第29話

 夏が尾を引きずりながら居座りつつ、周りの木々は、徐々に活力をなくし始めていた。過ごしやすくなってきたとはいえ、まだ寝苦しい夜が時折やってきていた。それでも街では秋冬ファッションがウインドウに飾られ、それをまだ薄着の女性たちが横目にとおり過ぎていく。


 菜々子は清香の新しい服を買うために代官山、自由ヶ丘に行こうとしたが清香がやはり難色を示したので、結局はいつものショッピングモールへ新しく買った軽自動車で行く事になった。免許を取ってすぐに買った軽自動車は、清香が好きな色の薄いピンクのボディを選んだ。買い物をするために清香はその車に乗って時折ショッピングモールまで買い物に行ってはいるようだが、豊富に置いてある調味料や食材だけを買ってくるだけで、店の中をブラつくことも、お茶をすることもなく通っていた。


 車に乗り込み、清香が少し緊張しながらハンドルを握る。マンションの地下駐車場を出ると、薄暗い中で慣れた目に陽が飛び込んできて、思わず薄目になった。清香は何度も左右を確認しながら車を走らせた。


「ついでに車の中が寂しいから、クッションか小さな置物でも買おうか?」


 緊張をほぐすつもりで菜々子は話題を振ったのに、清香は顔を前に向けたままで聞こえていないようだ。角を曲がるときや大通りに出るときには、小動物のように首を何度も左右に動かすので、菜々子は思わず吹き出してしまった。何度目かの信号が赤になった時、ようやく清香が不思議そうに菜々子のほうを向いた。


「菜々子さん?」

「本当、可愛いね清香ちゃんは。うん可愛い。でもそんなにガチガチになっていたら肩が凝るでしょ? もう少し力を抜いてみたら?」

「だって、菜々子さんも一緒に乗ってるから」

「じゃあ私、降りたほうがいい?」


 清香が泣きそうな目になりながら「嫌です」というので、思わず抱きしめたくなった。


「嘘よ。私は清香ちゃんを信用してるから。ほら。もう直ぐ青になるんじゃないかな?」


 清香はホッとしたのか、さっきより深くシートに座った。

 モール内に着いてすぐに菜々子は、清香を引っ張ってクレープ屋へ行った。


「清香ちゃんは何が食べたい?」

「え? あ、ええっと」


 菜々子の顔とメニューを交互に見ながら、清香は照り焼きチキンと言った。


「ええ! クレープなのにチキン?」と菜々子が驚いて見せる。


「で、でも美味しい、と思います。クレープの皮はそんなに味はないし……」

「クレープと言えばクリームたっぷりに果物、アイスだよー」

「だって菜々子さんは……」

「わかった。じゃあ清香ちゃんはそれを頼もう」


 クレープを手にして二人はぶりついた。清香が美味しそうに食べているのを眺めた。


「菜々子さん、少し食べてみますか?」

「え? う、うん」


 差し出されたクレープの上のほう、野菜とソースだけの部分だけをかじってみた。


「どうですか?」

「――」


 菜々子は眉間に皺を寄せてみた。


「菜々子さん?」

「――」


 清香は菜々子のわざと作った眉間の皺を見て不安そうになっていた。でもその表情にあっけなく負けてしまう。


「うん。いけるね」と笑って見せた。それから併設されているゲームセンターでクレーンゲームをし、本来の目的だった清香の服を買って帰ろうとしたときには、夕方になっていた。


「そろそろ帰ろうか」


 清香は人が増えてきたことで怖がる素振りを見せ始めたので、夕食をここで済ますわけにもいかなかった。

 ちょうどマンションに着いて車を止めた時にだった。菜々子の携帯が鳴った。


「玄一さん?」

「今、大丈夫?」

「はい。どうかしました?」

「今から時間って空いてるかな?」


 菜々子はチラッと隣の清香を見た。


「ええ、空いてますけど?」

「もし夕食がまだなら、今からどうかな? ちょうど時間が空いたんだ」

「わかりました」

「じゃあ迎えに行くから、どこへ行けばいいかな?」

「いえ、ちょうど家を出ているので、場所を言ってもらえれば」

「そう、じゃあ表参道駅で待ってるから」

「わかりました」


 携帯を切った菜々子は、会話を聞いていた清香にそのまま話しをスライドさせた。


「という訳だから、ちょっと今から出掛けてくるね」

「――」

「清香ちゃん?」

「はい」

「どうかした?」

「いえ」


 ハンドルを握ったまま、一点を見る清香を無視して車から降りる選択肢はなかった。


「言ってみて?」


 駐車場に出入りする車もないので、車内は一層静かになる。息を吸う細い音の後に、少し緊迫した空気になる。


「私、このままここにいてもいいんでしょうか?」


 今にも消えてしまいそうな声だった。


「当たり前でしょ。家族なんだから」

「でも」

「清香ちゃんは私から離れたいの?」


 勢いよく清香は頭を左右に振る。


「ならもう言わないって約束して。清香ちゃんはずっと一緒。家族よ」

「本当に? 本当にずっと?」

「そうよ。ずっとよ」


 返事をした時の清香の顔は、母親の胸に抱かれて安心した子供のようだった。菜々子は荷物を清香に任せて、そのまま赤松との待ち合わせ場所に向かった。

 待ち合わせ場所に着くと赤松がすぐに菜々子を見つけた。赤松は開口一番に、「久々に会った気がしないね」と笑い、菜々子も「そうですね。電話でよく声を聞いてたから」とはにかんで見せた。


