第5話

 特定の人物を動かすには、その人物のことをある程度知っておく必要がある。

 そんな当たり前のことに気づけなかったのは、これまでの人生で他人を意のままに動かそうと試みたことが、一度もなかったからだ。自分が何かを主張すれば、大抵の場合それは通った。中には私のことを妬んでくる存在もいたけれど、羽虫程度の影響しか及ぼさなかったので、いないも同然に思えた。

 上野美沙ね、と呟き、メモ帳に視線を落とす。彼女は春浪女学園の一年三組に所属している。恋愛に苦手意識を持ち、はやてマンという絵師の姉がいる。本人曰く、友達は多いらしい。


「知らないことが多いわね……」


 出会って二週間と数日だ。知らなくて当たり前か、と思い直す。

 空き教室の前で立ち止まる。扉を開くと、下級生が二人いた。ポニーテールの少女が椅子に腰掛けた状態でこちらを向き、「うぇっ」と素っ頓狂な声を漏らした。もう一方の眼鏡を掛けた少女は、怯えた小動物のように体を震わせ、潤んだ瞳をこちらに向ける。


「今大丈夫かしら?」

「えっと……そうですね。要件はなんでしょう?」


 眼鏡の少女が恐る恐るといった感じで訊いてくる。


「あなた達と少し話がしたいの」

「え、これマジ? 夢みたいだ……。いやひょっとして夢か?」


 ポニーテールの少女が自分の頬をつねる。それから、痛い、と呟いた。

 私は苦笑を抑えながら入室した。二人の前に腰掛ける。

 一年三組に所属している生徒で、口の堅い子を知らないかとクラスメイトに訊いたところ、部活の後輩に良いのがいると教えてくれた。彼女達は昼休みになると部室で食事を取っているという。好都合だった。


「あたし、渋谷先輩の大ファンっす! 好きっす!」


 ポニーテールの子が身を乗り出して言う。握手を求めてきたので愛想笑いを浮かべながら応じた。


「うわー、感動だー。決めた。もうあたし一生手洗わないわ」

「ばっちいよ、みーちゃん」

「ばっちいわけないだろ! 渋谷先輩の手だぞ!」

「そうじゃなくてさ……」


 勝手に盛り上がり始めたので、咳ばらいをして注目を集める。話を切り出した。


「上野美沙さんは知っているでしょ。二人共、仲はいいの?」


 二人は顔を見合わせた。そうですね、と同時に頷く。


「ムードメイカーと言えばいいのか……」


 ポニーテールの子が口を開く。


「いつも女子の中心にいます。友達のいなさそうな子とか、浮いている子とか、ばりばり体育会系の子とか、グループの垣根を越えて皆と仲良くするタイプっすね。最初から明るい子でした」

「わたし、美沙ちゃん好きです」


 眼鏡の子が控えめに言った。


「ずけずけしているようで気配りがちゃんとできていて。わたしもああなれたらいいのに、って憧れちゃう」

「それな! あたしなんか、ぐいぐい行って嫌われること多いから美沙は凄いと思うわ! マジ尊敬!」

「みーちゃんはデリカシーゼロだからね。この間も人のおかず勝手に食べるし」

「そんなことあったっけ?」

「わたしのハンバーグだよ! 返せ!」

「そ、そんなに怒らなくても……」


 二人のやり取りを眺めながら、私は美沙の顔を脳裏に浮かべた。

 クラスでは上手く立ち回れているらしい。友達が多いという本人の言葉に嘘はないようだった。

 そのほかにも色々と話してくれた。

 中学生のころまでは東北の田舎に住んでいて、今年からこちらに引っ越してきたらしい。昔の彼女を知る人はいないようだった。好きな食べ物はジャンクフード、嫌いな食べ物は梅干しらしい。

 割とどうでもいい情報だ……。

 弱みを訊き出すのは難しそうだった。とはいえ、突破口はある。


「秋葉もみじさんと仲が悪いっていう話を聞いたんだけど」


 そう水を向けると、彼女達は再び顔を見合わせた。それから気まずそうな色を浮かべる。


「ま、そうっすね。いわゆる犬猿の仲で、たまに口論してますよ」


 ポニーテールの子が言う。


「どっちも変に弁が立つから緊張感が凄いんですよね。仲裁に入ろうにも、殴り合いや誹謗中傷をし合っているわけでもないんで、見守るしかないっていう。あれには困ったもんっすよ」

「どちらが先に仕掛けるの?」

「基本的に美沙の方ですね。もみじが独特の持論を友達の前で披露して、それを見た美沙が噛みつきに行くって感じっす」


 価値観の不一致か。よくある対立構造だった。

 今まで黙っていた眼鏡の子が、伏し目がちに口を開いた。


「美沙さんのことが気になっているんですか?」


 ここまで訊いておいて、興味ないと解答するのは白々しすぎる。私は肩を竦めて答えた。


「最近仲良くしているから、どういう子なのか見極めたくてね」

「やっぱり!」


 眼鏡の子が頬を上気させて興奮した声を出す。目がきらきらと輝いていた。

 一方、ポニーテールの子はなぜか肩を落としている。呻くように言った。


「……噂は本当だったんすね。お似合いだと思いますけど……。羨ましいな、ちくしょう」

「わたしは応援してます! 頑張ってください!」

「あなた達、絶対誤解してるでしょ……」


 美沙とは単なる先輩後輩の関係であるということを説明した。しかし完璧に理解してくれたかは怪しいところだ。最後に、「このことは美沙には内緒でお願い」と口止めして部室を後にした。

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