第27話

 菜々子は日差しが強い中、女性にしては珍しく日傘をさしていない。


「どうかした?」

「いや。日傘を忘れたのか?」

「日傘は好きじゃないの。荷物にもなるし、雨でもないのに傘をさすのって勿体ないでしょ」


 本人がよくても、関係のない周防が、菜々子の肌が赤くならないなど心配になる。


「周防さんの家、まだ?」

「もう目と鼻の先だ。ほら」


 周辺は昔からの住人が多い、下町の住宅街。周防の家は、父方の祖父母の家だったのを引き継いで住んでいる。昔は四人家族でマンション住まいをしていたのだが祖父が亡くなり、広い家に祖母だけでは心配だという父が母を説得して同居を始めた。祖母と母は庭いじりで気が合ったのか、よく花を一緒に植えては世話をしていた。しかしその祖母も五年前に亡くなり、今は広い庭に小さくなった母親の背中があるだけだった。


「広いね」

「古いだけだ。そうだ。俺のバイク見るか?」

「え? ああ……それより冷たいものが飲みたいかな」

「そうだな」


 菜々子は周防の興味がある物に興味が無い。しかしバイクに興味がある女の方が珍しいと、周防は気持ちを切り替えた。

 玄関に入ると、閉め切られ部屋に溜まっていた生温い空気が肺の中に入り込んできた。


「俺の部屋は二階」


 菜々子は「お邪魔します」と言って、周防の後をヒタヒタと音を立てながら付いてくる。四部屋ある二階は、弟の部屋と向い合っていて、お互いの隣には使われていない部屋があり、空き部屋になっている。でも整理がされていて、親族の集まりの時や急な友人の宿泊に使っている。


「散らかってるけど」

「そうかな? 綺麗だと思うけど」


 部屋の隅には捨てられないバイク雑誌が積まれている。テレビボードには直ぐに飽きてしまった数台のゲーム機が、ほんのり白くなってる。ベッドは母親がメイキングをしていて綺麗に整えられている。部屋に染みついた持ち主の臭いが、閉め切られて蒸した空気で発酵し、いつもより濃く充満している気がした。空気を入れ替えてから冷房を入れた。そして菜々子を部屋に残して、冷たい飲み物を取りに行った。


 氷の入ったお茶を持って部屋に戻ると、菜々子はベッドの上に腰を下し、部屋にあった雑誌をめくりながら暇を持て余していた。


「イケてる男とは、って書いてある。こういうの読んでるのね」

「メンズ雑誌なんてそんなもんだ。男はいつだってモテたいからな」

「周防さんは誰にモテたいの?」


 分っていて聞いてくる菜々子が憎らしいと思う反面、惚れた弱みだから仕方がないと諦める自分がいた。常に嫉妬と好意は周防の中にあり、火と油のように溶けあう事は無い。周防はその丁度分離地点に立ちながら菜々子の側にいる。


「菜々子に決まってる」


 菜々子は「ふふ」と笑った。


「あのね周防さん。私やっと彼に会えたの。長かったけど絶対にものにするわ。応援してね」

「え?」

「接点がなかなか出来なくて会う事が出来なかったけど、お店に知り合いの人が来て紹介してもらったのよ。デートも何度かしたわ」


 今日の菜々子は会った時からどこか機嫌がいいと感じていた周防は、話しを聞いて合点がいった。相変わらずベッドに座りながら足をぶらつかせている菜々子に、危機感は感じられない。周防は菜々子をベッドに押し倒し、そのまま無理矢理唇を押し当てた。菜々子は抵抗する事もなく受け入れ、そうなることを予測していたように思えた。そして菜々子は手際よく履いていた周防のズボンを脱がし始めている。


 唇を離すと、膝で立っている周防の股間に顔を近づけ、久方のあの感覚が体を襲う。背中に冷や水を垂らされたようにゾクりとして毛穴が開き一瞬で閉まる。周防は我慢できなくなり菜々子の服を脱がそうとした。


 ペチッ! という魚が床に落ちたような湿った音が響いた。周防のペニスの硬さは半減し、だらしがない形になる。


「私はしてもいいけど、周防さんはダメよ」


 眼下には意欲を無くしてだらしなくなったペニスと菜々子の鋭い眼光。暑くなり始めた体は一気に効き始めたクーラーの冷気を感じていた。


「な……」


 周防が言いかけた時、玄関から声が聞こえてきた。


「誠人。帰ってるの? 誰か一緒にいるの?」

「兄ちゃん、女連れ込んでるじゃん」


 周防は慌ててズボンを上げて、ベッドから降りた。同時に部屋の扉が開いた。


「何だ、なにもしてないじゃん」


 弟の優斗(ゆうと)がニヤケた顔をしながら部屋に入って来た。


「いきなり部屋を開けるな」

「黙って女を連れ込んでる方が悪いんだろ」

「いいから下へ行け」


 優斗を追い出そうとしているのに後ろから、楽し気な声がしてきた。


「あなたが周防さんの弟? こんにちわ」


 いつの間にか後ろに立っていた菜々子が、声を掛けてきた。優斗はさっきまでの勢いは何処にいったのか、中学生らしい反応をしているのを見て、まだ青臭い弟を愛おしく感じた。


