第43話

 コンクリート壁は冷え切り、豆電球の小さな明かりが手伝ってどこか異国の刑務所のようだ。赤松は入って正面の壁に備え付けられた、伸縮式の十字架に縛られている。今はちょうど座っている状態で、足だけは動かせるようになっていた。

 菜々子に気付いた赤松は何か言っているが、口にボールが付いたマスクをしているから動物のような唸り声だ。近づいてそのマスクを外してやった。同時に声が響いた。

「おい! 菜々子! どういうことだ! 兎に角、外せ!」

「――」

「おい! 聞いてるのか!」

 いつもは穏やかな赤松が、鎖に繋がれて威勢よく吠える犬に見えた。菜々子はその姿をただただ黙って見ていた。次第に人間の言葉ではなく、うるさい壊れたラジオが音を垂れ流しているように聞こえてきた。我に返ると赤松は弱気な声で「周りが心配してるだろ? 早く外してくれ」と耳に入ってきた。

 菜々子は歩みより、無言でズボンと下着を脱がした。じたばたと足を動かして抵抗していたが、手の自由が封じられた赤松は、結局なさがれるまま。それに加え、食事は一日一回、死なない程度に与えているので体つきもだいぶ細くなり体力も落ちていた。下半身には小さくなったペニスが申し訳なさそうについている。

 あまりの無表情の菜々子を不気味に感じたのか、今度は撫で声で媚びた話し方を始めた。

「なあ? お前アレ見ただろ? だからこんなことを俺にしてるんだろ?」

「アレ?」

 反応した菜々子に赤松の目が輝いた。


「そうだ。以前俺は、会員制のクラブで会った女がいた。仮面を付けていてもその女の価値がわかる程の。そしてお前に会った。俺はあの時の女だと思ったが、確信がなかった。でも妹の清香を見た時、確信が持てた。嬉しかったよ。理想とする女が自分と同じ趣味なんだからな。だからわざと建築士に鍵を預けた。秘密を知ってそれを共有するに値する異性だと俺は考えたからだ。あの家の残像を俺の記録と共に分かち合う。普通の女ならそれはできない。俺くらいに立場になると、パートナーは必要になってくるから頭を悩ましていたんだ。そして目論見通りにお前は部屋に入って、俺の記念品を持ち出した。俺のしたことを書いたノートを見て想像し、興奮したからだろ? 別に責めなさいよ。でも俺は……されるのは好きじゃないんだよ!」

 強気な声が途切れて、部屋の中に鈍い音が響いた。赤松がくぐもった声をだしながら、息を吸うのに必死になっている。菜々子は赤松の口にボールを戻し、足首を摩りながら部屋に戻った。そうしなければそのまま殺してしまいそうだったからだ。

 会社の食中毒事件は、時間が経つにつれて徐々にテレビから流れる情報は短くなっていた。


「菜々子さん」

「……どうかした?」

 裁縫用の針をもって地下に向かう途中だった。

「やっぱり。声がおかしいです。体、大丈夫ですか?」

「ああ……大丈夫。ありがとう。それよりもう寝たほうがいいよ」

「でも……何か手伝えることはないですか?」

 菜々子は首を左右に振って地下に戻った。すでに体力が衰えた全裸の赤松の両足首と、キリストのように張り付けられた手首を一本の紐で繋げた。

「……おい。何をする気だ……」

 弱弱しい声が、うるさい羽虫のように聞こえた。広げられた股には、ペニスが無防備にあった。菜々子は手に持っていた箱から針を取り出す。それまで菜々子を虚ろな目で見ていた赤松が息を吹き返し見開かれた。体の奥深くに閉じ込めていた感情が、一気に吹き上げてきそうになるのを必死に抑え込む。あくまでも無表情に、淡々と作業を進めて赤松を苦しめ、悶えさせながら殺すことが優先だったからだ。

