第33話
しばらくして周防から連絡があり、久々に会うことになった。新宿にいいイタリアンの店があると、案内された。店内はアットホームな作りで、十席もない広さだ。仕事帰りの周防はスーツの上着を脱いだ。
「とりあえず俺はビール。菜々子は?」
「じゃあ私はスパークリングワインで」
周防が店員に注文し、メーニュを貰っている。
「食事は面倒だからコースを予約してある。パスタの種類とメインはどうする?」
周防は手渡されたメニューを広げ、コースメニューと書かれ場所を指さす。菜々子はピリ辛トマトのパスタにメインを魚にし、周防はクリーム系のパスタに仔羊の肉を選んだ。すぐに飲み物が運ばれてきて、互いに労いの言葉を交わし乾杯をする。
「周防さん、仕事は忙しいの?」
「覚えることが多いし、慣れてないから営業も大変でさ。先輩は最初の半月ほど一緒に回ってくれてたけど、今が完全に一人だし。既存先、新規開拓とかまあ、大変だな。菜々子は?」
「私は事務系だからそんなには。それに職場の人は優しいし」
周防が持っていたグラスを少し強めに置くので目がいった。俯き加減でどこか暗い表情をしている。
「そういえば例の彼とは上手くいってるのか?」
「ええ、おかげさまで。年末は彼のマリーナの近くにある別宅で過ごす約束をしたわ」
「結婚、するのか?」
「しないわ」
「え?」
周防は驚きの声を上げながら、顔はどこが喜んでいる。
自分にのめり込むこの男が、急に哀れに思えた。きっと今の自分の発言でまた、一筋の光を見出したに違いない。でも実際にはそれは目の錯覚で、もともと一切の光が入り込む余地がない暗闇に身を置いているのに気が付いてない。だがそれは菜々子も同じだった。
今は清香という血の繋がりがない家族を作ったが、子供のころに家族を亡くしてから、本当の自分はずっと暗闇の中で隠れてきた。菜々子の欲しいものを持っている周防が、少しでも同じ気分を味わえばいい。そして最後に自身の浅はかさを悔やみながら涙すればいい。
きっとそれでも菜々子には取るに足りないだろう。なぜなら人の尊厳、プライド、存在自体を菜々子は奪われているのだから。
「菜々子?」
「え? ああごめんなさい。私も数か月後にはちゃんとした社会人になるんだなあって思うと、今の時期が惜しい気がして」
周防は就業までの間についての過ごし方を、自分の経験に基づき熱心し説き始めた。たった数カ月のことを、人生の熟練者のように身振り手振り話していた。
ふと菜々子は周防と初めて会った時の事を思いだした。菜々子の欲しいものを持っている周防は、すぐに菜々子の憎悪の対象となった。そう考えると家族を失った時から常に黒くて吐き出すことができない塊と共に生きてきた。
家族を奪った赤松は地位と名誉を手に入れ、奪われた方は生きる屍のようにしてきた。自分が欲しいものを全て持っている周防、そして奪取した赤松。菜々子にとって両者とも許しえない存在だった。
同時に「どうして自分だけが」という思いがより一層に強くなり、考えることはいつもどうすれば赤松を思う以上に苦しめることが出来るのか。
傍にいる時間が増えるに従い、苦悶する赤松を浮かべては身体が喜び震える。周防も同じだった。本当の自分を知った時に打ちひしがれる顔と嫌忌してゆがむ表情。考えるだけで菜々子の心は躍る。人を好きなった事がない菜々子は、恨む気持ちと恋する気持ちは同じなのではないだろうかと考えた。
常に対象者の事を考え、頭の中も気持ちも一杯にしてしまう。ただそれが好きか嫌いかというだけの違いなのだろうと。
気が付けばテーブルの上には、食後のデザートが置かれていた。
ある日、久々にベッドで横になりながら目を閉じ、手に携帯を持ってぼんやりとしていた。画面には伯母の携帯番号が表示されたままだ。
育ててくれた恩を仇で返すようでなかなか発信ボタンを押せずにいた。でも伯母は、受け入れてくれる確信はあった。いつでも生き方を選択できるようにしていてくれたのだから。
急に体が重くなった。目を閉じていると、本当にあてのない暗闇に体が取り込まれそうな感覚になる。上半身にざらりとして湿気た今まで味わったことがない感覚が這っている。目を開けて自分の体を見ると服はめくり上げられ、清香が上に跨っていた。そしてその口からは別の生き物のように動く舌が、菜々子の凹凸のない胸に向かっているのが目に飛び込んできた。咄嗟に清香の髪を掴み上げた。
