第9話

 午前零時を前に、アフターをする同僚達を横目で流しながら更衣室へと戻ろうとエレベーター前に立った時だった。


「愛果さん。本日浅居様と来られた柿田様ですが、入会したいと申し出があったようです」

「そうですか。浅居様にお礼を言わないといけないですね」

「よろしくお願いします。柿田様の連絡先は?」

「名刺を頂いて、アドレスも書いてあったので、入会が認められれば、こちらから連絡を入れるようにします」

「分りました。お疲れ様でした」

「お疲れ様です」


 部屋に入ると帰り支度をしたり、椅子にすわったまま携帯を持ち、指を動かす事に集中している者と、いつものように中々賑やかだ。


 菜々子はロッカーからコットンを持ち、空いている鏡台に座って瞼に押し当てると、フロアの熱気を引きずっていた皮膚を引き締める様に液体がじんわりと染み込む。


 押しつけるように拭き取ると、アイメイクが滲んで白い綿の上に版画のように移った。付け睫毛を取り、顔全体をコットンで拭き取ってロッカーに置いてある私服に着替えた。


 周りは自分の事で精一杯で、誰も菜々子を気にしてはいない。コートを羽織って「お先に失礼します」と、いつも誰からも返事がない挨拶を落して、店を出た。


 周りはまだネオンが輝き、見上げる空はライトアップされ明るい。菜々子の家までは電車で二十分、終電は一時近くまであるため店の送迎を利用する事は滅多にない。


 遠方や終電が早い路線のホステス達は、店が用意している車で送って貰う事ができる。アフターをする人は、自然と相手に近くまで送ってもらうが家の前まではなく、二駅ほど離れた場所で降ろしてもらい、そこからタクシーを使う事が多い。


 金持ち相手とは言え、人はどんな時に変わるかわからない。用心に越したことが無いというのが、店の考えだった。


 ホームに立つと、ゆらゆらと揺れているサラリーマン、大声を出しながら笑うグループ、座り込んで寝てしまい、駅員が揺さぶるが全く起きる気配がない男性。同業者と思われる女性が、父親程に歳が離れている男性に腕を絡ませながら体を預けて、甘えるように顔を上げている。昼とは違った賑やかさがあり、菜々子はそれが嫌いではなかった。


 風が頬に突き刺すように吹いた。冷え切った頬に当たる風は、程良く感覚が麻痺した皮膚に、悪戯をするように突いているようだった。



 体は重力から解放されているかのように軽いのに、見えない何かが圧力をかけ身動きが出来ない。目を開けると赤く黒い、天井とも空とも取れる景色があった。


 周囲は暗く、先見えず距離感がまるでわからないが、頭上の景色だけははっきりと見えた。


 そこには両親と妹の顔があった。妹は目を閉じたままで、両親は菜々子を瞬きもせずに直視している。


 赤い天井は風を感じられないのに、ゆらゆらと小さな波を立てていた。菜々子は話そうとするが、声がでない。いや声を出すという機能が、初めから備わっていない事に自分自身、気がついていなかった。


 顔に手を当てると平らな口元があった。それでも喉を鳴らし、空気振動でニュアンスを伝えることも可能かもしれないが、それさえ出来ずにただ頭上にいる家族に向かって体を伸ばすしかない。


 しかし足が鉛のように重く、思うように跳ねることもできない。バランスを崩し手をつくと、粘りのある物が手についた。


 暗闇の中、それが血だと言うことを認識できた。見上げると、顔の横に足首が外に曲がった脚、手は折り曲がって明後日の方にむいていた。胴体は沈んで見えない。妹は目を閉じたままで、菜々子は何となく、昼寝をしているんだと感じた。


 両親は話しかける事も無く、視線をただ菜々子に静々と注ぐ。どうする事も出来ず手を上に上げて、両親に引き上げてもらおうとしていた。


 急に足元が不安定になり、自分の意思とは無関係に沈んでいく。必死に動かそうとするが、足を取られどうにもならない。上半身を激しく動かしても、それをあざ笑うかのように体を飲み込んでいく。


 逃げようと必死にもがいているのに、どこかでこのまま沈んでしまった方が楽になれると、もう一人の自分が遠くから言っている様な気がした。


 飲み込まれた体は気が付けば先程見上げていた家族のいた場所に移動していた。しかし足元の家族はうつ伏せのままで、沈んだと思ったがどうやら、上に浮上したらしい。


 菜々子はなぜか足元の家族を今度は気にも留めず、歩き始めた。そこは見知った場所だった。住宅街にしては広い道路の中心を歩いていると、車が走って来た。そして菜々子の前で止まり扉が開いた――



 セットしていた目覚ましで起きたのは、昼前だった。水色のカーテンに外からの日差しの温もりが窓を通して感じられた。部屋は二十五度に設定しているが、菜々子には少し暑く感じられた。


 夢の中での体の重さが、現実の菜々子の体に幻覚として張り付き、気だるさが足にも出ていた。


「今日は暖かそう」


 ベッドから下り、足を引きずるようにしてリビングにあるテレビを点けた。昼のワイドショーはクリスマスグッズや主婦向けの料理紹介が映し出される。リモコンの数字を順番に押して最後にニュースにチャンネルを合わせ、それを見ながら身支度を整えた。


 今日は最後の講義になる。単位も出席日数も足りているので欠席しても問題はないが、自分で稼いで通っている以上、出なくてはという気持ちがあった。髪をセットし終えコーヒーを飲むと、テーブルの赤松と目があった。


 昨夜は席を共にした客に、飲食業界者はいなかった。異種業であっても、どこかで繋がっている可能性が多い。機会を伺ってはいたが、話しを持っていくにも難があるような気がし、赤松の情報を聞き出すことができなかった。


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