第8話
頭の上から中道の息がかかり、毛束をすりぬけて地肌にあたる不快感があった。鏡の中の中道は、菜々子の頭で顔を隠すように少し膝を曲げているようだ。
「やっぱり……前に咲って名前を愛果ちゃんから聞いたような気がしたから。私もこんな仕事してるからまあ色々と話が入って来るんだけど、その咲って子、亡くなったらしいの」
「えっ ?!」
横腹の皮膚が勢いで突っ張り、上半身を絞りあげる様に回した。
「仕事前にごめんね。でも愛果ちゃん、ずっと休みだったし、別の人の可能性もあったから」
「いえ……そう……ですか」
胸に穴が開いた、というほどショックではなかった。少し窪みができて躓きそうになった程度。それでも「あんたは妹みたいなもんだから」と言ってくれた咲の笑顔が、頭の中の後ろの方で浮かんでくる。
今まで知り合って来た中で、菜々子的には少しだけ心を開く事ができた人間だった。それなのに抱いた感情が、水の上に張った氷よりも薄いものだと感じ、頭に夏の日差しのように痺れた感覚が響く。
「大丈夫? 愛果ちゃん」
「あ、ええ」
「ごめんなさいね。今からって時に」
「いいえ。大丈夫です。私達は夜の女優ですから」
「そうね。さあ出来たわよ。いってらっしゃい。大女優さん」
「はい」
ゆっくりと立ち上がり、共有スペースに戻って冷えた安物の椅子に座り直した。仕上げのメイクをする為、付けまつげ、口紅、アイラインを何度も塗り重ねては調整する。
“私達は夜の女優”と咲が言っていた。客の言葉で時には瞳を潤ませ、喜ばせ、嫉妬を見せる。そこにあるのは好意ではなく、女優が観客にあたえる感情と同じだと彼女は言っていた。
「女は生まれた時から女優なの。それを存分にここでは生かす事ができるの」
至極真面目に咲は言っていた。まだ駆け出しの菜々子にはそんなものなのか? としか受け取る事が出来ずにいたが、女優、役を演じるという言葉に関して賛同した。
ただあまりにも長い時間演じ過ぎている為、鏡の迷路の中で右往左往しながら必死に出口に向かおうと、もがく事がある。枝葉のように別れた道を進んでは壁にぶつかり、鏡の自分が「違うわよ」という。
元の道に戻ろうとするが、その道さえも時に失いそうな事もある。通路の四方には自分がいる。でもどれも本当の菜々子ではなく、現実を演じて生きる女優菜々子。
歩いても走っても常に付いてきて、本体を飲み込み一体化しようとする。そして菜々子に囁く。「その方が楽だよ」と。違う。本当の自分じゃないと呪文のように唱えながら、やっと出口を見つける。
目の前にある鏡台にいるのは誰? と心の中で菜々子は問い掛けた。「私は私よ」菜々子との言葉は、開店で慌ただしい騒音で、かき消された。
「愛果さん。お願いします」
ボーイが菜々子の横に立つ。
「はい」
片手にポーチ、もう片手をボーイに預け、菜々子は本番の舞台へと向かった。エレベーターの前でボーイが、指名者の名前を伝える。
「五階に笠(かさ)村(むら)様です」
「ありがとうございます」
ボーイが無線で下の階とやり取りをしているのを、ゆっくり閉じるドアの隙間からぼんやりと見ていた。
一つ下の階、六階でエレベーターを降りる。三メートル程の通路を歩きVIP専用のロフトスペースを横切り左右に枝分れた白い階段を下りる。
五階と六階の床を取り払い、中世ヨーロッパのような白い階段を左右から伸ばし、その上には赤い絨毯が敷かれている。下り切るとそこは正面玄関になっており、直通の客専用エレベーターの最終着地点になっていた。
広々とした空間にはグランドピアノが悠然と置かれ、吹き抜けになっている天井からは、きらびやかな強大なシャンデリアがぶら下がっている。
五階奥には大小合わせて三つの個室と通常のソファ席、大理石のカウンターの中には、壁一面にワインボトルの冷蔵庫が出番を待っている。六階は五つのプラチナ専用個室があり、内装は全て違ったものになっていた。
ブリーゼフルールでは、三十歳未満は会員になる事は出来ない。また会員になるには、通う者に紹介という形でないと、登録する事はできない。
その中でも店が定める条件をクリアした客がプラチナ会員になる事ができる。条件には年収は勿論、会社の規模、使用頻度などがあるらしいが、菜々子はあまり詳しくまでは覚えていなかった。
ただ社長、会長の肩書を持った人間、政治家、芸能関係者とテレビで見かける顔が大勢出入りしている。
階段を下りて奥のラウンジにいる笠村の元へ向かった。子供の背丈程の高さで、数席ごとにベルベット調の壁のあるソファで区切られた席の島に、笠村はいた。
年齢は四十代だが、体は風船のように膨らみ、髪は体から滲み出た脂が浸透しているのかべた付きながら光っている。それでも身に付けているものは、さりげなく一級品。ただ菜々子には着飾ったガマガエルのようにしか見えない。
