第44話

 あの日、釣鐘から告白されたのは当時、病院に運び込まれた霜野(しもの)夏樹(なつき)は医師の懸命な処置で命を繋ぎとめることが出来た。しかし切り取られたペニスはどうすることもできず、医師と親戚で話し合って性転換手術と同じような施術を行ったらしい。

「何故、そんな事を!」

 沖谷は釣鐘に詰め寄った。

「俺も初めはそう思ったさ。でもな考えてみろ。男としての機能を無くして学生生活を送るんだぞ? ましてやまだ小学生だ。プールや行事ごともある。確かに酷いかもしれないが、生きていく上では最善だったと俺は思う。それに霜野夏樹は死んだとすることによって、社会復帰する際に彼だとは気付かれない。何より犯人に生存していることを知られれば……わかるだろ?」

 釣鐘のいう事はもっともだった。しかしまだ小学生でそれはあまりにも酷なことだっただろう。そして荊木という親戚の家に引き取られ、女の子として育てられることになり、菜々子と名前を変えているという事を知った。後輩に調べてもらった資料の一つには、戸籍は本名の夏樹のままだった。


「当時、霜野夏樹くんの生存は警察トップの一部にだけ知られていたらしい。でもどういう経緯か知らんが、ある刑事耳に入った。そして定年退職した自分の耳に流れてきた。聞いた時は頭が真っ白になったよ。同時に違和感があった。君が男といることに。事件当時、霜野夏樹くんの人柄も聞き込みで知っていた。確かに男としての身体的特徴を失い、女として生きるために服装も変えなければいけなかったはずだ。だから男を好きになってしまう可能性も、今の時代不思議じゃない。でも刑事の勘ってやつかな? 自分の意志とは関係なく性器を無くした男が好きになるのは男だろうか? って」

 荊木は相変わらず無表情で、沖谷の話に耳を傾けていた。

「体は女になっても、男として生まれた人間が近づく男がいるとしたら……もしかしたらその男が犯人じゃないかって」

 急に吹き付けた海風が、荊木の長い髪を舞い上がらせ、蝶の羽のように広がった。それは本当に一枚の絵のように美しかった。



 菜々子は沖谷の話に耳を傾け続け、話を切ったところで背後から強い風が吹き付けてきた。そして背中を押されたように今度は、菜々子が口を開いた。

「あの日、僕は買い物を母さんに頼まれたんだ。でも途中で友達会って帰るのが夕方になってしまったんだ」

 そう。いつも家に帰ると、妹の愛菜が舌足らずな挨拶で出迎え、その後ろから母親が「お帰り」と必ず出迎えてくれていたのに、その日はやけに家の中が静かだった。

「ただいま!」と何度大きな声を出しても、返事はなかった。いつもはない静けさが家の中を覆い、お湯が沸いている音、テレビの音だけが響いていて、知らない家に足を踏み込んだような錯覚を起こしそうになった。

 夏樹は不思議に思いながら、いつものようにリビングへ入った。ちょうどソファ越しに男が一人立っていた。初めは父親の友達と思ったが、すぐに違うとわかった。なぜならその男はまだ若く、そして自分のペニスを握って動かしていたからだ。

 夏樹に気付いた男は手を動かしたまま、じっと自分を見ていた。状況を把握しきれなかった夏樹は、ただ木のようにその場に立ち尽くしていた。リビングテーブルの下から、愛菜らしき足が見えていたが、ありえない方向に向いているのを見て、脳がそれを知ることを拒絶していた。むせ返るような、嗅いだことが無い臭いに息が詰まりそうだった。


 ドクドクと体中の血が一気に回りだしていた。男はニヤリと笑いながら「これで最後か」と言った。

 夏樹は逃げることが出来なかった。足がすくんで床に張り付き同時に、全てを悟っていた。

「君が早く帰ってこないから」と夏樹の前にしゃがみ込んで言った。耳にはピアスのような黒子があった。それから腹部を殴られた感じが、直ぐに熱い塊になって鈍い痛みが瞬時に体を駆け巡った。朦朧としてきた意識の中、男が服を脱がしているのは理解できた。沈んでいきそうな意識の中で「ああ、最後に僕は悪戯をされるんだ」と考えていた。

