第32話
夜、赤松に指定された場所に行くと、まだ姿はなかった。仕方なく菜々子はメールを打つことにした。すぐに赤松から電話が入り少し遅れると言われた。
「この場所から玄一さんの家って遠いですか?」
「え? いやすぐ近くなんだ。右手にアンジュってケーキ屋があると思うんだけど、その前の道を真っ直ぐ進むと俺のマンションがある」
「じゃあそっち方向に向いて歩いていますね」
「わかった。もうマンションに着くから、車を置いたらすぐに向かうよ」
「はい」
歩いていくと一つ一つの住宅の敷地は広く、車庫には高級車と言われる車が多く置かれていた。
五分ほど歩いていると、低層マンションが見えてきた。前方から近づいてくる影が赤松だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「ごめんね菜々子」
「いえ。マンションってそこですか?」
「そうだよ。 どうかした?」
「いえ。すごい高層マンションか豪邸に住んでるものだと思っていたから」
「まあ住めるんだけどね。独り身だし。でもあまり高いところが好きではないんだ」
赤松は菜々子の手を掴み、いつもより強い力で引っ張り歩き始めた。
赤松の部屋に入った菜々子は驚いた。独り身だからと言っていた言葉とは反対に部屋がただただ広い。玄関でさえ無駄に広かった。
「凄いですね」
自然と言葉こぼれる。
「リビングは四十畳ほどしかないよ。あとは二階にベッドルームと書斎があるだけだから、部屋数は少ないし。さあ座って」
白を基調とした部屋の壁には、大画面のテレビがかけられ、汚れひとつないテーブルに革張りのソファ。座ると、皮のこすれる独特な音が響く。赤松はキッチンで酒の用意をして菜々子をもてなしてくれた。前もって準備をしていたのか、軽いつまみも並ぶ。
「この生ハムは三大ハムの一つでイタリア中部の限られた地域でしか作られていないものなんだ」
ガラス皿に盛られた生ハムについて説明する赤松に聞くふりをしながら、世の中の理不尽、不条理さを感じられるにはいられなかった。人を殺しても堂々と生を謳歌し、社会的地位をも得ている。失った者に対して多く得ている赤松に対し、菜々子の感情が一気に溢れだしそうになり、自然と手にも力が入る。
「それで今度これを本格的い仕入れて、店に出すつもりでいるんだ。少し単価を上げなくちゃいけないけど、看板メニューになると確信している」
「そうなんですね」
「食べてみて」
箸を手に野菜が包まれた生ハムを口に運んだ。
「すみません。お手洗い借りてもいいですか?」
「玄関直ぐの左手がそうだよ」
「すみません」
菜々子は手を口に当てながらキッチンの横を通り過ぎトイレに入った。野菜だけを飲み込み、残った生ハムをトイレに吐き捨てた。口の中はまだ塩分が程よく残っている。不味いわけでもない。ただ体が受け付けない。しかしここで食べずに帰るわけにもいかない。自分の覚悟の足りなさを知り、精神を集中し赤松の元へ戻った。戻る途中にキッチンにあった数個の白い塊とワイン、サラダが目に入った。
「玄一さん、このチーズは?」
「それはクリームチーズ。取引先がくれたんだ」
「食べてみていいですか?」
「もちろん。そのつもりだったから」
二人はキッチンに入り、冷蔵庫からクラッカーのトッピング用の色とりどりの具材をテーブルに置いた。赤松がチーズをクラッカーに乗せ、菜々子に手渡される。
「どう?」
「すごくあっさりした味で、爽やかでほんのり桃の味がします」
「デザート感覚のチーズで、女性受けすると思うんだ」
赤松は他のチーズを生ハムで巻いて口に運ぶ。
菜々子はふと藤堂の事を思い出した。
「玄一さん。そういえば藤堂さんとその後、どうなんですか?」
