第36話

 汁まで飲み干したカップ麺の容器を脇にあったゴミ箱に投げ入れ、すぐにネットを立ち上げた。そして鎌田が通っていた店を打ち込こみ名前を入力してみるが、店のホームページが出てきても、キャバ嬢の写真までは出てこなかった。

「キャバクラですか?」

 後ろを通り過ぎた渋谷署の若い刑事が、パソコンを覗きこんできた。

「いや鎌田明理の働いていた店だ」

「鎌田……ああ、あの傷だらけで衰弱死の」

「知っているのか?」

「まあ。というか刑事課いや、渋谷署で知らない署員はいないんじゃないですかね」

 若い刑事は意味ありげに、ほとんど人がない部屋を見回している。


「家族がね、もうそれはそれはしつこく喚いて、連日来ていましたから。それでその時は比較的暇だったんで課長が調べたらって感じで。課長はなんだかんだ言って、正義感が強いというか、押しに弱いというか……」

 人としての情が松井に残っていたんだろう。調べ始めたところで大きな事件が発生して、そのまま放っておくこともできず、どこかの経路を伝って退職間近の自分のところに白羽の矢が立った。若い刑事は続ける。

「でもネットで顔写真でるのは風俗の方が多いんじゃないですかね?」

「そうか? まあどちらにせよ、足を運んでみるさ」

 男はお疲れ様ですと言いながら、ポケットから煙草を取出し部屋を出て行った。

「サキ……」何となく沖谷は呟いてみる。そして脇にまとめてあった資料をめくった。

「――あった」


 気が抜けてしまっているのか、ただの老化現象なのか沖谷は自分に嫌気がさした。鎌田明理と同じような死に方をしていたホステスだった。本名天田楓の隣には咲と書かれていた。沖谷はその日すぐに天田楓が勤めていたクラブミッシェルを訪ねた。

 先日訪れた豊とは対照的に、客はまばらで静かだ。出迎えたボーイにいつものように身分証明を見せ、店の責任者を呼び出してもらうつもりだったが、生憎ママもオーナーも不在だという。

「連絡をとりたいんだが」

 沖谷は金髪にやたらと耳にピアスをしている男に対し、少し威圧的な態度をとった。


「いやあ……俺、わかんないッスよねえ……チーフも遅れるっていうし。マジ勘弁って感じなんすよ」

「じゃあ名刺を渡しておいてくれないか?」

「イイッスよ」

「以前ここで働いていた、天田楓、咲という女について聞きたいことがあると伝えてくれ」

「咲? 天田……?」

 マヌケ面で何も考えてなさそうな顔の眉間に、皺が寄ったのを見逃さなかった。

「知っているのか?」

「そういやあ以前にも訪ねてきた女がいたんスよ。もうそうりゃあ美人の美人」

「名前は?」

「そういや俺、教えてもらってないや!」

 顔は直ぐにマヌケ面に戻った。今楽しければそれでいい。今どきの若者らしい考えだった。だから珍しいことじゃないと金髪を見つめた。


「じゃあその女は何しにここへ?」

「なんか咲に焼香を上げたいから家を教えてくれって。でも確か実家が京都で……」

「京都? じゃあその女性はわざわざ京都へ?」

「そこまでは分んないッスよ。東京の家だろうと思って聞いてみたら、京都だったって感じなんじゃない?」

「そうか。ところでそれはいつ頃なんだ?」

「えっと周防さんがいて、俺がいて、んで一回ここを辞めて戻ってきたから……」

 男は無意味に指を折っているが、それが何故か両手に達しても足りていない。

「三年か四年くらい前。咲さんが死んですぐ位だったから」

 そんな前なのに今、名前を聞いてないと昨日の事のように言ったのかと思うと、脱力せずにはいられなかった。

「その咲なんだが、なんか覚えてることないか?」

「うーん……ない。美人でもなかったし、俺の好みでもなかったし」

「そうか。とりあえずママかオーナーに連絡をくれるよう言っておいてくれ」

「了解!」とふざけた敬礼をし、一気に疲れが襲ってきた。

 その後、鎌田と咲こと天田楓の接点を調べてみたが、同じ店で働いた形跡はなかった。


 沖谷はデスクに戻り、鎌田明理の現場写真を広げた。床にうつ伏せになって写っている鎌田の顔は穏やかだった。部屋の写真を並べ、その中に一枚が目についた。部屋の隅に置かれたテーブルにノートパソコン。そしてベランダの窓。

 沖谷は写真を見ながらすぐに鎌田の家に電話を入れた。留守なのか機械的なメッセージだけが流れてくる。沖谷は用件だけを吹き込み、折り返しの電話を待つことにした。その間に報告書に書いてあった京都の天田の家に連絡を入れる。こちらは直ぐに繋がった。

