第46話
伯母の手はこんなに小さくて、温かっただろうか? ふと自分の手はそんな伯母に握られるほど清いものではないと思った。でもその温もりは心地よく、無下には出来なかった。
「――夏樹」
体が跳ね上がった。
「ごめんね、ごめんね」
「どうして、伯母さんが謝るの? 伯母さんは悪くない」
悪なのはあの男ただ一人。人を思いっきり嬲り殺してみたいという欲望を実行した男。
たまたま居酒屋で会った、外人慣れしたフレンドリーな父に近寄り後をつけて家を確認して、後日入り込んできた赤松。メモ帳にそう書かれていた。
「夏樹の手術を承諾したのは私たちです」
「でもそれは」
宮本が口を挟もうとしたが、伯母が遮った。
「いえ。それだけで本当は良かったのかもしれないのに、好奇な目にさらしたくない、だから体に合った生活をと思って上辺だけですが名前を変えて生活をさせてきました。でも成長にするにつれ、それはこの子にとってはただの苦痛でしかないんじゃないか? だってね、徐々にこの子の目が死んでいっているように見えたんですよ。でも言い出せなった。成長して落ち着けば、ホルモン治療も受けれるから元に戻れるように頑張ってみてはと……夏樹という名前を捨てさせるように菜々子と名付け、そしてまた夏樹に戻ってみてはどうか何て……でもこの子から養子縁組を解いて、霜野の性に戻りたいと連絡を受けた時、どこかで胸を撫で下ろしたのも事実なんです。これで解放してあげられる。やはりこの子は夏樹という名以外の誰でもない。やはり自分たちの主観だけで苦しめていたと。だってもともと菜々子という名前の女の子なんて本当は存在しないんですから」
「伯父さんは?」
涙で目を真っ赤にしながら続けた。
「あの人は、寂しいけど仕方がない。それに間違っていることは薄々気づいてはいたけど、それを認めたくなかったって。でも自分たちは子供を授かることが出来なくて、夏樹が家に来てくれた時は、本当に嬉しかったし愛しかったって。でもすまなかったって」
「――違う」
どうしてもう関係が無くなるというような言い方なんだろうか。さっき伯母は奈々子という女の子はいないと言った。夏樹に戻るだけで、もうあの家には帰ってきてはいけないと言われている気がして胸が痛んだ。
夏樹は知っていた。伯母や伯父の温もり、どこか卑屈になりながらも大事にされているというあの安心できた日々。一緒に暮らし始めて不安定だった頃、寝付くまで二人に挟まれながら両手を繋ぎながら寝た日々。虚無感を抱きながら学校から帰ってきた日は、いつも何も言わず抱きしめてくれた伯母の香り。でも受け止めてしまうと、殺された本当の家族を裏切ってしまうようで怖かった。頑なにいなくなった家族に執着していた。だから伯父たちを「お父さん、お母さん」とは呼べなかった。
赤松を殺してもなかった罪悪感が一気に襲ってきた。
「夏樹君。泣くなら思いっきり泣きなさい」
宮本が笑みを浮かべながら、よくわからない事を言っていた。その言葉に呆けた顔している夏樹に「君は今、泣いているんだよ」と言われる。
「え?」
握られたままの反対の手で顔を触ると濡れている。
罪悪感からなのか、もう菜々子を演じなくていいという解放感なのかわからない。でも泣いているということを理解すると、激しさを増してきた。
「……さん……お母さん」
夏樹は伯母の皺が多くなった柔らかい手を、力強く握りながら言葉を繰り返しながら泣き続けた。
その年は特段に寒く、首都圏でもホワイトクリスマスが期待できると、天気予報で何度も言っていた。しかし寒いだけで欠片も雪は舞っていない。それでもカップルたちは空を見上げて楽しそうだった。待ちわせている恋人たちが、少しずつ場所を離れて雪のように人混みの中に消えていく。
「すまない。仕事がバタついてさ。待った?」
均整のとれた顔と身長の夏樹が現れた途端、彼氏を待っている女達の視線を一気に集めた。彼女を待っている男は、見なかった事にするかのように視線を反らしていた。
「大丈夫です。私も」
「嘘だね」
そう言って彼女の頬を両手で包み込んだ。
「それと敬語」
「あ、すみ、ごめん……ね?」
「よくできました」
破顔しながら彼女の頭を撫でていると、携帯が鳴った。取り出した携帯画面を見て頬を緩めると、その笑みでまた注目を浴びている。
「誰から?」
「お母さん」
「何て?」
「それは言えない」
「え?」
男が女をこれほどまで慈しむ目で見ることがあるのか思えるほど、彼女を見ている。その熱すぎる視線に絶えきれなくなったのか、「えっと……今日はどこに行くの?」と聞いてきた。
「付いて来ればわかるよ。さあ行こう」
「うん。夏樹さん」
足が不自由な彼女の腰に手を回し、ポケットに入っている指輪に気付かれないように清香をエスコートしながら、冬の人海へと溶け込んでいった。
了
イミテーション・バタフライ 安土朝顔🌹 @akatuki2430
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