第25話
翌日、早速教習所に申し込みに行った。
清香は小さい体をより小さくしながら菜々子の隣に座って説明を聞いていた。
「すみませんが、廊下に貼ってある指導者に女性が数名おられる様ですが、指名することはできますか?」
「はい。あとでご案内いたしますが、予約を取ってもらう時に指導教官を選べることができます」
「よかったです。この子は男性恐怖症なので。それと少し足と手の指が不自由なんですが、大丈夫でしょうか?」
日常生活で支障もなく生活しているのであれば、問題はないということだった。しかし視力だけは眼鏡が必要だと言われた。
一通り身体についての報告をしたあと、清香の態度で何かを察したのだろうか。入所説明をしてくれている四十代の男の目には、哀れみが含まれていた。この男がどのような解釈をしたのか菜々子にはどうでもよかった。
「間違っても男性教官と二人っきりにはさせないでくださいね」
菜々子はカウンターに置かれていた男の手に、そっと指先だけを乗せた。
「ええ。もちろんです。こちらまではどのように通われますか?」
「バスでと考えています」
「では時刻表と停留所の案内書をお渡ししておきます。あと必要書類になります。では予約方法はここに設置してある機械と、インターネットからする方法があります。手順はお渡しする冊子に書いてありますので、ご自宅でご確認ください。とりあえず置いてある機械の説明を簡単にします」
二人は男の後ろを付いて行く。
講習待ちしている男達は菜々子に目を奪われ、女は嫉妬の視線を向けてくる。
一通りの説明と検査、入会手続きをして練習のために教習所からバスで最寄駅まで帰り、その足でショッピングモールへ向かった。視力が悪い清香のために、眼鏡を買う必要があった。ショッピングモール内に眼科と眼鏡ショップが連携しているのを、前に来た時に目をしていた菜々子は、清香を連れて早速眼鏡を作る事にした。
左目が特に弱く、レンズが特別製になり四日ほど時間が必要だった。手続きをした後に携帯も購入した。菜々子は清香を送り届けてから、早めに店に入る事にした。
「ごめんね? 清香ちゃん」
「何がですか?」
「眼鏡」
清香は首をかしげ、分らないといった表情をしている。
「目、不便だったでしょ」
「いえ。全然大丈夫です。ありがとうございます」
深々と頭を下る清香の頭を、癖のように撫でてしまう。そしていつものように清香が顔を上げると、照れくさそうな表情をして菜々子の気持ちを和ませてくれた。
「じゃあ気を付けて家に帰ってね。タクシーにする?」
「いえ。少し買い物もしたいので。今日は菜々子さんの好きなモッツァレアチーズのサラダと揚げ出し豆腐を作りたいので」
「ありがとう。楽しみにしてる。じゃあ」
「はい。いってらっしゃい」
清香は胸の前で遠慮がちに小さく手を振って見送っていた。
店に早く着いた菜々子は、驚くボーイ達に挨拶をして控室に入った。
広い部屋に人影はなく、店とも隔離されているので静かだった。冷房が入っていなかったが、広い室内は外よりは涼しく丁度よかった。
化粧台と向き合いながら、自己暗示を掛けるように時間も忘れて、鏡の中の自分に言い聞かせていた。必ず上手くいくと。
「あら、愛果ちゃん。えらく早いのね」
中道が角ばった大きな鞄を手に入って来た。時計を見ると十八時になっている。
「おはようございます。円さん」
「何かあったの?」
「いえ。今日は早く着いちゃって」
「そういう日もあるある。じゃあ先にやっちゃおうか」
「お願いします」
連なってメイクルームに入り、円が箱の中から道具一式を丁寧に並べていく。
「円さん。今日はとびっきりでお願いします」
「なに? 上客でもくるの?」
「ええ。それに時間を掛ければどれくらい自分は綺麗になれるのか、知りたいというのもあります」
「そうね……素材がいいからいつもナチュラルに仕上げていたけど……他の子みたいにバッチリとしたメイクをしてみようか。そうなると他の子たちは大変ね」
中道は両肩を少し上げて、映画でみる外国人がするようなポーズをした。
中道はいつになく無口になり、真剣な面持ちで鏡の中の菜々子を見ながら化粧を施し始めた。菜々子はなさがれるままに顔を預けた。
「出来たわ。実は前から愛果ちゃんにしっかりとしたメイクをしてみたかったのよね。テレビでみる女優さんなんか目じゃないわね」
中道の言うように、鏡の中の自分が自分ではないと思えるほど別人に見えた。
「凄い」
鏡に近づけて魅入ってしまうほどに顔が変わっている。
「おはようございます」
