第26話

 マンションに着いたのは二時前だった。玄関に入るとまだ部屋の電気が点いている。

 リビングに入ると、半袖の上には何も掛けずに横になっている清香がいる。顔に掛かっている髪を菜々子は手でそっと払らうと、まだ湿っていた。


「また髪を乾かさずにそのまま」


 清香を抱き上げベッドに移す。薄手の布団を掛けてやり、菜々子はリビングに戻った。

 テーブルの下には、清香が寝る寸前まで手にしていた教習所の本が落ちていた。それを拾い、テーブルに置かれているものと一緒に纏めておいた。菜々子はそのままソファを倒し、いつものようにベッドにして、重たくなった体を横にした。


 清香はベッドを占領していることに罪悪感を持っているのか、最近一緒に寝ようと甘い言葉をかけてくる。だからもう一台マットレスを買いに行こうと何度か考えたが、もともとベッドにもなるソファのため菜々子はその必要性はないと判断し、清香に説明をして納得はしてくれた。


「化粧を落とさないと」


 赤松に会う前から緊張していた体の力が一気に抜け、鉛のように重くなった背中がソファに張り付いて起きあがる事ができない。

 あれから天ぷらを一緒に食べ、少し酒を飲み、場所を変えて夜景の見えるバーに連れて行かれそこで別れた。赤松の趣味、好きな映画や本、音楽やテレビの話し。赤松の描く自分自身の未来。何処にでもいる普通の経営者であり男だった。そして他の男達同様に菜々子を気遣っていた。


 顔は中の上。性格も接した限りでは温厚で、男としての野望もあり普通の趣味。

 浅居と行ったクラブに居たのは間違いなく赤松(あかまつ)玄(げん)一(いち)だった。耳のホクロと聞いた低めの声に間違いはない。


 アフターの事を思い出すと、徐々に息苦しくなってきた。今日はしっかりとメイクをしてもらっている。毛穴が塞がれ、皮膚呼吸がままならない。だから早くさっぱりとして楽に呼吸をしたいと思いながら、菜々子の意識は遠のいていった。



 本格的な夏に入り、外に出ればセミの声がそこらじゅうから聞こえ、耳にはりつくような騒音で周防はうんざりしていた。湿気た空気は否応なしに体中に纏わりつき、外に居る時は常に不快感との戦いだった。アスファルトからの照り返しと太陽の毛穴を刺すような暑さの中、周防は久々の逢瀬を楽しみにしていた。


 しかしこの暑い中、隣には同じようにむさ苦しい同期の男二人もいた。菜々子の写メを見せてから、こんな美人が周防と? 嘘だな。本当なら紹介しろよ。嫌だ。ほら嘘じゃないか。この写真だって隠し撮りみたいな感じじゃんか。わかった。今度二週間後に会う約束をしているから一緒にくればいいだろ。


 そして同期の二人が付いてきた。

 一緒に待っている間も、周防に対して蔑むような事を話している。今日は水族館を予定し、そのまま菜々子を最寄駅まで迎えに行って考えていたが、仕方無く大森駅の数駅前である品川駅前を待ち合わせ場所にした。解散後このまま品川で遊ぶなり秋庭原へ行くなり同期が出来るだろうと考えてのことだ。


 おまけに愛車のバイクに菜々子を乗せようと画策したのだが、バイクに乗るのは嫌だと言われ電車になった。見せようと胸を躍らせながら磨いていたホンダVTモデルの相棒は家での留守番を余儀なくされ、これからも菜々子を乗せれそうにはなかった。


「おい。五分過ぎたぜ。やっぱり嘘じゃん」

「掛けは俺の勝ち」

「俺も見栄だって掛けただろ」


 どうやら菜々子が周防の彼女ではと掛けていたようだ。彼女ではないというのは当たっている。それより彼らはあわよくばとも考えているに違いない。

 駅のコンコースから電車の停車する音が聞こえ、数秒遅れで人がなだれ込むように改札に向かってくる。周防は菜々子の姿がないか目を凝らすが、それらしき姿は見当たらない。外野の二人が周防を小ばかにしているのが否応なし聞こえてくる。


 一仕事終わった改札は、電子版を動かさずに休憩している。その改札からピンクのパステルカラーのワンピースにあるサンダルを履いた菜々子が、ゆっくりと歩いて出て来た。同期の存在を忘れて周防は思わず菜々子のもとに駆け寄った。


「周防さん。遅れてごめん」

「いや大丈夫。それより久々だな」

「そうね。周防さんも忙しいみたいね」


 周防は自嘲しながら「ああ。研修って名目の社畜になりかけてる」

 菜々子は面白そうに「大変ね」と返してきた直後だった。


「マジ! 周防早く紹介しろよ」


 やはりそうきたかと周防は目を吊りあげた。


「こちらの方たちは?」


 いつもよりもほんの少しトーンが高い菜々子の声。楽しそうに笑っているのを見て、自分に久々に会えてなのか、自分を持てはやしてくれるギャラリーが増えてなのか、見極めるようにじっと菜々子の顔を見つめた。