 そのために菜々子は堪え忍んできた。殺され、自分を殺して殺して押し殺して生きてきた。


 新しい針は鈍く光っていた。まず針を一つ、赤松の股間に突き刺した。

「や、やめ、止めろ! おい! 聞いてんのか! このアマ! うわぁーーっ!」

 うるさいなあ、と思いながらまた一本刺した。でも残念なことにたった三本目で赤松が気を失ってしまった。仕方なく菜々子は針の入った箱を赤松の正面に置いて部屋に戻った。

 それから一週間、一日一本針を刺し続けた。精神的に肉体的に追い込まれている赤松の姿は、会った頃の姿とは全くの別人になっていた。糞尿にまみれで頬はこけ、髭が伸びて死んでいるのか生きているのかわからないほどだった。黒々とした髪はほとんどが白く変化していた。

 菜々子はホースを引いてきて、汚物を洗い流した。ついでに赤松にも水を掛けた。

「……どうして。どうしてこんな仕打ちを……何故、どうして……」

 最近、赤松がボソボソと呪文のように言っている言葉だった。菜々子は返事をせず、次の段階へと進めることにした。


 左の手首を繋いでいた紐をほどいた。別に用意した紐を足の付け根に巻きつけ、強く何度も締め付けた。その度に赤松が唸り声をあげるが、弱弱しいものだった。赤松はその作業を不思議そうに見ていたので、目を合わせながら何度も紐を強く引いた。

 作業を終えて部屋に戻ると、清香が温かい食事を用意してくれていた。清香は地下で菜々子がしていることを知っている。それでもこうして普段通りにしてくれることに感謝はしていた。しかし自分同様、この異常な空間でも普段通りにできる清香もどこか壊れているのだと思えた。壊れているからこそ、清香は菜々子を受け入れることが出来ているのかもしれない。

「菜々子さん。冷めないうちに」

「ありがとう」

「あの!」

「ん?」

 用意された味噌汁に箸を付ながら菜々子は清香を見た。

「本当に大丈夫ですか? 声が掠れてきてないですか?」

「心配はないよ。早く食べよ? そうそう赤松はしばらくあのまま放置しておいて。食事は三日に一回に減らして用意しておいて」

「はい」


 菜々子は時間があれば地下に戻り、苦悶する赤松を眺めていた。どんなに苦しんでいても、どんなに苦痛からくる声を上げても気は晴れない。

 菜々子はホームセンターに行き、日曜大工用品を買ってきた。直ぐに地下に行きペンチで手の爪を剥がしにかかった。ペンチが指に食い込み、悲鳴を上げる。力いっぱい引っ張るとその声は鳥の断末魔のような声にかわった。赤松は痛みで覚醒したのか、必死で指を動かして逃げようとしているが無駄な足掻きだった。

 剥がした爪にはピンク色をした肉らしきものが付着していた。この日は右手の爪だけを剥がして、ほんの僅かながら心の霧が晴れた気がした。

 日が経つにつれ、縛った足は血流がとまり壊死し始めていた。生きながらに腐っていく足の激痛は相当なものなのか、一日中赤松は、縛られた体を捩りながらのたうち回っている。部屋には腐臭と垂れ流さしの糞尿の臭いで、鼻がもげそうだった。それにどこからともなくわき始めた虫が、耳障りなほど飛んでいる。

「頼む。殺してくれ。頼む!」

 もちろんその訴えに表情を変えずに、赤松に苦痛を与え続けた。

 憎んでも憎んでも足らない相手が、苦痛から解放されるために望みを叶えてくれるとでも思っているのだろうか? だがなぜ自分がそんなにも憎まれているのか、本人は分っていない。それを知らないままに、苦痛を存分に味わって死んでもらうことが復讐だった。


 沖谷は釣鐘の話にショックを受けていた。

 あの後、何を話してどうやって家まで帰ってきたかのもハッキリとは覚えていなかった。

 呆然としたままテレビをつけると、数日前に起こった食中毒事件の続報が流れていた。テレビをBGM代わりにしながら、空中分解したような思考を一生懸命に集めた。帰ってきてから食事もせずただ考えた。徐々に考えがまとまりだした頃に、やっと腹が減っていることに気付いた。台所でインスタント麺を湯がいて啜った。

