第28話
雨が降り、増した湿度が飴のような粘り気を持ちなら、体中にねっとりまとわりついていた。菜々子は家からタクシーで六本木へ向かい、赤松の到着を待っていた。ビルの中は照明が燦々として明るいが外の陰鬱とした空気が漏れ入り、どこか影を纏っているように感じられた。周りは色とりどりの傘を袋に入れ持ち歩き、床は客が持って入ってきた泥が所々に魚の鱗のように光って落ちている。
カフェに入った菜々子は携帯をテーブルに置き、前を通り過ぎていく、二度と見かけることはない通行人をぼんやりと見つめていた。喧騒の中、携帯の音が鳴った。
「もしもし?」
「ああ、菜々子さん。今駐車場に入ったところなんだ。遅くなってごめん」
「いえ。それじゃ私、駐車場まで行きます」
「いや、僕が君を迎えに行くよ。どこにいる?」
菜々子はカフェの名前を言って電話を切った。
バックから化粧ポーチを取り出し、少し剥げた口紅を直しながら何度も鏡の中の自分を確かめてから、店の前で赤松を待った。小走りしているのにどこか余裕をもった赤松が、手を少しだけ挙げながら人の流れに逆らってやってきた。チノパンと胸にワンポイントが入っている黒のポロシャツ。足元はスニーカーでラフな格好。菜々子もキャミソールに薄手のカーデガンを羽織、ジーンズにヒールでカジュアルにしてきたが、スニーカーのほうがよかったかと考えてしまう。
「待たせてごめんね」
「大丈夫ですよ。お茶しながら赤松さんのことを考えていたんで」
「僕のこと?」
「そうですよ」
菜々子は少し首を傾けて悪戯っぽく笑った。赤松はさりげなく上から下まで菜々子を見た。
「今日はボーリングにでも行こうかと思ってるんだ」
「ボーリング?」
「そう。最近はまってね。案外面白いし軽い運動にもなるんだ」
「私、あまりしたことがないですが、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫大丈夫。ボールを転がすだけだから」
赤松は笑うと目じりに何本もの皺ができて、本当に人のよさそうな優しい顔になる。だがそれがかえって菜々子には嘘くさい、偽物の顔のように思えてならなかった。その下に赤松は何を思って何を隠しているのか。それを菜々子が知っているとわかった時にどんな顔をするのか、ぞわぞわと騒がしくなる背中の毛穴をキュッと意識しながら締めて、赤松の湿った粘り気のある手を握った。
赤松はずっと菜々子を壊れ物のように優しく扱い、投げたボールが機械から出てくれば、それを取って専用のタオルで一度拭いて菜々子に渡す。その時は必ず指先が触れてその都度、赤松の指に目が止まった。爪の形は深爪に近く、楕円形であまり形がよくない。その割にあまり太くはなく少しアンバランスな指をしていた。赤松から「どうぞ」と渡され「ありがとうございます」とお礼をいう。面倒くさいやり取りだった。それでも馬鹿馬鹿しい我慢大会のようなやり取りを止めるわけにはいかなかった。
菜々子が投げる姿を一歩下がった場所から赤松が見ている。彼がレーンの外にあるベンチに座ることはない。やりづらさと、何か観察されているようで心が静かにざわつき始める。菜々子は、「赤松さん、疲れるでしょうから座っていてくださいね」と白旗を上げてみたが、「大丈夫だよ」と目じり何本も皺を寄せる。それは強風に煽られた波が徐々に高くなりそれを近くで見ながら不安になるような、物恐ろしさがあった。投げている時に赤松はどんな顔で自分の背中を見ているのか、不安で仕方がない。
ワンゲームが終わり、やっと未知の不安から解放されると、無意識に力が入っていた肩の力が抜けるのを感じた。
「もうワンゲームしよう」
菜々子は困った顔を作りながら、利き腕を揉む素振りをしてみた。
「やっぱり疲れたみたいだから、どこかでお茶でもしようか」
「はい」
赤松が二つの球を持って、重さごとに分けられた保管場所に置きに行った。戻ってくると座って待っている菜々子に「お待たせ」と言って手を差し出してきた。童話の中のお姫様が王子様にするように、菜々子は指先を揃えてそっと手を乗せた。
二人は場所を移し、ケーキが美味しいという店に入りっておすすめセットを注文した。
「どうかした?」
赤松を無言のまま見ていた菜々子を不思議に思ったらしい。
「何だか変な感じだと思って」
「変な感じ?」
「雑誌に載っていた人が目の前にいるのって」
「ああ、アレね」
赤松の照れながら恥ずかしそうに笑う顔は、何も知らない純朴な青年に見える。菜々子の中でまた小さなさざ波が起こり、騒々しい店内を分け入るようにその音が耳に伝わってくるようだった。人はどれほど皮を被って人前に出ているのか。自分と比べても赤松は二重、三重、いや何重にも同じような仮面を被っている。そして巧みに使い分けている。赤松は取材を受けた経緯やその時の緊張を身振り手振りで説明しているが、菜々子には人形が勝手に動いて自分の話し相手をしているような、滑稽な動きに見えて仕方がなかった。
「もうああいうのはこりごりだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。大勢の人に顔を知られるというのは、気分がいいものじゃないしね」と小さく両肩を上下させた。
「でもメディアに出ると、会社を知られるというメリットがあるんじゃないですか?」
菜々子は質問を続け、赤松の反応を見た。
「そうかもしれないけど……他大勢が俺の顔を知っているのに、俺はその人たちを知ることはないわけじゃん? それって不公平というか、片方だけが知っているというのがなんだかね」
笑うときと同じように目じりに皺が寄った。皺だけで人に与える印象は満点といっていいほどで、罪を跡形もなく消し去っている。頬杖をしながら菜々子は同調するように何度も頷いてみせた。
「不公平……そう言われてみれば、そうですよね」
「でしょ?」
菜々子の同意を得られて嬉しそうだ。
「そういえば菜々子さんは何歳なの」
周防然り、なぜ年齢を知りたがるのか不思議だった。
「二十一歳で、来年大学を卒業になります」
「大学生なんだ!」
「はい。そんなに驚きますか?」
「すごく落ち着いているから」
「夜のお仕事をしているせいかもしれませんね」
「じゃあ今は、就活の真っ最中?」
「ええ、まあ……」
菜々子はアイスティーのストローを意味もなく回し始めた。
「希望の業界とかあるの?」
「そうですね……飲食業界とかサービス系を希望しています」
本音だった。サービス業であればカレンダー通りの休みではないことが多く、日にち感覚を麻痺させることが出来る。今日が何日で何曜日で、気が付けば人生が終わってくれればいいと。菜々子にとってそれが一番重要な事だった。
「もうエントリーシートとか出してる?」
「――まあ」
視線をグラスに注いだままだった菜々子は、そっと上目で赤松を見た。相手は何か考えているのか、数秒前の菜々子と同じように意味もなくグラスの中を回している。
「何か資格とか持ってる?」
菜々子の心臓は踊り狂っているように激しくなり、冷静さを失わないように落ち着きはらった態度に徹した。緊張で水分が蒸発し口の中がザラザラし、舌が絡まりそうになる。菜々子は紅茶で口の中を湿らせてから答えた。
「簿記、秘書検定、必要そうなのは持ってはいるんですが、実務経験がないので宝の持ち腐れです。それと社労士は卒業した年に受けてみるつもりです」
「社労士も勉強してるんだね」
「はい。一発合格できるかどうか、微妙なところですが」
「いやいや、凄いよ」
「ありがとうございます」
照れた笑いを作りながら、視線を合わせた。赤松はどこか熱が入っているようにも見える。赤松が何か言いかけた時、携帯の呼び出し音が鳴った。
「ちょっとごめん」
携帯を持って赤松は店の入り口まで出て行った。その間菜々子は、大きく深呼吸をしてまだ跳ねている心臓を落ち着かせる。テーブルの上で両手を組むと、指先が異様に冷たいことに気付いた。真冬の空の下でするように、両手を何度もこすり合わせてみたがなかなか温まらない。運動させるように手を握っては広げた。
「ごめん菜々子さん。急用で会社に戻らないといけなくなったんだ。この埋め合わせはするから」
「社長さんですもんね。お疲れさまです」
「悪いね、本当に。今度いつ会えるかな?」
「赤松さんに合わせます。私、学生ですし」
赤松は小さく唸りながら、厚さが二倍ほどになった手帳を取り出して、ページをめくり始めた。覗いてみるとびっしりと予定が書きこまれている。
「うーん……今ちょっと立て込んでいて……」
「じゃあ赤松さんの時間が空いたときに連絡をください。それで私も空いていたらっというのはどうですか?」
「それでもいいかな?」
「はい」
「ありがとう菜々子さん」
「いえ。それとその菜々子さんってやめてください。赤松さんは年上なのに何だかくすぐったいです」
「じゃあ何て呼べば?」
「菜々子でいいです」
「じゃあ俺のことは玄一で」
「玄一さん」
「菜々子」
二人は思春期の子供のようにはにかみながら見つめあい、赤松の「行こうか」を合図に店を出た。
その後赤松から何度か連絡があったが、時間が合わずに電話だけのやり取りが続いていた。それでも電話を切る前には、「声が少しでも聞けてよかった」と甘い言葉を囁いてくる。そして菜々子は切った後には必ず、携帯をソファやベッドに投げつけた。
でも悪いことばかりではなく、良いことあった。心配ではあったが、清香が無事に免許を取得することができた。菜々子にも心を開き、今まで静かだった家の中に、二人の笑いあう声が響くようになった。それでも清香は近場のスーパーへ買い物に出ることは出来ても、街に出て人ごみの中を歩くことに積極的ではなかった。用事がある時は菜々子が守るように出掛けていた。
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