「何をしてるの」
その声は自分でも驚くほど低く、抑揚がない冷たいものだった。今までに聞いたことがない低い声に、清香の体が小さく震え始めたが裏切られた気持ちが勝り、いつものようにすることができない。
口元を震わせるその姿は、浅居の家で初めて会った時のことを彷彿させ、それまでに清香が出会ってきた人間と同一視されているようにも見えた。
「ごめんね」
菜々子は掴んだ髪を離し抱き寄せた。
「どうししてこんなことを?」
「――菜々子さん、最近元気が無い様に感じていて。私にできるのはやっぱり……」
「――そう。でも私には必要がないわ。普段と変わりなくしてくれていた方が嬉しい」
「ごめんなさい。もうしません」
数分前まで暗闇に沈んでいくように感じていた体の重みは、今はやけに心地よかった。
家の中では今までのように気持ちを落ち着けられればいい。菜々子は清香を胸に乗せたまま、携帯の発信ボタンを押した。
無事に卒業式を迎え、正式に社員になった菜々子の仕事は、徐々に引き継いでいた労務管理と社員の入退者手続きなどだった。
店のアルバイトなどを合わせると七百人ほどにのぼる。飲食業界は出入りが激しいために管理も大変だったが、今までの菜々子の仕事ぶりには赤松を始め上司からの信頼も出来上がっていた。それは色々と都合がよかった。
年末に清香を連れて赤松の別荘にも行ったが、結局手を出されることもなく、自由に使ってもいいとスペアキーを受け取った。赤松の勧めもあり、船舶免許を取るために時間が空いた時には清香と二人で訪れていた。
赤松もガードが少し緩くはなってきていた。相変わらず二階の部屋を見せてくれることは無く、やはりキスはおろか菜々子を抱こうとはしなかった。不思議に思い聞いてみると、行為自体あまり好きではないという。不満か? と聞かれたが、菜々子も同じだと答えると、赤松はホッとした顔をしていた。
同時に菜々子も赤松とセックスをせずに済むことに胸を撫でおろした。でも何か小さな棘のようなものが引っ掛かっていたが、時間が経つとそれも感じなくなっていた。
仕事が終わり、席で暇を持て余していた菜々子の携帯が鳴った。
「今から会社を出るから」
「わかりました」
菜々子は上司に挨拶をして、ビルの地下駐車場へと降りた。
「仕事、ご苦労様」
「菜々子も」
赤松が開けてくれている助手席に乗り込み、菜々子が気に入ったあの天ぷらの店に向かう。
座敷に通されソフトドリンクを片手に赤松が、
「仕事にはもうだいぶ慣れたみたいだね?」と今更質問を聞いてきた。
「ええ。思った以上に人の出入りが多くて、手続きは多いけど年末も何とか処理できたから、自信にも繋がったわ」
「それはよかった。ところで海の家は使ってくれてる?」
「もちろん。今船舶免許を二人で勉強中」
「いいねそれ! 車を海の上で運転するようなものだと思えばいいよ」
「そうね」
「免許が取れたら、ぜひ乗せてほしいな。俺のクルーザーを貸すから」
菜々子は笑顔で返事をして、酒を一口飲んだ。
目の前の赤松はどこか落ち着きがなく、箸を動かしては動きを止めて何か言いたげな雰囲気だった。だがあえて菜々子は話を振らず、相手の出方を待つことにした。
静まり返った室内に響く食事の音。どこからか聞こえてくる空調音がやけに響いている気がした。十分ほど経ち、やっと赤松が口を開いた。
「あのさ菜々子」
「はい」
「――」
車で来ている赤松は、紛らわすように飲み物を喉に流し込む。しかしアルコールが入っていないソフトドリンクに力はない。短い沈黙。
「今住んでいるマンションを売って、新しいのを買おうと考えているんだ」
「そうなんですか?」
「ちょうどいい物件があってね。今度は一軒家なんだけど」
「そうなんですか。すごいですね」
「そうでもないよ。今住んでいるマンションよりは安いし、売った資金があまるほどだし」
「場所はどこなんですか?」
「渋谷区なんだ。それでなんだけど」
赤松は姿勢を正し始めた。
「一緒に住まないか?」
菜々子は戸惑いながら「少し考えさせてください」と返事をしたが、すでに答えは決まっていた。
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