 いままでBGM代わりに聞いていたテレビに、やっと目と耳を傾けることが出来た。食中毒を起こした会社はあの赤松が経営する会社だった。

 沖谷は風呂に入って頭をスッキリさせると、身支度を整えてあの家に向かった。赤松の家の前には数人の記者らしき人間がいた。その中に見知った一人がいた。

「久しぶりだな」

「あれ? 沖さん。どうしたんすか?」

 警視庁時代、事件が起こるたびに追いかけてきた記者の井上だ。

「いや、ちょっとな」

「そういえば定年したんすよね?」

「ああそうだ」


 井上は沖谷の心を読んだのか「残念でしたね」と言った。

「ところでこの家の住人は?」

「ああ、どうやらどこかに逃げちゃったみたいで。今、ここは食中毒事件を起こした社長が住んでるんすよ。なんか、呪われてるって感じっすね」

「そうか。がんばれよ」と声を掛けてその場を離れた。携帯を取り出して本庁の後輩に連絡をとった。色々と世話をしたので、多少の無理を聞いてくれるだろうと思ったからだ。相手は少し渋ったが、恩着せがましく追い詰めると首を縦に振ってくれた。だが少し時間が欲しいと頼まれそこは飲まざる得なかった。

 三日後、後輩からの連絡が入り、本庁に近いカフェで待ち合わせた。

「沖谷さん。勘弁してください。暇なときは全然いいんです。でも今はほら」

「わかってる。すまなかった。それで?」

 手渡された封筒の中を確認した。

「でもどうしたんですか? そんなの調べて。記者にでもなるつもりですか?」

「まさか。ありがとうな」

 沖谷は二人分の会計をして店を出た。

 後輩に頼んでいたのは、赤松の不動産関係の資料だった。その中に一つだけ、リゾート地の物件がある。直ぐに沖谷は資料に書かれた住所へと向かった。少し寒さは和らいだとはいえ、海辺の地域は寒かった。家には誰もいなかった。仕方なく沖谷はヨットハーバーをブラブラと歩くことにした。陸に置かれたヨットは、自分がちっぽけで小さな人間だと見下ろされているようだった。


「金持ちって多いんだな」

 これからも縁がないヨットを興味本位で覗きながら歩いていると、桟橋に他よりは小さめのヨットから二人、大きな保冷箱を両脇に持ちながら降りてくるのが見えた。距離が近づいてくるにしたがって、鼓動が激しくなってきた。そして相手も沖谷に気付いたようだった。二メートルくらいの距離を保ったまま、両者は立ち止った。

「あら、いつかの刑事さんと周防さん」

「え? 」

 思わぬ名前を言われ振り返ると、ジーンズにジャケットと、以前に見たスーツとはまた違ったあの周防が立っていた。

「どうして君が……」

「後を付けてました」

 無表情で目は自分を通り越して荊木を見ていた。このまま話をするべきか迷った。ふと沖谷は荊木に隠れるように立っている小柄な女と目が合った。

「妹の清香です。先に戻っててくれる?」

 清香と呼ばれた女は無言で頷き、荊木と同じように両脇にクーラーボックスを抱えながら、沖谷の隣を、足を引きずりながら走り去った。


「足、悪いんですか?」

「ええ。何か御用があるんですよね?」

「ええ。ですが……」

 沖谷は周防を一瞥した。

「構いませんよ。周防さんも一緒で」

 すぐ横で波がボートに当たって音を立てた。周防は背後で石造のように立ったままだ。

「そうですか。では荊木さん」

「はい」

 相手の雰囲気が鋭くなった。沖谷は続けた。

「赤松玄一。彼が犯人だったんだね?」

「犯人? そうですね。多くの人を病院送りにしたので」

 荊木は本当に悲しそうに、赤松玄一に同情をしている素振りをしていた。同時になぜここに来てしまったのかと後悔もした。しかし確かめずにはいられなかった。

「違います。新しく建った家で、昔あった事件の犯人という意味です」

 彼女の表情は変わらなかった。

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