 赤松は風がゆっくり流れるように、自然に菜々子の手に指を絡ませて歩き始めた。


「前に和食が好きだって言ってたでしょ? いい店知ってるんだ」


 赤松がとった部屋は個室で、四人以上で使うのか二人では広すぎる部屋だった。いくつかの部屋で鑑賞できる庭が窓際にあり、部屋の壁は一面だけが石畳を壁にしたような作りでしゃれた感じの造りになっている。


「では少々お持ちだくさいませ。すぐに料理を運ばせていただきます」

 と案内役の着物の店員が両手を付いて出て行った。


「ここは京料理の店なんだけど、お酒にはワインも置いてあるんだ」

「ワイン?」

「そう。昔は邪道だったんだろうけど、今はそうではないからね」

「そうですね。料理が楽しみです」


 しばらく歓談したあと食べるのが勿体と思えるほど、綺麗に飾り付けをされた前菜が数種類、椀物、造りとテーブルの上を埋めていく。焼きものが運ばれてきたころに、赤松が急に真剣な顔になって「菜々子」と言ってきた。


「どうしたんですか?」

「就職なんだけど、うちに来ないか?」

「え?」

「正規の社員としてはもちろん卒業してからになるけど、アルバイトとしてうちの管理部門で働かないかな? 一応、面接は受けてもらわないといけないけど」

「急にどうしたんですか?」

「一企業人として優秀な学生を確保したいというのは常だよ。それに管理本部なら菜々子の持ってる資格を生かせると思うんだ。返事は今すぐにとは言わない。考えてみてくれないかな?」


 菜々子はテーブルに置かれている、目が白くなった魚を瞬きせずに見つめた。


「それだけですか?」

「え?」

「私が資格を持っているから?」


 赤松の目を真っ直ぐに見つめ、乾燥した目を潤すように瞬きの回数が自然と増える。


「口実。君が会社にいてくれたら、いつでも顔を見れるし話せるから。だから菜々子に資格がなくても誘ってた。でも君は色々と資格を持っていて活用させたいと言っていたから、力を貸したいとも思ったんだ」


 菜々子は庭に視線を移した。その間も赤松の視線をずっと感じていた。向き直った菜々子は一言、「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。


「本当? 本当に?! よかった。じゃあアルバイトは年が明けた四月からお願いしていいかな? ちょうど派遣の契約が四月末までだから」

「でも、まだ大学の講義もあるから、毎日は無理ですよ?」

「ああ、大丈夫。派遣がしている仕事のほとんどが雑用だから」

「わかりました。よろしくお願いします」

「ただね」


 赤松は少し声のトーンを落とした。


「夜のバイトはやめてもらっていいかな?」

「え?」

「いや、ほら、だからさ」


 赤松はお猪口の中の酒を一気に流し込み、そして継ぎ足した。菜々子には赤松がはっきりと言葉に出すまで静かに待った。部屋の中は都会だというのにやけに静かで、以前に宿泊し損ねた京都のようだと錯覚しそうだった。その錯覚は赤松が菜々子に傾倒しつつある、情緒的な幻覚のようなものだった。


「――他の男の相手はあまりして欲しくないんだ」


 赤松は視線を庭に向け、少しだけ男の自尊心と強い独占欲の行き場を持て余しているように見える。菜々子に向けられた赤い耳は、色が変わっていない顔色で目立ていて、酒からくるものではなく赤松の心情からくるものだとわかる。菜々子は思わず鼻で笑いそうになりながらそれを何とか抑え、小さな勝利の美酒を一口飲んで答えた。


「でも今すぐは無理です。だって家賃もあるし、家族もいるので」

「家族?」

「妹、ですね」


 菜々子は自分で発した甘ったるい声が可笑しく、我慢しきれずに笑ってしまった。


「どうかした?」

「いえ。ただ玄一さんの申し出が急だなと思ったら、おかしくなって。お酒のせいかな?」


 そう言いながらお猪口を口に運ぶ。


「いや、以前から言おうと思ってたんだけど、なかなか機会がなかったんだ」

「電話はしてましたよ?」

「こういう話は、会って顔を見て言わないとダメだと思うんだ。でも了承を得られてよかった。けど」

「けど?」

「バイト」

「ごめんなさい。でもやはり生活があるので、正規の社員として就業をするまでは」


 大きくため息をついた赤松は、真剣で追い詰められた顔をしている。


「もし俺が生活費を出すと言っても?」

「ごめんなさい。嬉しいけど人に頼るのは」

「そっか……ごめんね。無理を言って。でも安心したよ」

「安心?」

「いや何でもない。さあ、どんどん食べて」


 それから赤松はより上機嫌になった。饒舌に仕事以外のクルーザーの話を始め、店を出た時にはすでに二十三時を指そうとしていた。

 家に戻った菜々子は、靴を脱いで風呂場に直行してからリビングに入った。清香は床で正座をしてテレビを見ている。


「ただいま」


 乾ききらない髪をタオルで包み揚げ、菜々子はソファに座った。

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