「はい天田です」

「突然すみません。私、警視庁の沖谷と申します」

「警視庁? 東京のですか?」

「ええそうです。突然で申し訳ないんですが、娘さんのお知り合いで鎌田明理という女性をご存じではないでしょうか?」

「鎌田? いや、聞いたことないわ」

「そうですか」

「その鎌田さんって人、うちの娘の知り合いなんですか?」

「ええ多分。ですが亡くなりまして。何か聞いておられたかと」

「すんません。娘とはそんな話しをほとんどせんかったというか、聞けんかったんで……でも娘は多分、人には言えないような仕事をしていたと思います。でもわざわざ東京から来てくれはった子がおりましたわ」

 沖谷はハッとした。たぶんあの金髪が話していた子だと直感した。

「名前、憶えてますか?」

「ええっと確か……そうやそうや。荊木っていう名前でした。うちの娘にお世話になったって。すごい別嬪さんでしたわ。その子に、楓の様子を聞いたんやけど、店を移ってからは知らんっていうてはった」

「イバラキさんですね。その女は、京都にはどうやって?」

「さあ……どうやったかなあ」

「そうですか。ありがとうございました」

 わざわざ京都まで行ったイバラキという女が何かを知っている。もうすぐ使うこともなくなるだろう刑事としての直感が、そう訴えていた。


 それからもう一度あの金髪がいるクラブに顔を出した。理由は、店から何の連絡もない。あの金髪と当時一緒に働いていた男が、何かを聞いていた風な事を言っていたのを思い出したからだった。

 店のある四階まで上がると、雰囲気がおかしい。もう夜の七時だというのに、店を開けている風ではない。ノブに手を掛けると難なく扉が開く。店内の照明が半分ほど落とされていて、テーブルや椅子が歯抜けで置いてあり、アンバランスな空間ができていた。

「申し訳ありませんが。店を閉めることになりまして」

 呆気にとられていると、ジーンズにアンサンブルを来た女が近づいてきた。

「数日前まで普通に営業をしていたのに?」

「この世界、そんなもんですよ。ところであなた、店に来たことって……」

「ああ、私は渋谷署からきた沖谷です。数日前に金髪の男に伝言を頼んでたんですけどね」

「ああ」といいながら店を見渡している。年は三十半ばくらいだろうか。ピンと伸びた姿勢がいいその姿は、水商売をしているようには見ず教師のような風を纏っていた。

「聞いてはいたんですけどね……見ての通りバタついてて」

 危機一髪だと沖谷は思った。数日遅れていれば、ここはもぬけの殻になっていて、見つけるのに手間取っていたかもしれない。

「みたいですね。それでなんですが、以前ここにいた周防という男の連絡先を知りたいんですが」

「周防……周防……ああ。ちょっと待ってて」

 女が店の奥に消えて戻ってきた。「これあげるわ」と、履歴書を手渡してきた。

「どうせこの店はなくなるし、必要もないし。私雇われだったから、これからどうしようかな」

 個人情報という概念はないらしい。女は言葉とは反対に、大きな欠伸をしながらカウンターへと入っていく。


「最後にどう?」

「いや、勤務中ですから」

「ふうん。それでその周防に何を聞くの?」

 沖谷はこの女にまだ話を聞いていないことに気づいた。

「鎌田明理、ミクって女を知っていますか?」

「鎌田……ミク……聞いたことないなあ」

「それじゃあ天田楓、咲は知っていますよね?」

「ああ死んだ子ね。全く驚いたわよ。まあでも」

 女は一度間をおいた。

「ヤバいことに足を突っ込んでたんでしょうね」

「ヤバい事って? 何か心当たりでも?」

 女はタバコに火をつけて、まるで勿体ぶるような仕草だ。

「さあそれは私にもわからないけど、羽振りが良くなってたみたい」

 そこで言葉を区切ると、店の中が静かになる。女はグラスに入れた酒を一気に飲み干して続けた。

「刑事さん。人の趣味って色々あるのよ。それに死んだ人間は戻ってこないんだし」

「趣味? どんな?」

「そんなの知らないわよ」

 店の外でエレベータの開く音がした。

「すみませーん。引き取りにきました」

 三人の作業の男たちが、沖谷の存在を無視して入り込んできた。

「やっと来たわね。適当に運び出してちょうだい」

 男たちは怠そうに返事をして、手馴れた風に次々と店の中のものを運び出していく。

「刑事さん。もういいかしら。私も忙しいのよ」

「そうですか。何か思い出したら連絡を」

 沖谷はいつものように名刺を渡したが、連絡は来ないだろうと思った。


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