第38話
沖谷は報告書を適当に仕上げ、生活安全部を訪ねた。
「あなたは確か」
「沖谷です。一課で少し捜査を頼まれた」
「ああ」
がっしりとした体格に髪型は角刈り、色が少しついた眼鏡をかけた刑事だ。
「それでどうかしましたか?」
「いえ少し教えてもらいたいことが。暴力犯で把握しているSMの店を教えてもらいたんです」
「SM? 風俗のですか?」
「ええそうです。それも普通のSMの店ではなく、ハードな店で」
「はあ……」
髪が油で光っているのを見ると、どうやら何か事案を抱えているようだ。ほんの少し悪いと沖谷は思ったが、男が紙切れを持って戻ってきただけだったので直ぐにそんな気持ちはなくなった。
「このIDとパスワードで渋谷署管理の店の一覧が見られます」
「ありがとう」
「いえ」
デスクトップ画面にある渋谷ネットと書かれたアイコンから中へ入った。署内のデータをネットでやり取りできるソフトだ。教えられたIDとパスワードで入り、生活安全課のデータ内を検索した。あらかた目星をつけた沖谷は、データをプリントアウトして店を周ることにした。
周防と会うまで余裕はたっぷりあったはずなのに、気が付くと約束の時間が迫っていた。携帯に日本橋にあるコーヒーチェーン店を指定され、待ち合わせ時刻ぎりぎりに着いて店内を見回した。店の奥にあるソファ席に、あの履歴書に張られていた写真と似た男が座っている。「周防さん?」と声を掛けた。
「はい。沖谷さん、ですね。どうぞ」
写真と雰囲気が違うのはスーツを着ているだけでなく、一社会人としての責任を負うようになったからだろう。精悍な顔立ちは好印象を与え、交際相手がいるなら家族に温かく迎えてもらえそうだと思った。
「お忙しい中、申し訳ない」
「いえ。それで?」
「クラブミッシェルで昔、働いていましたよね?」
「働いていた、というよりは、大学の先輩に頼まれてですが」
「そうですか。それで当時ホステスの咲、天田楓という女性が亡くなっていますよね」
「はい。自分が第一発見者でした。ママからずっと休んでるし連絡が取れないから、ちょっと様子を見てきてくれと言われたんです。そしたら目出度く発見者になりました」
「周防さんが第一発見者」
「ええ、そうです」
周防が少し訝しげに見てきたが、気にせずに続けた。
「店がそんなことを頼むんですか?」
「ええ。売掛金とかありますから」
沖谷はああ、と納得しながら続けた。
「それでですね当時、天田さんを訪ねてきた女性がいましたよね? 周防さんが対応したそうですが。かなりの美人で名前は確か……」
考える振りをしながら、周防を目の端で見る。周防はコーヒーに口を付けた。
「ああ、確か荊木と名乗っていました」
「イバラキ?」
「くさ冠に刑事の刑に木ですね」
「連絡先、教えてもらえませんか?」
「え?」
明らかな動揺を周防から感じた。
「いや、俺は……」
「話しただけじゃ、名前の漢字なんてわからないですよね? 普通」
周防は観念したのか、鞄からメモを取り出し携帯番号を書いて差し出してきた。
「それでその、荊木さんとはどんな関係で?」
「大学の後輩で、ただの友達です」
「ただの?」
周防が睨むように見てきたが、痛くも痒くもない。
「ええ。ただの友達で後輩です。もういいですか?」
「あと一つだけ」
立ち上がろうとした周防は最初の好青年の雰囲気とは打って変わり、明らかに不機嫌で早く切り上げたい気持ちをダイレクトに体から発していた。
「天田さんを発見した時の様子をいいですか?」
「体は傷だらけで、力尽きて倒れた、という感じでしたね」
「そうですか。何か天田さんについて当時、気になったこととかありましたか?」
「いえ。自分はただのボーイでしたし、ホステスには興味がなかったんで」
「ありがとうございました。また何かあったら連絡させてもらいます」
周防はわざとらしいため息を吐くと「それじゃあ」と席を立った。沖谷の横を通り過ぎる時、「荊木さん相当の美人らしいですが、周防さんは友達なんですよね?」今度は明らかに敵意がこもった目で睨み付けてきたが、周防はそのまま店を出て行った。
赤松から一緒に住むという提案を受け入れた菜々子は、仕事をしながら準備に追われていた。外観、間取り、内装は赤松のこだわりがあるからと菜々子に口を一切出させなかったばかりか、家具までも赤松が一人で決めていた。菜々子に許されていたのは、配置場所が決まっている電化製品を決めることだけだった。しかし電化製品を見に行くのも億劫で、うまく赤松を口車にのせてほとんど任せていた。そんな時、周防から連絡が入った。
最近店で入れているハムが周防の会社でも扱っていると知り、自宅用に買い付けが出来るか、また周防が新規開拓で困っていると相談された時には、赤松を大学の先輩だと紹介したりと連絡を頻繁に取り合っていた。
「はい。もしもし」
「菜々子」
周防の妙に緊張した声で、緊張が走った。しかし周防が菜々子の秘密を知るすべなどない。ことが順調に運び過ぎていて、ちょっとした相手の変化に妙に敏感になっていた。
「周防さん? どうかした?」
「――すまない」
「え?」
急な謝罪に、菜々子も考えをめぐらした。だがどこにも謝られる事案などない。鼓動が少し早くなり始めた。
「何かあった?」
「今日、刑事が来た」
「刑事?」
周防がなかなか話を進めようとしないので、自分の緊張も高まってくる。だがまだ何も起こってはいない。菜々子は落ち着こうと、胸に手を当てた。
「咲さんの件で俺を訪ねてきたんだ。それで菜々子の電話番号を聞かれた。というか嵌められた」
「私の電話番号? なぜ? それに今頃になって刑事?」
「ああ、確かに今更だよな。多分、咲さんの家に行ったからじゃないか? それで事情が聞きたかったんだろう。俺の答え方が悪かった。多分、沖谷って刑事から連絡があると思う。悪かった」
菜々子の思い過ごしだったようだ。
「そう。わかった。そういえば玄一さんから聞いたんだけど、取引するようになったのね」
「ああ。助かったよ。商品はもう入ってる」
「周防さんにしてあげることは、これくらいしかないから」
「そんなことはないさ……あのさ」
「なに?」
「怒ってないか?」
刑事に電話番号を教えたことを言っているのだろう。
「怒ってないわよ。刑事さんと話すだけでしょ? 話すのは得意だわ」
周防は菜々子がクラブで働いていたことを思い出したのか、「そうだよな」と笑って電話を切った。
今更なぜ咲の事で刑事が来るのかと思ったが、もしかするとあの秘密のクラブの存在が明るみになり始めたのではないか? 話すのはいいが困ったことに菜々子は、刑事が嫌いだった。少しの期待は暗澹とした気持ちがほとんど覆い尽くしてしまっていた。
周防からの連絡を受けてから、携帯が鳴るたびに身構えていたが結局連絡はなかった。
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