「どうかした?」

「あ、いや。こいつらは俺の同期」

「そうなんだ」


 二人は菜々子に自己紹介を勝手に始め、周防はそれを軽く止めに入るが、餌を前にした獣のように身を乗り出し菜々子に近づこうとしている。


「周防さん、行きましょうか」

「それじゃあ何処へ遊びに行く? カラオケにする? 四人だからボーリングとかでもいいんじゃない?」

「え? 四人? 私は周防さんと約束をしているのであって、あなた達と約束なんかしてませんよ? ね? 周防さん」

「へ? あ、ああ」

「それじゃ行きましょう」


 菜々子がさっと周防の手に腕を絡ませてくると、文句を言っている同期二人を無視して早足で構内に入った。


「周防さん、友達は選んだほうがいいよ? それで今日は何処に?」


 いつもは周防の事を見ているようで見ていない菜々子の言葉に、いとも簡単に気分が高揚した。


「だよな。今日は水族館の予定だ」

「どこの?」

「品川水族館」

「ならもう一度外に出ないといけないのね。ごめんなさい」

「大丈夫だ。最寄駅はここじゃ無くて大森海岸だから、電車に乗らなくちゃいけない」

「そうなの?」

「行ったことないのか?」

「ええ。初めて」


 周防は菜々子の言葉に思わず意地悪をしたくなった。


「モテるんだから他の男とデートとかしたことあるだろ? 水族館なんて定番中の定番だからな」

「デートか……そう言えばプライベートではデートってした事ないかな。よく考えたら周防さんが初めてかも」

「上手いな」


 嫌味を込めて言ったつもりだったが、「私、あまり人と関わるのは好きじゃいというか得意じゃないから」とサラっと返ってきただけだった。


 まただと思った。一人で何処か遠くを見ていて、景色にお溶け込んでしまいそうな雰囲気。スピーカーから電車の到着アナウンスと軽快なメロディーが流れ、ホームに電車が滑り込んできた。その圧縮された暑い風と菜々子が同化して流れて行ってしまいそうな危うさを感じ、思わず菜々子の腕を掴んだ。


「どうかした?」


 菜々子は周防の心配をよそに、子供のようにあどけなく少し首を傾けている。


「危ないと思って」


「大丈夫よ」と周防の過保護ぶりを笑っているようだった。

 十分ほどで最寄駅に着いてそこからは徒歩になるが、菜々子が暑いというのでタクシーを拾って水族館へ向かった。周防がチケットを買い中に入ると、短時間で熱を持った皮膚を冷えた空気が一気に取り払ってくれる。


 入って直ぐに東京湾や地元がテーマになった水槽にペンギン、アシカやイルカショーが見られるスペースがある。菜々子は少し見ては場所を変え、感心する様子もなく水槽から水槽へと泳ぐように移動していく。周防が菜々子の隣で見ているといつの間にかいなくなるので、強引に手を掴んだ。菜々子はチラッと周防を見ただけでこれと言った反応はない。


「菜々子、地下に行こうか。トンネル水槽がある」

「わかった」


 大きな水槽の前を通り過ぎ、深海フロアに降りる。地下で深海とはくだらない洒落だと考えていると、直ぐ目の前にトンネルの入り口が現れた。ウミガメやエイ、魚たちが空を飛んでいるように泳いでいる。隣の菜々子を見ると、上を少し見ただけで、無表情だった。水族館は失敗だったか……周防はこの後のプランの立て直しを考えなければと焦り始めていた。


「菜々子、楽しいか?」


「楽しいわよ」と素っ気ない返事返ってくる。

 二人は水槽に書かれている説明をほとんど読む事もなく、あっという間に出口まで辿りついてしまった。ただ水族館を通り過ぎたと言っても過言ではない滞在時間だった。それなのに菜々子は「楽しかったわ」と嬉しそうに言う。


「どこが良かった?」

「全部よ」


 押し黙っている自分を菜々子はどう思って見ているのだろうか。怒っていると感じているだろうか。機嫌を損ねたと思っているだろうか。そんな周防の気持ちなど無視して菜々子は続けた。


「これからの予定は? 何処か行くの?」

「――」

「周防さん?」


 悪びれる素振りも心苦しさも感じられない。握ったままの手を菜々子は魚がつつくように小さく引っ張る。


「菜々子は何処に行きたい?」

「そうね……周防さんの部屋」


 その言葉で簡単に、周防の泥水のように濁り始めた気持ちをろ過してしまった。

 周防の家は大学の最寄り駅から四十分足らずの場所で、駅から歩いて十分弱。幸い今日は家族が出払っていて、菜々子の希望を受け入れる事になった。

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