第31話

 赤松の会社へと通い始めて一カ月が経っていた。面接は形式上だけで社長の息がかかっている菜々子を真剣には見てはいなかった。


 多くの企業が入るビルのロビーはまだ涼しい。外はまだ夏でもないのに、二十度前後の気温で汗ばむ。オフィスでは人の熱気と点けられた電子機器の熱で空気がくすんで、頭が痛くなりそうだった。


 派遣社員の藤堂(とうどう)栄子(えいこ)からアルバイトである菜々子への引き継ぎは、少し難航していた。藤堂は部署を変わりながら赤松が経営するRe.パインコーポレーションに、六年近く在籍していた。仕事が楽な上に時給がよかったが、菜々子の採用により急に首を切られることになった。年齢は二十九歳、セミロングの髪は太くて黒く、目元に泣き黒子があって菜々子の足元には及ばないが、美人の部類には入る。二十九歳という年齢で仕事を無くす焦りもあるのだろうが、菜々子の知ったことではない。


 藤堂の嫌がらせは些細なものではあったが、業務が所々滞るのでやはりストレスは溜まる。それでも話かければ愛想よく対応し、嫌がらせなど気にしていないように振る舞っていた。

 赤松の会社に制服はなく、首から社員カードをかけて入口からオフィスビルに入ることができる。更衣室はあるがそこで着替えることはなく、ロッカー兼化粧直しや女子の談話室となっていた。


 この日は藤堂の最終日で、自社の店で歓送迎会が予定されていた。一通り仕事が終わった菜々子は更衣室へ鞄を取りに行った。


「荊木さん」


 藤堂が簡易の長椅子に座り、化粧直しをしながら声をかけてきた。


「お疲れ様でした。食事会は十九時からからでしたね」


 菜々子は面倒を避けるようにロッカーから鞄を取りだすと、「それじゃ、お先に」と早々と更衣室から出ようとした。しかし強く手首を握られたかと思うと、勢いよく壁に叩きつけられた。薄い樹脂材で出来た壁にあたり、鈍い籠った音が部屋に響く。

 額に鈍い痛みが走ったが、激痛というほどではない。コンクリート材でなかったことに少し感謝した。


「社長に色目使いやがって! あんたのせいで、マンションの家賃も払ってもらえなくなっただろうが! クソッ! クソッ!」


 髪をワシ掴みされ、何度も壁に叩きつけられた。コンクリートではないと言え、さすがに何度もされると痛みは強くなってくる。髪を掴んでいる藤堂の手を掴んで動きを止め、そのまま軽く鳩尾に肘を食らわしてやった。相手は崩れ落ち、必死に息を吸おうとウエウエと汚らしい声を上げている。


 菜々子は藤堂の前にしゃがみ込み、同じように髪を掴むと、顔を無理やりに上げさせた。涙でアイラインが崩れ、頬に黒い筋がつたい落ちた化粧から見え隠れする肌は、萎れた花のように張りがなく、くすんでいる。


「小汚い女」


 菜々子はそう吐き捨てそのまま藤堂の顔を床に押し付けた。


「穏便にしようと思って我慢してたんですよ? それなのに。だいたい藤堂さんとでは私は犬の糞と月ほどの違いがあるの。男が古いものから新しいものへと乗り換えるのは当たり前なの。その心配もせず、努力もせずにぬるま湯に浸かり切っていたのは藤堂さんでしょ? 八つ当たりは止めてくださいね」


 菜々子は店で培った平常心と笑顔で、藤堂の顔を力いっぱいに何度も床に押し付けた。


「ね?」と髪をひっぱり上げてみると、歯を食いしばりながらボロボロと涙をながしている。床に埋め込むように押し付け立ち上がると、菜々子はそのまま足で頭を踏みつけた。藤堂が気にもせずに菜々子に手を挙げたのだから、更衣室には誰もいないのは予想できる。たとえ誰かがいたとしても怖いものはなかった。


「それじゃお先に。藤堂さん。あと相手は選んだほうがいいですよ」


 ドアノブに手を掛けた時だった。


「あんたがどんなに美人でも、あの男と結婚はできないわよ! 私と同じ、あんたも飼われてポイよ」

 菜々子はそのまま無言で立ち去った。結局、藤堂が店に現れることはなかった。でも会に影響はなかった。むしろ菜々子のための歓迎会で、藤堂はオマケのようなものだった。


 玄一は途中からサプライズで登場し、それまでの砕けた雰囲気がなくなった。そして菜々子は自然と玄一の横へと座らされていた。代表として今後の話をした後は、赤松より年上の役付達が社長に尻尾をふりながら媚びへつらう姿は、見ていて痛々しいものを感じた。


