第10話

 ソファに座り、表紙の赤松に熱い視線を送る。しかし赤松はどこか遠くを見ていて菜々子に気が付かない。耳、鼻、顎、目、顔の線という線を何度も指でなぞる。雑誌を買った日から、暇があれば同じ事を繰り返していた。


 点けたままのテレビから、ホワイトクリスマスは難しいという声が聞こえてきた。世の中はクリスマスというだけで、特別な気分になれるようだったが、菜々子には全く遠い出来事だった。


 ただ年が明け、正月が来ると春が来る。桜が綺麗に短い命を精一杯に咲きほこったと思えば、もう青葉が茂り木にはセミの大合唱が木霊する。静かになった頃にはもう冬が目に前にある。四季を感じること無く、毎年菜々子の横を勝手に季節が素通りしていく。


 心はまだ小さい時期のままで止まり、起きて自分の体が大人になっている事に気付いて時間の経過に落胆する。


 家族だけは時間が止まり年を取る事も無いのに、自分の体だけが親に近づこうとし、妹との歳の差はどんどん開くばかり。


 耐え切れず死のうと何度も思ったが、自分の子供のように愛情を注いでくれた伯父夫婦に泣きつかれれば、一歩踏み出せずに来た。


 菜々子はいつも底の見えない崖に座り、足をぶらつかせてはいつでも飛び降りる事ができたのに、結局死ぬことができないのは自分が不甲斐ないだけと気付いた時、生に対する執着が意に反してある事も知った。


 自分という存在が何処にあるのかわからないが、生きる者として荊木菜々子を演じ、それによって伯父夫婦が安心し、今の自分の生活の基盤が出来上がった。


 だがこの赤松玄一の側に行けば、自分を取り戻せる。それが決して出来上がる事がないパズルのように欠けたままだとしても、補うだけの存在であることを、菜々子は確信していた。


 食い入る様に見ていた雑誌の端で、私用と仕事用二つの携帯が点滅しているに気付いた。


 仕事用のピンクの携帯には、数件の客からのメール、白の私用には中道からのメールだった。


 客からのメールに目を通してから、中道のメールを読んだ。昨夜、ベッドに入る前に送っていた件に関する返信だった。店用の携帯でカレンダーを確認した。


 週が明けると世間は繁忙期に入り、徐々に帰省が始まってもおかしくない週になってくる。丁度水曜日が祝日なので、週明けから二日間利用すれば、まだ混雑も無く席も心配ないだろうと考え、中道にお礼のメールをして、そのまま京都行きの新幹線を予約した。


 菜々子は昼から最後の講義を終え、最寄駅から六本木に移動した。複合施設で夕方までの一時間半程潰し、頃合いをみて銀座に移動した。夕方とはいえ真冬の空はすでに夜が浸食し、太陽の残光も既にない。


 クラブの本営業まで時間にまだ余裕はあるが、すでにスタッフが入り準備をし始めている店からは、黒いエプロンをした男達が出入りしているのが目に入る。周りは場所が場所だけに家族連れはおらず、サラリーマンが道すがら歩いているという感じだった。


 菜々子は地図を見ながら立ち並ぶ雑居ビルの中から、SYビルという名前を見つけ、細いネオン看板の中からクラブミッシェルを見つけた。


 四階と書かれた看板にはまだ灯りが点いてはいないが、電気が灯ればピンクのプラスチックの中に黒い文字が綺麗浮かび、他の灯りとせめぎ合うだろう。


 そしてこの街を明るくする光の一部になって、夜をライトアップする。その戦いに負けると、明かりは点かずそこだけがすっぽりと空くだけだ。


 菜々子は潰れていない事を確認し、エレベーターに乗った。四階で降りると、大きくは無いエレベーターホールに敷き詰められた赤い絨毯が出迎えてくれた。


 まだ照明が落とされているので、薄暗い妙な静けさがある。店の入り口には、普通の店の戸口よりも大きく、こげ茶色の重厚な木製の扉があった。


 扉は開けられたままで、中で人が動いている気配がある。様子を伺いながら、「すみません」と声をかけた。誰かが気付き、返事をしながら男が急ぐ事も無く、ゆっくりとした足で菜々子の元へやって来た。


 菜々子と同じくらいの年だろうか。黒服の胸元を大きくあけ、耳にはルーズリーフのようにリングのピアスを連ねていた。開口一番に男は、

「面接? ママはまだ来てないんだけど、君なら絶対に大丈夫だよ。で? いつから? 今日からでもいいって言ってくれると思うよ」

「いえ、面接ではないんです。聞きたい事があって」

「え? うちで働きたいんじゃないの? 働きなよ。絶対にナンバーワンになれるから」

「いえ、ですから」


 人の話しを聞かない男を煩わしと思いながら、低姿勢で押し問答をしていると、店の奥からもう一人、落ち着いた感じの男性が出てきた。


「おい。何してんだ?」

「いや、この人が……」

「すみません。お尋ねしたい事があります」


 姿勢を正し、相手を牽制するような口調で話した。しかし男は菜々子の顔を真っ直ぐ見たまま、微動だにしない。


「なに固まってるんですか? 周防(すおう)さんでもこんな美人を目の前にすると、固まるんですね」

「は、はあ? 何言ってんだよ。お前は店の準備をしておけ」

「携番かアドレス、聞いておいて下さいよ」

「すみません。それで?」


 やっと静かになった。この周防という男は、どこか人を安心させるような声色を持っていた。


「咲さんって方がここで働いていたと思うんですが」


 菜々子は周防を見上げるように言った。彼が背の高い体格のいい人間だと気付いた。よく見ればスッキリした顔立ちに、シャープな太い眉の直ぐ下に、一重のくっきりとした大きな目元。


