第5話
やけに明るい電気が青白く室内を照らし、各々の表情に覇気がない。結婚し子供を持つ捜査官もいる。希薄な夫婦関係とはいえ沖谷もその一人だ。
静寂を一掃する様な激しい声が飛び、それぞれの役割を持ち捜査を始める事になった。しかし近隣の住民も長期休暇で家を空けており、家政婦も同じく休みを取っていたので、情報はなかなか集まらない。
犯人の精液のみ証拠として上がってはいたが、指紋、足跡、目撃情報、駅に設置されている防犯カメラ。それらしき人物を割り出す事が出来ず、時間だけが過ぎていった。
報道合戦も連日続き、警察は苦戦を強いられた。これは犯人の挑戦ではないか? 挙句には犯人の証拠があれば直ぐに逮捕できるでしょ? 無能さが露呈しましたね。など暴言を吐くコメンテーターもいた。
テレビ局も警察を出し抜こうと必死のようだったが、密度の濃い一ヶ月が過ぎれば、二カ月後には、芸能人の話しに埋もれ始め、三ヶ月もすれ月に数回、思いだしたかのように電波に乗る。四カ月後にはそれも無くなってくる。
その間に生き残った被害者の息子夏樹も死亡したと発表されたが、ほんの数分、テレビで流れただけだった。
同時に沖谷の中でふとした感情が湧いてきたが、臭い物に蓋をするように知らない振りをした。それは警察という正義の立場にありながら考えてはいけない事だと、心が自分の意思を無視して感じ取ったようだった。
そんな時、意識を背けるようにふと思い出したのが、沖谷達が切り捨てた交通事故だ。気分を反らす様に交通部を訪ね、事故の履歴を見る事にした。こちらもあまりいいものでは無かった。
家族四人が歩いている所へ、居眠り運転をした配送トラックがアクセルを踏みながら突っ込み、両親と姉妹が巻き沿いになっていた。遺体の状況もかなり酷い状態だったようだ。
この事故で姉十歳だけが生き残って親族に引き取られていた。調書を読むと、住所は霜野邸の近くだった。
誕生日が近かった姉のプレゼントを買いに電車で出掛け、その帰りに事故に遭っている。あの付近の住人なら車を所有していて当たり前ではないだろうか。読み進めて行くと、ちょうど車は点検に出していたとあった。
「運が悪かったか」
パソコンを消して交通部に礼だけいうと、デスクに戻った。
何の手がかりも無いまま半年が過ぎ、一年を迎える頃には規模は当初の三分の一にまで縮小され、沖谷も捜査からから外された。
「沖谷さん。俺、警察を辞めます。もう無理です。転職して、普通のサラリーマンになります。でも多分、何も知らなかった時のようには戻れないし、あの光景を十字架のように背負わなくちゃいけない。夢に見るんですよ。もう疲れました。沖谷さんは凄いですよね。頑張って下さい。お体に気を付けて」
そう言いながら後輩の清水は頭を下げ、去って行った。
沖谷は引き留める事も返事をする事も出来なかった。ただ「そうか」とだけ返したのを覚えている。
清水だけではない。現場を見た捜査員、とりわけ若い者が何人かが退職をした。あのトイレに顔を突っ込んでいた制服警官も例外ではない。
このまま捜査に留まれるように訴えてはみたが、決定が覆る事はなかった。釣鐘はそのまま事件を追うようだったので、しばしば情報をくれたが、事件が進捗する事はなかった。
あの異常者は事件以来なりを潜めて、日本の何処かにいる。ちょうど時効制度が廃止された時期だったが、犯人はそれをどう考えているのだろうか。
常人達にまぎれ、晴れた日にはカフェで何事も無かったようにお茶でも飲んでいるのだろうか。それともまた人を殺したくてウズウズしているのか。だが捜査から外された沖谷が足を棒にして捜査する事はできない。
命令が下れば、事件から事件へと渡り鳥のように移動しなければならない。その後、多くの事件を扱い忘れようと努めてはいたが、あの件だけはずっと沖谷の体の何処かでなりを潜め、ふとした時に姿を現していた。
二十五年逃げ切れば勝ちだった時効も撤廃されたが犯人と同じく、この件に関しては沖谷に時効はないような気がしていた。
数年過ぎた時、廊下ですれ違った釣鐘に言われた事があった。
「気持ちは分らなくもないが、執着する必要はない」と。そんな意識は無かった沖谷は、呆気にとられてしまった。
ただ、忘れられない事件だったと答えると、釣鐘は苦虫を潰したように笑っていた。そして肩を二度ほど叩き、廊下を歩いて行った。沖谷は歩きながら叩かれた右肩にそっと左手を添えた。
風に乗ってアナウンスが聞こえてきた。気が付けばもう駅が目の前にある。
新しい証拠も目撃情報も、十年以上経てば全くと言っていいほど出てはこない。それ以前に事件が、褪せた絵のようになっている。
無いに等しい証拠。退職までの短い期間に、犯人を捕まえる事はできないだろう。でも奇跡に近い確率でもし、犯人と向き合う事があったら? 沖谷には分からなかった。
衝撃的な事件だったから諦められないのか、他の理由があって自分が動こうとしているのか。切符を買い電車に乗った。ホームから見た空は、あの日の空よりも灰色の厚い雲が覆っていた。
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