第22話

 まず長袖シャツを着せてから清香を立たせ、ズボンを履き替えさせた。妹にしていた昔を思い出し、不謹慎だと知りながらも胸が躍っていた。


「晩御飯、何か食べたいものはあるかしら?」


 清香が不思議そうに首をかしげるので、言葉を変えて菜々子は好きな食べ物を聞いてみた。


「……バーグ」

「え?」

「ハンバーグ、が好きです」

「そう。なら買い物に行かないとダメね。少しここで待っていてくれるかしら? 二十分ほどで戻って来るわ。なんならお風呂に入っていてもいいし。じゃあちょっと行ってくるわね」

「あ、あの!」


 清香が初めて大きな声を出した。


「わ、私、ここに居ていいんですか?」

「もちろんよ」


 菜々子は清香の頭を優しく撫でながら、忘れていた慈しむという気持ちがじんわりと込み上がってくるのを感じ、満たされた気分になった。


 急いで買い物を済ませて来た菜々子が部屋に戻ってくると、出た時と変わらずに座った格好のままの清香を見て胸が痛んだ。


「ごめんね。床暖房を効かしているけど、ちょっと待ってて」


 今日は寒のもどりのように冷えていた。菜々子は膝掛けを出してくると、清香に掛けてやった。


「部屋の中は自由に動きまわってもいいし、喉が乾いたら勝手に冷蔵庫を開けて飲んでくれていいからね?」


 清香は力なく頷きはしたが、染みついた奴隷のような生活の垢が取れるのに時間がかかりそうだった。


「ついでだから靴下とか細々した物を買って来たの。ハンバーグを作っている間、テレビでも見ておく?」

「……はい」


 菜々子はテレビを点けてからリモコンを手渡した。


「さてハンバーグ、頑張って作るわ。楽しみにしていてね」


 台所で準備をしながら清香を見ていたが、点けた時のままのチャンネルを変えず、流れ始めたニュースをじっと見ている。


 最近、あまり料理を作る事が無かったので少し時間がかかったものの、何とか作り終える事ができた。食事をリビングテーブルに運び用意を済ませる。清香の前に目玉焼きが乗ったハンバーグにソーセージを盛りつけ、温野菜も乗せて温かいスープも用意した。テーブルの中央にはサラダボールを置き準備が終わる。


「どう? 美味しそうでしょ」


 清香はじっとテーブルの上を見ているだけで、反応がない。


「ああ、私と清香ちゃんのハンバーグの色が違うのは、私は豆腐ハンバーグにしたから。私はこっちの方が好きなの。大丈夫。変なものは入って無いから。早く食べてみて」

「あの……本当にここで食べてもいいのでしょうか?」

「当たり前でしょ? 温かいうちに、さあ」

 清香が戸惑いながら箸を持ち、ハンバーグを口に運んだ。菜々子は反応が見たくてうずうずしていた。

「どう?」


 清香はゆっくりと噛みしめながら口を開いた。


「温かくて美味しいです」

「そう! どんどん食べて」


 そのまま清香の箸は止まることなく食べてくれたので、菜々子は胸を撫で下ろした。

 食器を洗い終えたあと、デザートに買って来たイチゴの用意をして戻ると、清香はソファに背中を預けて眠ってしまっていた。そのままにしておく事もできず、清香をベッドに連れて行こうと持ち上げてみた。思った以上に軽く、四十キロもないように思えた。


 ベッドに移動させてから菜々子は、浅居から貰った封筒の中身を出し、一枚一枚目を通していく。生い立ちから家族構成、クラブに入って来た理由。こまごまとした事と清香の身体的欠陥個所の説明が書かれている。


 左耳の鼓膜が一度破れてしまい聴覚が少し落ちている事。右目の視力もかなり低く左目の視力は1.5程。左の薬指は神経の切断があり上手く動かす事が出来ず、右足も骨折した時に適切な治療を受けなかったために、少し引きずるようになったとある。そして女性として大事な子宮は、子供を宿す事が出来ないと書かれていた。自然と力が入り持っている資料の端が皺だらけになっている。そして菜々子と共通し、家族を亡くしている。


 深呼吸で気持ちを落ち着かせ、携帯を手に取った。画面には周防からの着信とメールがあったがそれを無視し、店に電話を入れた。この時間ならもう誰かしら店に来ている。菜々子は欠勤の旨を告げてからインターネットを開けた。


