第45話

 無残に家族を殺され、男として生きることが出来なくなった気持ちなんて、誰にも理解出来るはずがない。

 夏樹は本を朗読するように淡々と話した。


「沖谷さんが僕を見つけたんですよね?」

「え?」

「病院で聞いたことがあったから。でもさ沖谷さん。僕はあなたの事も憎かったんだよ」

「――」

「あのまま放置しておいてくれれば、こんな苦しい思いをしながら生きなくて済んだんだ。大好きだった肉も、あれ以来食べれなくなったし。ねえ? どうして助けたの?」

「――そ、いや。人を助けるのが仕事……」

「僕、全く助けられていないよ? ねえ? どうして?」


 沖谷は頭を抱え込みながら顔を歪めている。そして絞り出すように声を出した。その後ろで周防は目を丸くしていた。きっと今、何が話されているのか必死で理解しようとしているに違いない。


「俺は……だからあの時、胸を撫で下ろしたんだ……君が死んだと聞いて。現場を見ていたからな。まさか生きてるとはつい最近まで知らなかった。だからその話を聞いた時、ショックを受けたさ。自分に置き換えたら、あまりにも惨い人生だ」


 以前、喫茶店で会った時とは別人のように、沖谷が小さく見えた。


「それで僕があの、霜野夏樹だと知って満足した? 沖谷さん」


 長い沈黙のあとボートの隙間をぬって風が音をたてた。少し落ち着いたのか、沖谷はしゃべり始めた。


「妹は死んだはずだ」

「あの子は、清香は僕が引き取ったんだ。僕と似たような境遇でね。それに事件があった同じ日に、近くで家族をトラックに轢かれて死んでるんだ。その日は彼女の誕生日だった。家族構成も両親と妹で同じ。小柄で幼く見えるけど、ああ見えて僕と同じ年なんだ」

「同じ日? トラック……まさか!」


 清香は妹には似ていない。ただそういう口実にしたかったのだと後で気づいた。ただ家族が欲しかったのと、あそこまで傷つけられた人間なら本当の自分を知っても受け入れてくるんではないだろうか? そんな考えが奥深くにあったのだ。事実、清香は秘密を知っても夏樹を受け入れてくれた。それだけで十分だったはずなのに、好きになっていた。初めは情に流されているだけだと、思い込もうとしていた。でも今まで体に感じたことがない欲求の熱でそうではないと自覚した。それでもあくまでも菜々子を演じ続けた。


「もういいですか? 清香が待っているんで」

「待て! 赤松は? 家に寄ったがいなかった。どうしたんだ?」


 沖谷の視線は、持っていたクーラーボックスに注がれている。無粋な質問だと思ったが答えることにした。


「海で魚たちと戯れているんじゃないかな。その中の魚がいずれ人の体の中に入るかもしれないけど、魚が食べられなくなるわけじゃないし」

「バラバラにして」

「そうだよ。沖谷さん。僕を捕まえるの? どうして? 赤松を捕まえることができなかったくせに」

「――すまない。俺には逮捕する権利はもうない。定年したからな」

「そうだったね。じゃあなぜここに?」

「事実なのかを……確認したかったんだ」

「じゃあ満足だよね? 自分が助けてしまった子供が、意に反して女として生きていて、犯人に復讐して殺して海にばら撒いた。めでたしめでたし」

「すまない。すまない……」


 沖谷は膝を付き、泣きながら謝っていたが、何にたいして「すまない」なのか考えるのも嫌になった。夏樹は最後に言った。


「もう僕の前に姿を現さないでください。それと僕を通報するならしてくれてもいい。まだ僕に苦しみを与え続けたいのなら」


 夏樹が横を通り過ぎる時に、懺悔するように掌を組んで額に当てている姿を見て、この沖谷は何を思ってこんなポーズをとっているのか不思議だった。もうこの初老の元刑事にも会うことはないだろう。そのままヨットが並ぶ道を歩き始めた。その後を周防は糸で引かれるようについてきた。

 進んでいくと、何列か並んだヨットの墓場のような場所に着いてそこで足を止めた。


「周防さん。どうして沖谷を付けてたの?」

「――」


 返事はない。ただ狂気のような雰囲気を纏う周防を、夏樹も今まで見たことがない。普通なら周防の雰囲気にのまれて恐怖が生まれるのかもしれないが、何も感じなかった。周防が後ろで隠し持っていたナイフを自分に向けても。そして徐々に近づいてきた。でも夏樹はそこから一歩も動かない。怖くて動けないのではない。心底疲れ切っていた。

 常に誰かを憎みながら菜々子は成長してきた。その根源となるものを排除した時にそれから解放され、晴れやかな気持ちで生まれ変わり、新しい人生を歩んでいける。自分自身が描く未来図は明るいのに、細胞にまで絡まったがん細胞のようなものが居座り続けている。スッキリとした気持ちもやり切った気持ちでもない、ただの疲労感。何も変わりはしなかった。ただ荷重されたように足の裏に長く重たい影が張り付いて歩いているようで、足がもげそうだった。