「荊木さんは卒業後、うちの正規社員として籍を置くことになるから、指導を頼みますよ」


 菜々子は言葉をなぞるように「お願いします」と頭を下げる。責任者は酒も入って、顔を赤くさせながら「任せて下さい。社長」という。


 食事が並ぶテーブルの下で、温かく大きな玄一の手が菜々子の手を握った。数秒知らぬ顔をしたあと視線を玄一に向けるが、自分を通り越して他の社員と話し込んでいる。誰かに見られたらと思う反面、玄一の公認としてここにいることを思い出し、指をしっかりと絡めとった。


「ちょっと失礼します」


 バックをもって席を立ち、トイレを済ませてから店の入り口で携帯を取りだした。めずらしく清香からメールがあり、内容は風呂を上がったという報告だけだったのだが、無性に声が聞きたくなった。今まで夜、店に出勤していてもどこか遠い故郷を感じるような恋しい気分になったことがなかった。だが今日は違った。


「菜々子さん?」

「お風呂、入ったのね。ちゃんと髪を乾かした?」

「はい。菜々子さんはまだ飲み会ですか?」

「そうね。でもそんなに長くはないと思うわ。みんな明日も仕事だし」

「じゃあ待ってますね」

「いいわよ。寝ていて。今日は何か変わったことは無かった?」

「いえ特には」

「そう」

「どうかしたんですか?」

「え?」

「菜々子さん、何だかいつもと違うような……」

「違う?」

「声が……」

「そんなことないわよ。じゃあそろそろ切るわね」

「はい。気を付けて帰ってきてくださいね」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


 電話を切った途端に虚しさのような言い表し難い、なんといえない感情がこみ上げてきた。胸の前で手を握りしめながら息を吐く。


「菜々子?」


 吐いた息と一緒に正体不明の感情は外に吐き出され、声のする方へ振り返った。


「玄一さん。どうかしました?」

「戻りが遅いから心配になって」

「すみません。家族から連絡があったんで」

「家族? 何かあった?」

「いえ。帰宅時間の確認です」


 菜々子は今日一番の笑顔で返事をした。

 大学、卒業準備、赤松の会社でのバイト、夜のバイトと初めは体が辛かったが、若いのも手伝ってか夏になる頃には体も慣れ、さほど苦にはならなくなっていた。事務のバイトはコピー、勤務管理、簡単な入力、入退者に関する手続きが主で、ペースを掴めば大学に行きながらも問題なく仕事をすることが出来ていた。


 管理部門長である金井、菜々子の直属の上司の多田からの受けもよかった。少しスキンシップが多いことが少し不満ではあったが、許容範囲内だった。何より赤松から呼び出しがかかることも少なくはなく、その時は大概が菜々子を連れ立っての取引先との会食や店への視察が多かった。菜々子にとってはかなりの勉強になっていた。


 桜が咲くころには盛大に内定式も行われた。同期になる面々と顔を合わせたが、菜々子の雰囲気がそうそうさせていたのか違う理由なのか、話しかけてくる者はいなかった。ただ遠巻きに自分を見ながら何かを言っている、という事だけはわかった。


「荊木さん」

「赤松社長」


 都内のホテルでの内定式後、ホールを貸切っての立食パーティーが行われていた。


「リクルートスーツを着ても、目立っているね」

「そうでしょうか?」

「同期と仲良くできそう? 緊張しているようだけど」

「緊張は……そうですね」


 菜々子はグラスを片手に会場を一瞥した。


「赤松社長。他の新入社員にも声を掛けてくださいね。それでなくても私、少し浮いているので」


 赤松も会場を見まわし察したようだった。


「そうだね。じゃあ夜に」

「はい」


 今日は内定式という事もあり、赤松は夜まで時間を取っていた。それは久々にゆっくりと菜々子と過ごす為でもあった。何より今日招待されている場所は、赤松の家だった。魔物の住処に足を踏み入れるのに緊張しない訳がなかった。準備のために一度家に戻った菜々子は、なるべく肌の露出が少ない服に着替えることにした。


「菜々子さん、今日は赤松さんと会うんですよね?」

「そうよ。どうかした? 清香ちゃん」

「大丈夫ですか?」


 心配する眼差しには、不安が見える。清香が不安になることはないのにと考えると、気持ちが幾分か軽くなった気がした。


「清香ちゃんが心配することじゃないわ。それに――」

「菜々子さん?」


 赤松と距離を縮めるのには成功しているはずなのに、相手は菜々子に手を出してこない。せいぜい手を握って歩く程度で、キスをしてくる素振りもない。それでも家に招待されたという事を考えても、霧がかり視界不良なスッキリしない感じがずっとあった。


「菜々子さん?」

「あ? うん。大丈夫よ。それよりこの服、大丈夫かな?」


 立ったまま体を少しひねると、フレアのスカートがふわりと浮く。清香は急に返事もなく抱きついてきた。

 最近、清香は妙に甘えてくるようになった。小柄な清香に甘えられるのは嬉しい。


「どうかした?」


 清香は顔を、一層強く胸に押し付けてくる。

 清香の気が済むまで、子供を落ち着かせるように何度の優しく頭を撫でた。昔、妹にしていたように。

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