第24話
周防が久々に菜々子を見かけたのは、丁度大学の就職課からの帰りで、駅に着いた時だった。
見たこともない柔らかに微笑むその視線の先に居たのは、小柄な女性だった。右足に難があるのか少し跳ねるように歩いていたのが特徴的で、顔はニット帽で押さえつけられた髪が張り付きよく分らなかった。何処かで食事をしてきたのか、病院にでも行った後なのか、手に荷物はなく、菜々子が甲斐甲斐しく世話を焼いているように見えた。しかしあまりにも対照的な二人だったからか、周りの視線を少なからず集めていた。
周防は声を掛けようとしたが、内々定式の時間が迫っていて気になりながらも電車に乗り込んだ。何もできないまま、モヤモヤした気持ちを持ったまま一日を過ごした。
あれから情事がなく、大学に行っても三年になった菜々子の講義時間を把握していても、顔を合わせる程度の日々が続いていた。不満が溜まった周防の下半身の冷やりとした奈々子の口を思い出し熱が集中する。そんな時は仕方無く風俗に行って処理をしてもらうのだが、なかなか射精する事が出来ずに、延長する事もしばしばだった。
テクニックは風俗嬢の方が特段に上手い。それなのになかなか射精する事が出来ないのは菜々子ではないからだ。周りから高嶺の花とされている女が眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべながら周防を咥えている姿は、征服感をくれる。風俗嬢にはそれを感じる事ができない。女を征服するのと菜々子を征服するとでは全く意味が違った。
慣れた風俗嬢でもあまりにも長いと面倒なのか、「店には内緒でお願いね」と言いながら股を広げてくる女もいたが、そんな時は顔に何かを被せ菜々子の顔を浮かべながら何度も突き上げる。菜々子の中に入った事がまだ無いのに、下半身は毒に侵されているようだった。
夏になれば内定した食品会社でのバイトという名目の研修が始る。夏休みを利用し、取り扱っている商品がどのように仕訳され流通されていくのか、倉庫での作業が月曜日から金曜の九時から十七時まである。そうなれば菜々子に会う事が難しくなる。連絡を取ろうとも電話に出てくれる事の方が少ない。
悶々としていたある日、珍しく菜々子から連絡が入った。菜々子は昨日まで会っていたかのように「明日は空いてる? いつもの場所に十三時にどうかな?」と周防が否と答えない自信がある言い方だった。
「分った」
それでも周防の胸は緊張で張り裂けそうだった。
当日、時間より早く着いた周防は、相変わらずほこり臭い部屋の窓を開け空気を入れ替えた。外からは眠気を誘うような気持ちいい暖かい風が頬を撫でる。
スペースをもう少し作るために、積み上げられている本を端へ端へと追いやった。そしてスッキリとした二畳分程のスペースが出来上がった。
周防が一息ついた時に、部屋の扉が開く音がして振り向くと、そこには春らしいパステルカラーの服に、高めのヒールを履いた菜々子が薄手のコートを手に掛け入って来た。
「久しぶりだな」
「そうかな?」
菜々子は広くなったスペースなど気にも留めず、いつものように荷物をパイプ椅子に置いた。周防は無防備になっている菜々子の後ろから覆いかぶさるように抱きしめ、左手で動きを抑えながら、右手をスカートの中に忍ばせた。
「周防さん!」
菜々子は体を捩りながら離れようとするが、線の細い菜々子に解く力は到底ない。周防はそのまま菜々子の向きを強引に自分に向け、唇を押しつけ舌を入れようとした。しかし菜々子が拒むので、一旦右の手で頬を強く押さえ付け無理にこじ開ける。
それが仇となって、隙ができた菜々子の右手が周防の頬に乾いた音と鋭い痛みをもたらした。
周防は菜々子を見て激しく後悔した。
「すまない。そういうつもりじゃなかった」
「そういうつもりとは、どういうつもり? レイプしようとした事?」
「いや、だから違うんだ」
菜々子の顔には怒りもなにもない。ただ美しい顔が無表情にあり、冷酷な女王を目の前にしているようで、無意識に両膝を床に着け頭を下げていた。
「本当にすまない」
部屋に風が通り、置いてある本のページが捲れる音が響くだけで、菜々子の返事は無い。
「すまない。本当に悪かった。何でもするから嫌わないでくれ」
「何でも? じゃあ足を舐めて」
下から見上げた菜々子の顔は、あの一緒に歩いていた女に向けていた微笑みとよく似てはいたが、どこか蔑むよう目は欲情に駆られている様に艶っぽい。
周防は差し出された足の甲を舐めた。屈辱的な行為になのにどこかで認められたような満足感が周防の中に生まれた。
清香と暮らし始め、気が付けば木々が青々と茂り蒸し暑さが増し始めていた。清香は近くのスーパーまでなら一人で買い物ができるようにまで回復していた。菜々子の代わりに家事をしてくれるようになり、帰宅すれば部屋に電気が点いていて食事が用意されている。菜々子がいくら聞かしても、クラブから戻って来るまで横にならずにリビングで待っている。大体はテレビを見ていて菜々子が玄関を開けると、「お帰りなさい」と出迎えてくれる。出迎えが無い時はテレビを点けたまま寝てしまっているので、菜々子が抱き上げてベッドまで連れて行く事になるが、起きて迎えてくれるよりは寝顔を見られる方が嬉しかった。それでも玄関を開けるまでが小さな楽しみになっていた。