 赤松を殺したことはそれなりに満足はしている。少なくとも両親、妹が味わった理不尽な気持ちを味わせる事が出来たはずだ。

 周防がもう目の前まできている。この人間は自分が理想とする男そのものだった。自分が普通に大きくなっていれば、こんな男になりたかったというそのものだった。だから初めて会った時に、それを何の苦労もなくまた当たり前だと思っている周防に腹が立って仕方がなかった。練習とはいえ結局は無駄になった悦ばせる方法も、実は自分が男だと知った時にショックを受ければ面白いと考えていた。


「心配になってずっと探してたんだ。でも海の家の場所がわからなかった。そしたらあの刑事を街で見かけたんだよ。あいつを尾行していれば会えるんじゃないか? って」


 言葉と持っている物があまりにも違って、笑い出しそうになるのを耐えた。周防はいつから持ち歩いていたんだろうか? そんな疑問も直ぐにどうでもよくなった。昔に味わったあの鈍い痛みと熱が一点に集中して、焼けるような熱さが体を襲った。


「――」


 周防は夏樹を何の感情を持たない目で、ただ見ていた。夏樹もなぜ刺したのか、聞きはしなかった。倒れる時に目が合った周防は我に返ったのか、信じられないという顔をして、ナイフを投げ捨てて走り去っていったのが見えた。

 アスファルトに仰向けで倒れ空を見ることなんてない。貴重な体験をしていると関係ないことばかり考えていた。徐々に瞼が重くなってきた時、清香の呼ぶ声が聞こえてきた気がした。



 目が覚めるといつかのように白い天井が目に飛び込んできた。体を動かすと痛みが走った。


「菜々子さん? 菜々子さん?!」

「……清香」

「先生、先生を呼んできます!」


 いつものように跳ねながら病室を出ていくのを、まだぼんやりとしていた目で追った。直ぐに白衣を着た医師二人と看護婦を連れて戻ってきた。一通り体を触られた後、

「もう大丈夫だよ。あと数日で退院できるでしょう。じゃあ後は宮本先生」

「はい。お手数をお掛けしました」


 外科の医者と看護婦が部屋を出ていき、医師の宮本と清香の三人になった。清香はずっと「よかった、よかった」と泣いている。


「宮本先生」

「全く……診察の約束をすっぽかしたと思えば、今度は刺されてくるんだから驚いたよ。さてそこの泣いている……」

「清香です」

「そう清香ちゃん。ちょっとロビーで待っていてくれるかな? 二人で話をしたいから」

「はい」


 清香は夏樹が止めないのを、恨めしそうにしながら病室を出ていった。


「あの子に、僕のところに連れて行くようにお願いしたみたいだね」


 意識が無くなりかけた時、清香が駆け寄ってきて咄嗟にこの病院名とお世話になっている宮本の名前を言ったのをおぼろげに思い出した。死の淵に体の半分を持っていかれても、全てを投げ捨て楽になりたいと考えていても、結局はそこから抜け出して生きたいと思っていることに喪心しそうになる。その浅ましさに嫌気がさした。


「僕の事情を一番知っているのは先生ですから」

「そうだね。ところで君が最近になってホルモン治療をしたいと言い出したのは、さっきの子が原因かな?」


 宮本は嬉しそうな顔をしている。


「――」

「まあいい。ただ私は嬉しいだけだよ」

「嬉しい?」

「そうだ。君は全てを諦め過ぎていた。大人の俺が見ていても胸をえぐられそうなほどにだ。だが今の君はそうだなあ……子供が未来に向けてキラキラさせているような目、とでもいうかな。希望を抱いているように見えるんだが」


 今まで男に鳥肌が立つような言葉を吐いてきた。宮本が言っている言葉はそれに比べれば何てない言葉なのに、聞いている方が恥ずかしくなった。


「まあ何故刺されたのか、聞きはしないさ」

「警察には」

「言ってない。本当は通報するんだけど、上手く収めておいた。それとも言った方がよかったか?」

「いえ。助かります」

「さて今後の君について話をしようか」

「――」


 周防に刺された傷が痛んだ。


「傷が完治したら、転院をしてもらう。この病院で私がこのまま君の担当をしてもいいんだが、今回の件で静かに治療するもの難しいだろう。もちろん我々には守秘義務があるんだが、看護士達も噂好きの人間だ」


 要は刺された患者で、警察には通報されなかっただけでも目立つのに、ここで女の姿から治療を始めると夏樹にも精神的負担がかかるということだろう。ここから始まったのだから、やり直すならここからという思いもある。夏樹は悩んだ。その時、乱暴に病室の扉が開いた。


「すみません! 荊木です。うちの子が」

「おば……さん」


 伯母は入口で生きている夏樹を確認して気が緩んだのか、そのまま座り込んでしまった。宮本が「大丈夫ですよ」と椅子まで支えた。


「よかった……よかった……」


 泣きながら伯母は夏樹の手を力強く握りしめた。

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