 刺された時からすでに、夏樹の中で恐怖は消え失せていた。死を感じていたせいだろう。完全に意識を無くした時に何かを感じたが、もう暗い暗い底に沈んだ方が楽だと脳が指令を出して、抗うことなくそれに従った。もう浮上することはないと思っていた夏樹は取り込まれた暗い場所で夢を見ているのだと思っていた。

 体が揺れる感覚、口の中に何かが放り込まれても、体と意識が別離しているような妙な感覚だったのを覚えている。耳から入ってくる言葉もただ靄の中から聞こえてくる、得体のしれない呪文のように聞こえていた。

 その後は自分が知っている畳の感触がずっとあって安心してまた、暗い底なし沼に身を委ねた。

 次に目を開けて飛び込んできた白い天井と硬いごわごわしたベッド。意識がハッキリとしているのに、体が動かない恐怖。この時夏樹は、また夢が続いているのだと思った。


 しかし看護婦が夏樹の意識が戻っているのに気づき、白衣を着た医師が慌てて夏樹に話しかけてきた。それが現実だと認識するまでそう時間は掛からなかった。

 男が家族にしたこと、自分に何をしたのかが一気に霧が晴れたようにハッキリと思い出した。あの呪文のような言葉で自分が何を口にしたのかも。暴れる夏樹を看護師や医師が押さえつけ、チクリとした痛みがしたと思うとまた意識がまどろんできたのを覚えている。

 その後は医師のカウンセリング、荊木の伯父たちとの対面、自分の体が女になってしまったことを、どこか遠くから音のように耳に流れてきていた。伯父たちは毎日の夏樹に会いに来た。夏樹が小さいころに会ったことはおぼろげながら覚えてはいた。しかし海外に住んでいたこともあり、ほとんど行き来は無かった。それに加え、事件のショックから二人になかなか馴染むことも難しかった。

 次第に事件の事は嫌でも目、耳にするようになっていた。そのために転院もした。もともと長めだった髪は、肩ぐらいまで伸び、鏡で見る姿は変化した体に合ったものになってくるのを受け入れられず、暴れることもよくあった。それでも周りは根気よく夏樹に付き合ってくれていた。そして夏樹を落ち着かせるために必ず大人達は、「家族は不幸な事故だったんだ」と、まるで刷り込ませるように言い続けていた。それが事実だと思うと、諦めがつき始めていた。でも、現実はそうではない。頭では事故と言い聞かせ、心は常に現実を知っていた。


 夏樹に「すまない。こうするしかなかったんだよ」と伯父たちが悪くはないのに、涙を流しながら謝る姿を見るうちに、全てを受け入れるようになっていた。手術をする際、医師からの説明を受けた伯父夫婦が損傷から男性性器をどうすることもできないと言われて、震える手で同意書にサインをしたと看護士が教えてくれた。「だから恨んだりしないであげて」どう足掻いても、何を叫んでも、泣いても、何も元には戻らない。ガラガラと音を立て全てが崩れ砂になり、サラサラという音がずっと耳にあった。未来もすべてが霞んだものになった。事件から数年以上が経ち、全てを諦め、『菜々子』を受け入れるようになっていた。

 髪は肩の下まで伸び、もともと端正な顔立ちは女の子そのものになっていた。伯父夫婦は夏樹のために引越しもしてくれた。子供ながらに期待に応えなくてはと思い始めていた。

 ただ伯父は夏樹という存在を忘れているように見えていたが、伯母は違った。自分を見るたびに、本当にこれでよかったのかだろうと、自問しているような姿を何度か見てきた。その表に出せない感情が、必ず会う時に合言葉のように言ってくる「無理しなくていいのよ」だった。

 だが菜々子として夏樹が生きて時間を越そうとしているのに、今更どうすればいいのか。それでも伯母だけは夏樹を消さずにいてくれた。菜々子という通名を使い、戸籍や大学の登録は本名にしてくれていたのだ。それは嬉しくもあり時に、感情を強く揺さぶった。


 思春期は地獄だった。異性を意識し始めた回りが、自分を女として見ているのだから。周りは素直に自分の気持ちを打ち明けている姿は、言い難い虚無感を与えてくれた。だから自らあまり人と関わることをせずに、最小限に留めてきた。女の格好をした自分が好きな子に告白なんてできるはずもないのだから。

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