時計を見るともう十八半時を回っていた。
「終わったからどうぞ」
中道はウインクをして菜々子を送りだした。入れ違いにメイクルームに入って来た同僚は、菜々子が部屋を出ていった後もずっと目で追っていた。
待合室にはもう女達が準備を始めている。ここでも菜々子に気付いた同僚は一瞬釘づけになったあと、必死で鏡に向かって手を動かし始めた。
ロッカーを開け、モスグリーン色で膝上丈のワンピースを手に取った。胸の下あたりに白いリボンと胸元に大きな同色のコサージュが付き、肩を惜しげもなく出すデザイン。今日はこの店一番の女だと何度も言い聞かせ、激しく波打つ心臓を何度も落ちつかせようとしていた。
しかし店に出ても中々三田たちは姿を現さない。気分が落ち着かず、何処か上の空なまま二時間ほど過ぎた頃だった。
「愛果さん。三田様のご指名が入りました」
「わかりました」
客に軽く挨拶をして、ボーイの後ろを付いて行く足元は、綿の上を歩いているようにフワフワとしていて、おかしな歩き方になっているのではと心配になる。
三田と赤松はテラスルームで既に酒盛りを始めていた。近づくにつれ菜々子の心臓はより激しく動き始め、反動で胸が気持ち悪くなり始めていた。数メートルまで近付いた時、赤松が気持ちがいいほど菜々子に釘づけになっていた。菜々子はとびきりの笑顔を赤松に返した。そして挨拶をして三田の隣に座った。
「こんばんは三田様」
「愛果ちゃん。今日はとびきり綺麗だ。いやいつも美しいんだけど、息を飲む美しさっていうか……なあ赤松」
「――」
「赤松?」
「え? あ、ええ」
「こいつが前に言ってた赤松」
「初めまして。愛果です。以前雑誌に載っているのを拝見しました。本物の方が素敵ですね」
「だってよ赤松」
「いや、そんなことは」
菜々子は赤松を無視して三田の相手を始めた。三田が赤松に話を振り、菜々子が話す。三田が橋渡しの役目をしていた。赤松はあまり会話をせず、酒を飲んでは三田の話しに乗り、菜々子を見ては酒を飲む。柿田にそうしたように菜々子は赤松をある程度無視していた。
赤松の服は少し光沢のあるグレーのスーツに薄い紫のネクタイ。多分スーツも靴もフルオーダだろう。他愛もない話をしているうちに他の呼び出しがかかり、菜々子は席を離れなければならなくなった。
「三田様、申し訳ありませんが」
「いや、仕方がない。待ってるよ」
「ええ」
「あの!」
振り向くと赤松が立ち上がっていた。
「いい店を知っているんで、今から出ませんか?」
呼びにきたボーイがすかさず菜々子と赤松の間に立った。
「お客様申し訳ありませんがまだ営業中でございます。それに会員ではない方とのアフターは出来かねます」
「じゃあ今すぐ入会する」
「ありがとうございます。しかし当店は会員になるためには審査がございまして」
菜々子はボーイの名札を確認する。
「田中くん、いいんじゃない? ご入会されると言う事ですし」
「紹介者はこの俺、三田でいいよな。こいつの会社は大丈夫だよ。俺が保障するし、審査も通るはずだ」
「三田様もこうおっしゃっているし、お顔を立てる為にも。ね?」
ボーイは目を丸くして驚いているのは菜々子の提案にではなく、急に自分の名前を言われたからだろう。
「愛果さんがそうおっしゃるなら……ではオーナーに確認をして、入会申し込み用紙をお持ちいたしますので、お待ち下さいませ」
菜々子は「では後ほど」と声をかけ、指名をくれた客の席に移った。
閉店時間が近づき、ドレスから私服に着替えた菜々子は、入口のソファに座って待つ赤松に声を掛けた。
「お待たせしました」
「雰囲気は変わるけど、それもいいね」
長い足を出したホットパンツにヒールを履き、エスニック風のシャツ。ドレス姿の時とは百八十度雰囲気が違う。髪型も少し変えて今どきの女子大生のままの格好だ。
「ありがとうございます。あまりいかにもという格好でアフターが好きではないので。それで今から何処へ?」
「お腹は空いてる?」
「ええ。ほとんど食べていないので」
「美味しい天ぷらの店があるんだ。どうかな?」
「私天ぷら好きだから嬉しいです」
「よかった」
赤松が少しのけ反るのを見て、菜々子は彼が少なからず緊張しているのを感じた。
「じゃあ行こうか」
赤松は手を繋いでくる訳もなく、菜々子が隣に立ったのを確認してエレベーターへと歩き始めた。菜々子も後に続く。床を歩くやけに乾いた音がフロアに響いた。
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