この日も菜々子は鼻歌交じりに「ただいま」とドアを開けた。いつものようにテレビの音も聞こえず静かだった。
「珍しいな」
独り言を言いながらリビングに入ると案の定清香は寝ていた。その膝の上には赤松の雑誌が開かれたままになっていた。そっと雑誌をテーブルに置き、清香をベッドまで運んだ。最近は順調に体重が増えたのか、家に来た時よりもかなり重くなっていた。
「スポーツクラブにでも通うかな。筋力を付けた方がいいだろうし」
完全に寝てしまっている清香の傷だらけの腕と足はブラブラと揺れ、知らない人間が見れば死体のように見えるかもしれない。ベッドの上に寝かせてブランケットを掛ける。清香の腕と足がかなり冷えていた。清香が暑がりの菜々子の為に点けてくれていたクーラーの温度を二十一度から二十八度に上げた。
髪を後ろで一つに纏め上げ、冷蔵庫からビールを出して一気に喉へと流し込んだ。
今日とうとう赤松と知り合いだという客が来た。相手は大手アウトドアメーカーの重役で三田(みた)といった。赤松は高校の後輩らしいが、三田は四十代なのでだいぶ後の後輩になる。高校の会報に赤松の事が取り上げられた事があり、興味が湧いて三田からコンタクトを取ったと言っていた。そして今度赤松を紹介してくれる約束を取り付けた。三田が言うには決まった相手はおらず寄ってくる女にも興味がないようで、三田も心配しているらしい。いい歳だし、早く身を固めたらというが適当に流すと言っていた。
菜々子は三田に赤松の話を聞きながら興味が湧いた素振りを見せ、連れてくる日は必ず連絡すると約束をしてくれた。
缶ビールを片手に菜々子は寝ている清香を見下ろした。赤松もSM拷問を楽しんでいる一人だ。
「――清香ちゃん」
清香は菜々子の心配をよそに、心地様さそうに寝息を立てていた。
菜々子はリビングに戻り周防に連絡を入れた。あの一件以来、菜々子も反省して周防を構うように心がけるようにしていた。会うと言っても普通にデートをする時もあれば、精神面、肉体面での欲求を満たしてやる事ももちろんある。バランス良くして周防を鎖で繋げている状態だ。ただ彼自身が何処かへ行こうとするならば、菜々子は素直にその持っている鎖を外すだろうが、今のところ周防にそのつもりはないらしい。
メールの着信音に気付き見てみると、送信者は伯母だった。舞い上がっていた気持ちが一気に谷底に落ちて行く気がした。赤松との話が進めば、育ての親である伯父夫婦に菜々子の気持ちを話さなければならない。それはきっと相手を傷つけることにもなるだろう。しかしそれは赤松と出会ってしまった以上、仕方がないことでもあり、出会うことがなかったとしても結果は変わらなかったのかもしれない。菜々子は自分を肯定するように考えていた。
二週間が経った頃、待ちに待った三田からのメールが届いた。赤松と夜一緒に店にいくという連絡を受け、昼からは緊張と楽しみで胸が高鳴っていた。
「菜々子さん。どうかしたんですか?」
「え? どうして?」
「何か……すごく楽しそうだから」
「そうね。今日はね、運命の出会いがある日なの」
「運命の出会い?」
「そう。宿命と言っても過言ではないかも」
菜々子はつま先立ちをしながら、リビングでくるりと一回転した。長い髪が同じ様に円を描く。
「ねえ清香ちゃん」
「は、はい」
「だいぶここの生活には慣れた?」
「え? は、はい」
清香はキッチンで洗い物の最中だった。質問に不穏さを感じたのか水を出しながら手を止め、体を強張らせている。
「清香ちゃんを追い出したりしないわ。ただね、これから私色々と忙しくなるかもしれないの。だから家事を全てして欲しいの」
「え? それだけですか?」
「うん。私ね、ある男をものにしたいの。絶対に」
「菜々子さんはその人と付き合う事になったら、その……結婚とか」
不安そうにしている清香を抱き寄せ、頭を撫でながら続けた。
「私は何処にも行かないわよ。清香ちゃんが側にいてくれるなら」
「私は菜々子さんの側にずっといます」
「ありがとう」
真っ直ぐに見上げてくる清流のように澄み切った清香の瞳に、引き寄せられるように瞼の上に唇を落した。清香は驚いていたが、その反応が可愛らしく思わず吹き出してしまう。
「菜々子さん。意地悪です」
「ごめんね。清香ちゃんがあまりにも可愛くって」
「菜々子さんに言われても……」
最近の清香は本当に表情も豊かになり、言葉数も多くなって冗談も言ってくれるようになっていた。しかし外に出る時は暑くてもニット帽を深く被って顔を隠し、傷を覆う為に必ず長袖を着て極力外出を避けているのを菜々子は知っていた。
「ねえ清香ちゃん」
「はい」
「一つお願いを聞いてくれない?」
「何ですか?」
清香の肩の下まで伸びた髪が、小さく左に揺れる。
「車の免許を取って欲しいの。お金は私が出すから」
「え?」
清香は菜々子の目を真っ直ぐ見た後に俯き、止めた蛇口から落ちる雫の音が規則正しく歩く兵隊の足音のように部屋に響いている。菜々子は清香の返事を待った。
「菜々子さんの頼みなら……頑張ります」
「ありがとう」
菜々子は胸を撫で下ろした。
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