急な質問、それも囲っていた女の名前がでて驚いたのか、むせながらワインを流し込んでいる。
「ど、どこで」
「本人からです。私、恨まれちゃいました」
「本人だって?」
「ええ」
菜々子はワインを飲みながら、引き継ぎの時の小さな嫌がらせ、ロッカーであったことをありのままに話した。
「迷惑をかけたね。手切れ金を渡したのに。まったく醜い女だよ。切り捨てて正解だった」
「私もそうやっていずれ、切り捨てるんですか?」
「いや菜々子は別格だよ。先のこともちゃんと考えている」
「別格?」
菜々子はあえて先のことを省いた。
「そう。俺の人生には不釣り合いだからね。たとえばこの部屋に巷にあふれている、ワンコインで買えるプラスチックのカップがあるとする。どうみてもこの部屋にはおかしい。似合うのは今ここにあるバカラのワイングラス」
「それはプラスチックのカップが藤堂さんで、ワイングラスが私?」
赤松はグラスを持って、菜々子のグラスに軽く当てると、澄み切った音が響いた。
「玄一さんったら。プラスチックさんに恨まれますよ」
「大丈夫だよ。あんなの大したことがないから」
「そうやって今まで、たくさんの恨みを買ってきたんじゃなんですか?」
「さあどうだろう。でも菜々子からは買いたくはないね」
「それは残念です。私はもう玄一さんの事を心の底から恨んでますから」
「え?」
赤松の目が見開かれたが一瞬で、すぐに皺を寄せて優しく笑い始めた。反対に菜々子は表情を変えずただ、赤松に視線を集中させた。その雰囲気は冷たい空気が二人を包んでいるようだった。そんな菜々子に赤松の笑いもなくなり、自分が何かしたのかと思い始めたようで、顔がこわばり始めた。
「なーんて。嘘ですよ。玄一さん、驚きすぎ」
「だ、だよね? 一瞬すごく怖かったから考えちゃったよ。そうだ。年末くらいに海に行かないか?」
「年末? 冬に海?」
「そう。それまで時間が取れそうにないってのもあるけど、冬の海もいいよ。どう? マリーナの近くの家で年を越すのもいいと思うし」
「家?」
「伊豆のマリーナ近くに税金対策に買ったんだ。といっても年に数回しかいけないんだけどね。海も見えるし、どうかな?」
「でも……」
「でも?」
「そうなると妹が一人になっちゃうんです」
「一緒にくればいいじゃないか」
「いいんですか?」
「もちろん。菜々子の家族は俺の家族同然だから」
菜々子は喜びを表すように、赤松の首に手を回しながら「ありがとう」と囁いた。それで気分がよくなったのか、赤松のグラスの中は直ぐに空になる。本当に馬鹿な人間だと思った。でもそれでよかった。高みにいる人間が、何もわからないうちに落ちる方が何倍もいいはずだ。酒には強い赤松だが、アルコールは容赦なく体に浸透しているようだ。
「玄一さん。他の部屋を見てもいいですか?」
「もちろん」
座りながら揺れている赤松を置いて、中二階に上がった。正面と階段横に二つの部屋があった。階段横の部屋の隣にはトイレと小さなキッチン、正面の部屋の隣にはユニットバスがある。まず正面の部屋を覗いたが、一人にしては大き過ぎるベッドがあるだけだった。もう一つの部屋を覗こうとしたが、カギがかかっていて入ることができない。
「奥の部屋、鍵が掛かってましたよ?」
「鍵? ああ、あの部屋は仕事部屋兼趣味の部屋で鍵をかけてるんだよ」
「趣味? って本ですか?」
「うん、まあ……そんなところ。本でも価値のあるものがあるからね」
「見てみたいなあ」
菜々子は赤松に体を寄せた。
「また今度ね」
とはぐらかされた。その後も赤松の酒は進むが酔いつぶれることはなく、タクシーで菜々子は家に帰った。
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