 女性が好み寄って来る顔だと思った。先ほどの男とは違い、シャツのボタンを上まで止めている。肘まで捲り上げられたシャツから見える腕は、筋肉が引き締まり若さと男らしさがみなぎっていた。


「知り合い?」

「はい。色々と教えて貰って、仲良くさせてもらっていました。でも亡くなったと聞いたので、事故か何か病気だったんですか?」


 周防は開けられたままの店の扉を閉めた。


「わからない。でも変死体として解剖には回されたらしいけど、死んでいたのは密室の部屋で、荒らされた様子も無かった。でも――」


 周防は言葉を切った。不審がられているとは思えない。夜の女同志の付き合いは、仲がいいと言ってもあっさりしていたり、寂しい時に寄りついたり、忙しくなれば連絡も途絶える。


 そして忘れた頃に、空白期間など無かったように連絡があったりと、猫のような行動が多いということは、言われなくとも分かっているだろう。


「どうかしましたか?」

「――体が痣だらけで、切り傷もあって、顔は腫れてたり……かなり酷くて。でも争った後も、乱暴された形跡もなくて、割れたコップと一緒に倒れていた。水を飲もうとして、力尽きたって感じだったな」


 周防は口元を手で押さえながら、見てきた光景を思い出すかのように視線を過去に向けながら遠くを見ている。疑いの目をもって周防を見た。


 それに気付いたのか、周防は話を続けた。


「俺は何もしてない。欠勤が続いて売掛金の事もあったから、ママに言われて部屋に行ったんだよ。そしたらポストに郵便は溜まってるし、おかしいと思って管理人を呼んだら、目出度く第一発見者って訳だ」

「そうだったんですね。すみません」

「いや。俺の言葉も足りなかった。それで、なんだっけ?」

「咲さんにお線香を上げたいんですが」

「ああ、それなら京都の実家になるな」

「京都の場所はわかりますか? 訃報を教えてくれた人に聞いたんですが、京都ということしか分らなくて」

「ちょっと待ってて」


 周防は店内にもどりメモを手に戻ってきた。


「これが詳しい住所。それと本名が天田(あまだ)楓(かえで)。でもわざわざ本当に京都まで?」

「はい。もうチケットも取りました」

「一緒に行こうか?」

「え?」


 二人の間に一瞬の静寂が訪れる。菜々子は周防を見つめ、周防も菜々子を見つめている。そしてようやく自分が口にした言葉の意味を理解したようだった。


 慌てながら「そうじゃなくて」と弁解をしている。菜々子には演技をしているとも思えず、これが素の彼なのだろうと、なぜか疑うことなく感じる事ができた。それは多くの男達に接し見てきたかもしれない。


 それに周防からは長年、家族愛に恵まれ育ってきたという雰囲気が体に蓄積され、漏れ出ている感じがあった。


「周防さんみたいな人がクラブで働くの、珍しいですね」と言ってみたが、菜々子の棘は、柔らかな周防の雰囲気には無力だった。


「先輩の頼みだったんで。仕方無くだよ。えっと……そう言えば名前を聞いて無いな」

「愛果です」

「それって源氏名?」

「はい」


 菜々子は笑顔で返した。周防は不服そうではあったが、気付かない振りをすると、相手もそれを汲んだようだった。


「愛果さんは何処で働いてるだ?」

「周防さんでは中に入れないクラブですよ」


 初対面ではあったが、見ているだけで徐々に苛立ちを覚えてきた。相手の性格の良さを逆手に取るように、笑みを絶やさず拒否をする。


 それはまるで恋人に嫉妬をするような感覚に似ているのかもしれない。断定できないのは、菜々子自身がちゃんとした恋愛をしたことがないからだ。


「――そうか。じゃあ上客相手の店なんだな」

「ええ。そうです」


 周防は一つ大きな溜息を落した。


「一応そのメモに、俺の連絡先も書いておいた。何か困ったことがあったら、連絡をしてくれてもいい」

「困った事があれば、もっと頼りになる人が沢山いるので大丈夫です。咲さんの住所、ありがとうございました。じゃあ」


 会話をどれだけ切り返しても、心の中で渦巻く黒い靄は晴れずに濃くなる一方だった。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あとがき

どうも作者の安土朝顔です。

いつも読んでいただきありがとうござます。

この作品は第45回横溝正史ミステリ&ホラー大賞に応募しています

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