「……どうも」


 優斗は素っ気ない挨拶だけして、下へおりて行く。


「じゃあ私も帰るわ」

「え? もう帰るのか?」

「ええ」

「菜々子」

「周防さんて」


 二人の言葉が被り、周防はもちろん菜々子を優先する。


「本当に我儘で欲張りですよね」


 表情は削り取られたように無表情で、声は滴る氷水のように冷たく、毛が逆立つという感覚を味わった気がした。菜々子はにっこり笑って階段を下りて行く。神話に出てくる怪物に石にされた様に、周防は動けないでいた。下からは菜々子が母親に挨拶をしているのが聞こえてくる。


「お留守中にすみませんでした。お邪魔しました」

「いえいえ。あら、凄い美人さん! モデルかなにかしてるの?」

「いえ、普通の学生です」

「まあ、あの子がこんな美人を……我が子なら偉いわ。誠人! 何やってんの!」


 母親の声で我に返った周防は、急いで玄関に向かった。



 帰り道、暑くなっているアスファルトの熱を感じながら、菜々子は苛々した気持ちを抱えてマンションに戻った。

 菜々子はただいまの声を出すことも忘れサンダルを脱いだ。玄関はリビングから漏れてくるクーラーで幾分か涼しい。部屋に入ると清香が、ソファの前に座りながら一生懸命に手を動かしていた。


「どうかした?」


 体を反り、大きく見開かれた目からは涙が溢れだしている。


「すみません。すみません。ごめんなさい」


 しゃくり上げながら謝る清香に、先程まで持て余していた気分はかき消された。


「どうしたの?」


 清香の手元を見ると、タオルでソファを拭いている事がわかった。そして五百円玉より大きい形の崩れた染みがあった。


「何かこぼしたのね。大丈夫よ。買い替えるかカバーを取りかえれば済むから」


 菜々子は小さく揺れる清香の背中をゆっくりさすりながら、落ち着かせようとした。そしてふと足元に目をやると、床に赤黒い絵の具のような液体が落ちていた。そしてほんのり獣のような臭い。菜々子は人さし指で少し掬ってみた。


「あ!」


 清香が気付き、慌てて菜々子の指を掴んだ。


「これ……血?」

「すみません。ごめんなさい」


 よく見るとそれは清香の尻の部分から漏れ出ていた。


「あ! ごめんね清香ちゃん! ちょ、ちょっと待ってて!」


 菜々子は急いで外に飛び出した。

 二度目の帰宅は息を切らし、薬局の袋を手にしていた。清香は少し泣きやんでいたものの、相変わらず小さいしゃっくりのような音を出している。


「清香ちゃんごめんね。用意できていなくて。これ買ってきたからトイレに行って着替えておいで。汚れてる服は風呂場に置いておけばいいから」


 清香は変わらず、すみませんすいませんと謝りながら、菜々子が渡した生理用品を持ってトイレに入って行った。

 着替え終わった清香は、リビングの入り口で立ち止まっている。菜々子は「おいで」と手招きをした。おずおずと清香が菜々子の前に立ち、祈るように両手を胸の前に組んでいた。床に座っている菜々子は、ソファを背もたれ代わりにしたまま隣に座らせ、清香の頭を胸に寄せて何度も頭を撫でた。撫でるたびに、自分と同じシャンプーの香りが鼻をくすぐる。


「ごめんね。気付かなくて。ここにきてからどうしてたの?」

「あったりなかったりで、あっても量が少なくて直ぐ終わったりだったから、トイレットペーパーを何重にもしたり、要らない布を破って洗って使ってました。でも今回は量がすごく多くて……」

「そう。遠慮しないで言ってくれればいいのに。家族なんだから」


 清香は菜々子の胸の中で小さく頷いて、髪が鼻をくすぐった。ふふっと鳴らすと、清香が不思議そうに見つめてきた。


「好きよ、清香ちゃん」


 さっきまで処理しきれなかった気持ちは、雨上がりの空のように晴れ渡っていた。


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