第15話

 待ち合わせ場所に着いた時、ものの五分も掛かっていない様な感覚になるのは、終着点が明確だからだろうか。車が止まると同時に運転手も降りてきた。


「今日はありがとうございました」

「今日の事は秘密だよ?」

「ええ分っています」

「それよりクリスマスだが、何か欲しいものはないか? 何でもくれてやるぞ?」


 浅居は菜々子の手をしつこく撫でながら聞いてきた。菜々子は少し考え答えた。


「あの天井から吊られていた女性が欲しいです」


 ピタリと浅居の動きが止まり、車内灯で垂れた瞼で影になっていた目元が、見た事が無い程に大きく見開かれていた。菜々子は安いお菓子をねだる子供のようにあどけなく笑みを浮かべていた。


 間を置いて、弾けたような大きな声を出して浅居は笑い始めた。若い子が、ちょっとした事で箸を転がしても笑うような意味が無い笑い方だが、菜々子の突拍子もない答えに喜んでいる事には間違いがないようだった。


「あの豚を引き取ってどうするんだい? 飼うつもりかい?」

「そうですね。私、家族が欲しいと思っていたところだったので」

「本気かい?」

「私はいつでも本気ですよ?」


 浅居の声はいつになく真剣で、菜々子の心の奥底まで無理矢理にでも入り込もうとする、凄味があった。


「わかった。また連絡しよう」


 浅居は同類に向けるような、暗黙の了解を得た笑みを浮かべていた。

 周辺の木には、相変わらず青の電飾が冷たく光っていた。



 家に着いた菜々子は、リビングで立ちすくんでいた。やがてテーブルの上にあったリモコンを掴むと、力の限りテレビに投げ付けた。


 少し液晶画面が凹み、今度はテーブルを持ち上げ大声を出しながら投げ付けた。堰を切ったように、手当たり次第に物を投げ付け始める。


 投げる物が無くなるとキッチンからフライパンに鍋、とにかく投げられそうな物を声を荒げながら、手当たり次第投げつけた。


 胃から生暖かいものが逆流してくるのを感じ、急いでトイレに駆け込み吐き出した。出る物が無くなっても胃が外に出そうと動くため、トイレに籠りきりになる。


 ハアハアと犬のような息遣いをしながら、肺に空気を一生懸命送り込んだ。暫くして全てを出しきったのか、ようやく落ち付いてきた。


 あの場から直ぐにでも逃げ出したかった。性癖だとしても金持ちの道楽の何ものでもない。人の苦しむ姿に喜びを見出しているとは別に、同じ人間を飼うという優越感があの空間を作り出した。


 浅居は女を「豚」と言っていた。彼らには家畜と同じであり、命の重さは食用にされるそれらと変わりが無いのだろう。


 だがそれよりも周りに合わせて自分もそれなりに振舞っていた事が、菜々子には拷問だった。浅居にお願いしたあの女。菜々子より若く見えた。目が、そう目が妹に似ていたのだ。


 その時の光景がよみがえり、治まっていた胃がまた動き始めた。口の中は酸っぱい味しかしない。


 吐き出したあと、急に菜々子は笑いだした。何がおかしいのか自分でもわからない。ただ精神が均等を保とうとして、誤作動をしているようだった。


 菜々子は大笑いし、大粒の涙を流しながら、あの時声を掛けてきた仮面の男、耳にピアスが付いている様な特徴的なホクロを思い浮かべていた。



 翌朝トイレで目を覚ました菜々子は、部屋の惨状を見て便利屋を呼んで片づけさせた。便利屋は閉口していたが、黙々と作業をこなしてくれた。

 久々に泣いたせいか瞼が腫れあがっていた。顔を洗い身支度を整えると、サングラスをかけて街に出た。


 昨夜は感情のままに荒れ、テレビなどを壊したので気持ちは幾分か晴れていた。しかしテレビが無いのはやはり不自由なので、電気屋へ行く事にした。


 年末セールで特価になっていた六十インチのテレビを買い、今日の夕方には配送してもらう手筈を取る事が出来た。店内には五月蝿い程にクリスマスソングが流れ、泣きはらしたまだ重たい頭には辛かった。


 店を出ると急にお腹が空いてきた。何でもいいのでお腹に入れようと周りを見渡すと、ちょうど帰る方向とは反対の通りに牛丼店を見つけた。


 菜々子は躊躇いなく店に入ると、牛丼中盛りを頼んだ。直ぐに目の前に丼が出され、入っていた牛肉を端に寄せ食べ始めたがサングラスをかけたままで視界が曇ってしまい、結局は外そうか迷いながら食べ終えてしまった。


 店員はそんな菜々子をチラッと見ただけで、興味はなさそうだった。


 お腹が満たされると、何故か気分まで良くなる。一息ついて店を出ようとした時、入って来る客とぶつかり「すみません」と一声かけて後にした。


 サングラスをずらしてビルの隙間から見る空は澄み渡って透明感があり、雲が光を浴びて銀色に輝いている。周りが忙しなく歩いているので、菜々子も自然と足が早くなった。


「すみません!」


 後ろの方で誰かが叫んでいる。でも周りの誰もが自分とは関係ないと思っていた。


 菜々子もそうだ。だがあまりにもしつこく「すみません」という声に、行きかう人達が振り向き始めた。


 徐々に声が近づいて来ている気がした菜々子も、声のする方へと振り向いた。十メート先から体の大きい男が、手を上げながら菜々子の方へと向かって来る。


 誰に向かって手を上げているのか分らないが、好奇心は満たされて前を向いた。


「愛果さん!」


 肩を掴まれ、勢いで後ろに倒れそうになった。


「すみません。愛果さん……ですよね」


 声の持ち主は白い息を吐いてる周防だった。少し裾が長めのブラウンのダウンジャケットにはファーの付いたフード。近くで見ると熊に見えた。


「すみません。熊の知り合いはいません」

「え?」


 周防は呼吸をするのも忘れたのか、目を丸くしている。その様子がおかしくて、思わず噴き出してしまった。


「やっぱり愛果さんだった。さっき牛丼店でぶつかって、もしかしてと思って暫く悩んだんだ。愛果さんがまさか牛丼なんてと思ったからさ」

「私は別に、お腹に入ればなんでもいいから。場所は選ばないわ」

「そうか」


「じゃあ」と菜々子は立ち去ろうとした。


「ちょっと待って!」


 とっさに掴まれた腕は、逃がすまいと牙が食い込んだようだった。


「痛い」

「あ、すまない。よかったらお茶でも」

「どうして私が周防さんと?」

「名前、覚えてたんだ」


 目元に皺を寄せ嬉しそうに笑う周防に対し、菜々子は不愉快になった。


「仕事柄です」

「まあいい。天田楓。咲さんの所へ行ったんだろ? 話しが聞きたいんだ」


 この口実に乗るか、少し考えた。


「じゃあ温かい物が飲みたいです」

「分った。行こう」


 菜々子の手を勝手に握り歩き出した。


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