 翌朝、菜々子はソファで目を覚ました。深夜まで何度も資料に目を通し起きていたが、あれから清香は死んだように寝たままで起きてくる事はなかった。でも先に目を覚ましたのは清香で、体に揺れを感じて起こされたのだった。


「すみません。すみません」


 起きると、目の前で泣く清香の顔があった。


「どうしたの?」

「ベッドで寝てしまって、すみません。許して下さい」

「大丈夫よ。私が移動させたの。それより今何時かな。大学に行かないといけないの」


 時間を確認するとまだ七時前だ。


「朝ごはんの準備をするから待ってて。その間に顔を洗ってきたらいいわ」

「で、でも」


 菜々子は清香の寝癖の付いた頭を撫でながら「大丈夫」と言った。


 トースト、スクランブルエッグ、ベーコンのいい香りが部屋に充満する。顔を洗い終えた清香は、台所の入口で所在なさげに立っている。


「料理はできる?」

「はい」

「じゃあ、サラダを盛りつけといてくれる?」


 簡単なお手伝いだったが、菜々子は嬉しかった。


 出来上がった朝食を摂りながら「清香ちゃん昨日はそのまま寝ちゃったから、食べ終わったらお風呂に入る?」と聞いた。


「あ……え……」

「ね?」


 清香は押し切られるように首を縦に振り、菜々子は風呂を沸かし始めた。丁度食べ終えた頃に風呂が湧き、タオル、石鹸の説明を軽くして菜々子は食器を片づけてから、清香が着られそうな服を畳んで脱衣所に置いておいた。


 そうしているうちに清香が風呂場から出てくる音がしたので、置いてある服を着るようにと大きな声で伝えた。戻って来た清香に「ジーンズは大きない?」と聞いてみると、「大丈夫です」と返ってきた。


「もう直ぐ私は出て行くけど、昼ごろには戻ってこられるから。家の中は自由に使ってくれて構わないからね」


 準備をしながら菜々子はもう一度軽く説明をした。立ったままの清香をソファに座らせた。


「髪を乾かさないと、風邪をひくわ」


 ドライヤーを持ってきた菜々子は、清香の髪を乾かし初めた。清香の髪は細くて柔らかく、染めた事がないのか綺麗な髪だった。


「いい髪質ね。綺麗だわ」


 菜々子は乾かす事に夢中なり時間を忘れていた。気付いた時には、講義が始まるまで三十分を切っている。


「じゃあ清香ちゃん。また直ぐに戻って来るからね。悪いんだけど家からは出ないでね。じゃあ」


 その日菜々子は講義に身が入らず、周防がいつものように側にいてもずっと上の空だった。

 講義が終わり、教室を飛び出した菜々子を周りは不思議そうに見ていたが、いつもの事なので気にすることなく戻ると、菜々子が出て行った時のまま清香がソファに座っていた。


「ただいま清香ちゃん。もしかしてずっとここに座ってたの?」


 清香は頷いた。


「どうしていいか分からなくて……」

「トイレは?」

「一度行きました。すみません」

「いちいち謝らなくてもいいの。さて買い物に行きましょう。服を買わないとね」


 清香はソファと一体化しているように動こうとしない。


「どうかした?」

「あの……」

「うん?」

「外には出ないほうがいいと思います」

「どうして?」

「……」


 清香の顔が少しだけ反対側に向き、揺れた髪の間から傷が見え菜々子は自分の馬鹿さ加減に腹が立った。


「ごめんね。そうよね。顔の傷……」

「ち、違います。菜々子さんは凄く綺麗な人で、そんな人の隣に私がいるのは良くないことだと……」

「清香ちゃん。私の隣に居て欲しい人は私が決めるわ。私は清香ちゃんに居て欲しいし恥ずかしくも無い。でも清香ちゃんは女の子だし、顔の傷跡はやっぱり気になると思うの。だから無理にとは言わないし、嫌なら一人で行くから」


 菜々子はそっと清香の頬に手を添えた。まだあどけなさが残った顔は、目元もくっきりとした二重で大きく、瞳がこぼれ落ちそうで何より美しかった。そう感じたのは、奥に清香の深い悲しみのような物が宿っているのを知っているからではないだろうか。彼女との境遇に、自分自身を重ねているのかもと菜々子は感じた。

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