「愛果ちゃん! 久しぶり。会いたかったよ」
「私もです。笠村様」
「ささ、座って」
「失礼します」
菜々子は膝が少し当たる程度の距離で、腰を下した。
「何か飲みたいものあるかな?」
「そうですね。笠村様が飲みたい物がいいです」
「じゃあ軽くドンペリのピンクからしようか」
「はい」
ボーイを呼び酒を運んでもらう。
「愛果ちゃんは最近、忙しかったのかい?」
「ええ、色々とありまして。笠村様はどうでしたか?」
「それがさあ」
笠村は為替トレーダーで、金を稼いでいる。話を聞いていると中毒に近い。稼いだ金はこうしてクラブや身の回りには使ってはいるが、派手には使わない。
ただ画面に映し出される金額が増える事に喜びを覚えていた。彼の話しは世界経済と金融関係の話で、聞いていて損はない。流れる川から必要なものを拾い集め、自分の懐にしまう。余計なものは全て、店内のBGMの一つとして溶けて消えていく。
「お、酒が来た。ちょっと待って」
笠村がグラスに氷とシャンパンを入れ、マドラーでクルクルと回した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
本来ならすべてはホステスである菜々子の仕事だが、大概の客がこうして菜々子に酒を作ってくれる。
「すごく美味しい」
それだけで相手は喜ぶ。それが嘘でもいいのだ。相手が欲しがるものを与える。対価にお金が入る。十五分ほど経ったころ、違う客からの指名が入った。
「笠村様。ちょっと失礼しますね」
「また来てね」
「ええ、勿論」
菜々子は営業用の笑顔を笠村に見せてから、席を移った。指名してきたのはプラチナ会員の浅居(あさい)剛(つよし)だった。昨年までは国会議員をしていたが地盤を息子に渡し、隠居生活送っている。
愛果を孫のように可愛がっては、高級な酒を幾つも頼み、来店すればいつもサンタさんだと言って、何かしらプレゼント渡してきてくれるいい客だ。
「愛果ちゃん。久しぶり。元気だったか?」
「ええ。浅居様は?」
「元気元気。少し前、久々にハワイでゴルフをしてきたよ。で、これお土産ね」
「ありがとうございます! アクセサリー?」
「ああそうだ。開けてみなさい」
手のひら乗る小さな箱には、有名ブランドのロゴがある。中には店内の光を浴びて、星のように光るブレスレットが入っていた。
「これは」
「プラチナだ。三カ所にはダイヤが付いている。どうだ? 気に入ったかな?」
「ええ! 凄く綺麗です」
プレゼントで浅居が菜々子のことをどのように思っているのか、全てを語っていた。
浅居の横には少し若い四十代半ばの眼鏡をかけた男性が座っている。浅居は菜々子の送った視線に気付いていた。
「これは外務省に勤めている、退屈な男の柿田(かきた)という奴だ。こう言う所に来た事がないらしくてな。ひっぱってきたんだよ」
「柿田様、愛果と申します。よろしくお願い致します」
営業用の名刺を差し出した。柿田も慌てて名刺を出す。だがその手が空中で止まった。
「どうかされましたか?」
動きの止まった柿田を不思議に思い、少し首を捻ねる仕草をする。
「あ、いや。爪が」
「爪? ですか?」
「ええ、邪魔じゃないんですか?」
挟まれる様にいた浅居が、声を上げて笑いだした。
「柿田! お前は! いやいやすまない愛果ちゃん。こういう奴なんでな」
「いえ。すごく新鮮で、楽しい方ですね」
「よかったな柿田。愛果ちゃんに気に入られたぞ」
浅居はまだおかしいのか、小さく肩をまだ振るわせている。
「あ、名刺」
「ああ」
愛果は宙に浮いたままの名刺を、柿田の指にそっと触れて交換をした。
「これからもよろしくお願いしますね。柿田様」
「え、あ、はい」
その後は浅居の趣味の刀の話し、息子の話と独断場が続き、合間に相槌と質問を出して会話を続け時折、柿田と視線を合わせては笑顔を送った。でも直ぐに視線を反らされた。
しかし愛果は浅居が話している時、柿田が自分の事を見ている事に気付いていた。目の端に入って来る柿田の視線に、熱が入るにはそう時間は掛からなかった。
浅居が外交の話しを始め出そうとした時、ちょうどボーイが次の指名を持ってきた。
「浅居様。少し失礼します」
「おお! そうか。売れっ子は忙しいな。また後で」
「ええ」
愛果の手を両手で包み込むと、柔らかくなった皺だらけの手で何度も撫でる。既に席を立っている愛果と浅居は、まるで女王と忠誠を誓う下僕のようだった。
「それでは後ほど」
と挨拶をし、柿田の視線を感じつつテーブルを移動した。
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