第2話
当時警視庁の捜査一課第二強行犯に席を置いていた沖谷は、当時四八歳の警視だった。大卒のノンキャリアとしては順調な出世だった。もちろんそれなりの成果も上げてきた。
この頃は充実した日々を送っていた。家庭は妻が守り、仕事が楽しく生き生きとしていた。
若い後輩から、「本当に仕事を楽しそうにしますね」と言われた事もあった。「そうか?」と言いながらも、他人から尊敬の眼差しで見られていると、慢心していことに後で気付いた。
沖谷たちが扱うのは犯罪であり、それには被害者も存在する。それに対し邁進する自分に皮肉を言っていたのだ。だがどんな職種であれ、男には仕事が楽しいと思える時期が必ず来る。まだ仕事慣れしていない若手には分からないと思っていた。
春の花が散り、桜の枝一杯に青々とした葉が茂っていた五月のゴールデンウィーク最終日だった。
前日の重い空は、太陽の輝きで遠くに追いやられ、気持ちも軽くなってきた矢先だった。急に太陽がなりを潜め、昼過ぎからまたどんよりとした曇り空が戻ってきていた。
テレビからは高速道路の渋滞が頻繁に流れ、連休の名残を惜しむ子供や家族のインタビュー。海外から帰国してきたカップル、友達同士、家族達の疲れたと言いながらもリフレッシュしたという顔が、テレビから流れていたのを覚えている。
「いいですよね海外」
「そうか?」
経費の精算をしている所へ、まだ二七歳だった清水(しみず)義(よし)隆(たか)の羨む声が聞こえてきた。沖谷から見ればまだまだ子供の域を出ていないように見えていた。
「休みを取って、行けばいいだろ」
「行けないじゃないですか。学生の時に、積極的に行けばよかった。こんなに縛られる職場だってわからなかったですから」
確かに、長期休みを取るのも困難ではあるが、何よりそうそう遠くへ行く事が出来ない。何かがあれば当日帰って来れるか。
中学生の修学旅行のしおりのように行動予定表を提出しなければならない。その日の何時頃は何処にいるのか。沖谷はそれが面倒で当時、休んでも旅行には行かず、家族サービスは金を渡して妻に任せ自分は家で寝ているだけだった。後に後悔するとも寸分も思わずに。
室内は世間とは関係なく、いつものようにいつもの人数が出揃っていた。
「それより清水。俺が経費精算書き終えたら、世田谷の例の被害者に会いに行くぞ。いつでも出られる様に準備しておけよ」
「え? もう会えるようになったんですか?」
「ああ。でも面会時間は三十分ほどらしいがな」
あれは裕福層を狙った連続強盗が横行していた時だった。四件目まで怪我人が出る事はなかったが、五件目でとうとう重体者が出した。
被害者は頭を殴られ意識不明で発見され、回復をしてやっと面会の許可が下りたのだった。
事務処理を終わらせると同時に清水に声を掛け、車に乗り込んだ。
「それにしてもこれも多分、うちじゃ扱わないですよね?」
清水が助手席で手帳を捲りながら聞いてきた。
「だろうな。多分中国窃盗団の仕業だろうからな」
「ならもう渡してもいいんじゃないですか?」
確かに窃盗団なら、自分達の手を離れるのが分りきっている。その手間を省いて、机に積まれている事務処理時間に当てたいという気持ちもあった。
しかし少し手口が違い模倣犯という可能性もあったため、沖谷が初動で動く事になった。担当になった以上、それは沖田の仕事だった。
「ぐたぐた言うな」
清水は肩を落していた。沖谷たちが渋谷区に入った所で二本の無線が入って来た。
渋谷区にて住人が血まみれで倒れていると通報があったというものと、同地区でトラックが家族を轢いたというものだった。事故現場の方が少し近かった。
「どうします? 沖谷さん」
清水の目は、水を得た魚のように生き生きとしていた。
「決まってるだろ」
沖谷はそういうとハンドル切って、住宅街へと向かった。
今思えば、その選択が合っていたのか間違っていたのかさえわからない。
到着した現場は広い和風建築の住宅だった。瓦屋根が家を囲う高い塀からでもよく見えていた。長い塀の先には白い見慣れた自転車が置かれていた。連絡をしてきた近くの交番署員のものだ。車を脇に止めた。
「そう言えば何で、交番の自転車って白いんですかね?」
清水の全く緊張感がない、どうでもいい質問にあきれたものだ。彼は慌てながら「す、すみません。気にしないで下さい」と言っていた。
そんな清水を一瞥し、立派な門をくぐろうとした時、石畳みの中央に三点、意図して付けたような少し形の崩れている赤黒い丸い染みがあるのに気付いた。
よく見るとそれは門の外まで続いていた。沖谷の視線に気付いた清水も、先程とは打って変わりただならぬ様相になっていた。
血痕は玄関まである玉じゃりに埋まった飛び石に、頂点を玄関に向けて落ちている。それを踏まない様に飛び石の端を歩きながら玄関に辿りついた。
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あとがき
どうも作者の安土朝顔です。
いつも読んでいただきありがとうござます。
この作品は第45回横溝正史ミステリ&ホラー大賞に応募しています
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