で兎に角、家から持ち出したかっただけなのかは判断しかねた。

 それからは毎日、テレビで赤松を見かけるようになった。赤松からは頻繁にメールが届き、そのどれもが「どうして俺がこんな目に」という情けないものばかりだった。そのうちに記者たちが元従業員という人間を取材し、内部事情の暴露といった特集があちらこちらで放送されるようになった。どうやら衛星管理はもともと良くなかったようだった。それが安月給でこき使われていた元従業員の逆恨みの言葉でなければだが。

「もしもし」

 赤松の声はしゃがれて疲れていた。

「玄一さん? 大丈夫?」

「――菜々子。おしまいだ……」

「ねえ? 今日の晩、こっちに来たら? ね? 誰にも言わずに。待ってるから」

 しばらくの沈黙の後、

「ああ、そうだな。そうする」

「絶対に誰にも言ってはダメよ? どこから漏れて記者が来たら嫌だし」

「そうだな。もう誰も信用できない。じゃあ後で」

 電話を切った菜々子は、キッチンに立つ清香を見た。清香は小さく頷いてワインを用意してくれた。

「前祝いです」

「そうね」

 乾杯のグラスの音が悲しげに響いた。


 約束通り赤松は深夜を回った二時ごろにやってきた。疲弊しきった容姿は、四十、五十にも見えた。そんな彼に、労いの言葉を掛けながらソファに座らせた。

「大変だったわね。少しでもいいから体を休ませて。できることは協力するから」

 そのまま赤松は頭を抱え込みながら「これまで……やってきた……なのになぜ」とうわ言のように何かを繰り返し呟いている。清香が運んできてくれたワインを菜々子が受け取ると、

「玄一さん。これを飲んで」

「――なんで」

 赤松は一言だけそう呟くとワイン喉へと流し込んだ。

「ゆっくりと休んで」

 赤松の目は徐々にうつろになり始め、幕が下りるようにゆっくりと閉じていった。

「菜々子さん」

 赤松の頬を軽く叩き、完全に眠っているのを確認した菜々子は清香に頷き返した。菜々子が上半身、清香は不自由な足でふらつきながらも、足を持って赤松を地下まで運び込ぶのを手伝ってくれた。

 清香に赤松を任せ翌日、菜々子は渋谷の家に一旦戻った。そこで数日滞在して、会社役員たちから掛かってくる電話に対応をしていた。赤松が姿を消し慌てる役員たちだったが、それよりも被害者補償や謝罪行脚のため、それだけに気を取られるわけにいかないようだった。そして菜々子も「家に貴重品がない」と囁くように電話の相手に吹き込んでおいた。

 赤松が姿を消して四日目に専務が家を訪れた。一通り家の中を確認した後、念の為に警察に届けるように言われそれに従った。警察で状況を聞かれ、衣服、貴重品や通帳が消えている事を言うと「事件性はないですね」と言われ、家出人として届けるに留まった。


 一週間半ほど滞在した後、渋谷の家を出て病院に寄ってから海の家へと戻った。

 部屋に入るとちょうど、清香が赤松の食事を下げて戻ってきたところだった。

「あいつの様子は?」

「目を覚ました時は何か叫んでましたけど、今は疲れきっています。でも元気ですよ」

「そう。ありがとう」

 菜々子はグラスにワインを注ぎ、地下へと降りた。

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