第22話

 授業を受けていると、前の席の小林さんがペンを落とした。こちらに転がってきたので拾い上げ、はいと渡す。ありがとう、と小声で感謝された。

 そういえば、中原と出会ったのもペンがきっかけだったか。


 中学二年の春、わたしはイジメられていた。内気な性格をしていて家が貧乏だったため、ターゲットにされてしまったのだ。理不尽以外の何物でもないが、イジメとはそういうもので、その頃のわたしに理不尽を跳ね除けるほどの力はなかった。

 休み時間に自習をしていたら、突然、椅子の足を蹴られた。驚いてペンを落としてしまい、コロコロと転がっていくのを硬い表情で見つめる。いつものことだ。動揺すべきではない。そう思いながらも、口の中に苦みが広がっていくのを感じた。

 クラスの男子達が、けらけらと笑っている。こんなことをして何が楽しいのか、と憮然とした気持ちになる。しかしそれ以上に、恥ずかしい思いに駆られ、頬が熱くなった。

 立ち上がろうと腰を浮かしたところで、すっと腕が伸びてきた。ペンを拾われる。


「はいこれ」


 笑顔で渡してきたのは、隣のクラスの中原だった。

 ぼっちのわたしでも知っている有名な生徒だ。家が金持ちで陸上部のエースをしているという。わたしとは住む世界が違う存在だった。もはや羨んだり、妬んだりする対象ですらない。


「上野さん、勉強してたんだ。熱心だね」

「う、うん……」


 まともに顔を見られなかった。視線を逸らして、もごもごと口を動かす。早く消えてくれないかなと思った。

 中原は腰を落として目線を合わせてきた。じーっと見つめられ、また頬が熱くなる。


「この間、図書室で本を読んでたでしょ」


 意外な問いかけに戸惑った。


「エラリークイーンの『Yの悲劇』を読んでたよね。びっくりしちゃった。女子中学生が読むものじゃないよ」


 余計なお世話だと言いたくなる。金田一やコナンからミステリ沼に入り、その手の本を読むようになったのだ。

 そこでふと、おかしなことに気づく。


「と、図書室にいたの? そ、それに、『Yの悲劇』をミステリってなんで知ってるの?」


 端正な顔を崩して笑った。


「失礼だなぁ、私だって図書室くらい行くよ。こう見えて、いろいろと読んでるんだよ。SF、ミステリみたいなジャンルものばかりだけど。『Yの悲劇』は小学生の頃に読んだかな。クイーンだと、『シャム双生児』が一番好きだね」


 びっくりする。カースト上位の人間が、読書をしているなんて……。しかも、マニアックなジャンル小説を……。

 あまりのことに言葉を失っていると、中原は小声で言った。


「読書友達、いないんだよ。皆、漫画しか読まなくてさ。上野さん、私とそういう関係になってくれないかな?」

「え……えっと」

「お勧めいっぱい教えてよ!」


 満面の笑顔で言われ、つい頷いてしまう。陽キャパワー恐るべしだ。勢いに飲まれ、否定する余地を見出せなかった。

 以降、本の話をするようになった。中原は他人の目を気にしない性格らしく、堂々とわたしに声を掛け、「綾辻行人の新刊がさぁ」と話題を振ってきた。

 カースト最上位の中原と仲良くなったことで、わたしは一目置かれるようになった。水面下では、いろいろと言われていたようだが、知らないところで何を言われようと、痛くも痒くもなかった。


「付き合おうか」


 中原と会話するようになって一ヶ月。突然そんな提案をされた。


「付き合えば、たぶん連中は何も言わないよ」

 

 どうやら誹謗中傷を知り、いてもたってもいられず、そんな提案をしてきたらしい。深刻な顔をしていた。

 

「いいかもね、それ」


 素っ気無く答える。本当は飛び上がらんばかりに嬉しかった。彼女に対して恋愛感情を抱いていたからだ。

 わたし達は正式に恋人となった。イジメてきた連中も空気を読んでか、わたしから手を引いたようだ。誹謗中傷されなくなった。

 わたし達はデートを繰り返した。何度目かの時に「セクシーな写真を送ってよ」と言われ、SNS経由で渡した。後ほど「本当に送ってくるとはなぁ」と笑われた。中原の写真もちょうだいよ、と言うかどうか迷い、結局、言い出せなかった。

 あの時が人生で一番、絶頂の時だったのではないかと思う。


「ごめん、別れよう」


 中原がそう切り出してきたのは付き合って三週間が経過した頃だ。

 あまりにも突然で、現実味がなかった。理由を問いただしても中原は何も話してくれなかった。

 わたしはみっともなく縋りついた。しかし、中原の意思は固く、わたしは泣きながら中原との別れを受け入れた。

 失恋のショックから立ち直ろうと、無心で学校に通い詰め、勉強を頑張った。いじめっ子達からまた狙われるかもしれないと思ったが、彼らは新しいターゲットを見つけたようで、わたしに構ってくることはなかった。

 失恋の痛みが引いてきた頃、追い打ちをかけるようなことが起きた。

 中原が、わたしの下着姿の写真をグループチャットに晒したのだ。


 ペンを置き、溜息をつく。

 教室を見回すと、さくらと目が合った。ふにゃっとした笑顔を浮かべて手を振ってくる。わたしも笑顔を浮かべて手を振った。視線を外して頬杖をつき、窓の外を眺めると、用務員さんが校門前を掃き掃除していた。

 自分は、あの頃とは違う。

 他人と適切な距離感で仲良くなる術を覚えた。

 あの時の、弱い上野美沙は死んだんだ。


「もう、生き返ることはありません」


 姫子せんぱいに対して言った台詞が思い出される。

 授業が終わり、千代田とさくらに声を掛ける。さくらは授業についていけなかったらしく、千代田に泣きついて内容を教えてもらっていた。わたしは二人に、「飲み物買ってきてあげるよ」と言い、欲しいものを聞き出してから廊下に出た。

 人混みの隙間を縫うようにしながら歩き、中庭にある自販機の前で佇む。さて、と小銭を取り出そうとしたところで、


「珍しい」


 聞き慣れた声がして振り返った。 

 秋葉もみじが立っていた。

 目の怪我は治っていないらしく、まだ眼帯をつけている。


「何が珍しいわけ?」


 この距離では無視できないのでそう訊くと、もみじは小さく声を発した。

 

「一人でいるから」


 口を閉ざして、じーっと見つめられる。

 相変わらず恋愛関連のこと以外、必要最低限しか話さないやつだ。

 友達が待っている。今すぐ飲み物を買って退散すべきだろう。

 しかし、わたしは足を止め、もみじを見つめ返した。

 無表情のまま首を傾げている。

 わたしは勇気を振り絞り、口を開いた。


「幽霊、見ちゃったかも」

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