第17話
失礼します、と杏子が入ってきた。トレーを持っている。ピッチャー、コップ、袋詰めのクッキーが載っていた。
テーブルにトレーを置き、「ごゆっくり」と立ち去ろうとするので声を掛けた。
「そういえば、スマホカバーにちいかなのシール貼ってたよね。サカナ、好きなんだ」
杏子は目を見開き、ぐっと身を乗り出してきた。わずかに鼻の穴が膨らんでいる。
「知ってるんですか?」
「もちろん。ちいかな、人気だよね」
「わたし、サカナが好きなんです」
「可愛いよね~」
「はい、可愛いです。ヤバいです」
目をきらきらさせながら言う。よほど好きなのだろう。
「わたしはモーが出てくる回が一番好きかな。サカナが食べられそうになるんだよね。その時の表情がほんと最高で、庇護欲そそられたな~」
「わかります。わかりみしかないです。わたしが一番好きな回はメリーゴーランドの馬に轢かれるやつです。サカナに思わず感情移入しちゃいました」
「うんうん、あれは最高だったね~」
「はい! それからわたしが好きな回は――」
「杏子」
冷めた声が響いた。
姫子せんぱいが、しらっとした目を妹に向けている。
杏子は、ごほんと咳払いした。
「上野先輩、また語り合いましょうね」
笑顔を浮かべて言うと、頭を下げて出て行った。
沈黙が訪れる。
時計の針の、チクタクという音だけが響いていた。
「楽しそうだったわね」
しばらくして姫子せんぱいが口を開いた。冷めた目で凝視してくる。
「私とぷにゅるりの話をしている時より、楽しそうに見えたわ」
「え? そ、そんなことはないと思いますけど……」
「今後、私と一緒にいる時は、私以外の人間と話さないようにしてもらえる?」
真顔で言われ、わたしは「えぇ……」と呻いた。どんな独裁者だ。
「無理ですよそんなの。急に話し掛けられたら、その人を無視してしまうことになっちゃうじゃないですか。わたしの評判は地の底ですよ」
「約束を守ってくれない美沙は嫌いよ」
ぷいっと顔を背ける。
「いやいや、約束してないですし。いつ約束したことになった?」
「では、今からしましょう」
「しませんからね」
姫子せんぱいは、袋からクッキーを取り出すと、口に放り込み、もぐもぐと顎を動かした。わたしの方を向こうとしない。つーんとした様子で壁を見続けている。
子供か、と突っ込みたくなった。
しかし、妙に可愛らしくも感じられる。
「ちいかな読めばいいじゃないですか。面白いですよ。ウェブ漫画ですから全話無料ですし」
姫子せんぱいは咀嚼したクッキーを飲み込むと、こちらに顔を向けた。
「無理よ。ぷにゅるりを追うので精一杯だわ」
わたしは呆れの色を浮かべた。
「友達っていうのは趣味を共有し合うものなんですよ。友達が『○○面白い』って言ったら、一応チェックしなきゃいけないんです。それがマナー、常識です」
「そうなの? 初耳だわ」
「わたしが友達と話を合わせるため、どれだけ多くのドラマを倍速で見ているか知ってますか? 知らないでしょ。わたしと同じ苦しみを、せんぱいも味わうべきです。だから読んでください」
「それを聞いたら、余計読みたくなくなってきたんだけど……」
「いいから読め!」
「……ぷにゅるりに、あなたの言ったようなことは書かれてなかったわ……」
不思議そうな顔をしている。
ぷにゅるりに脳を支配されているのか、この人は……。
確かに、ぷにゅるりは「愛と友情」をテーマにした漫画ではあるが……。
姫子せんぱいは苦悶の表情を浮かべると、眉間に皺を寄せ、壁を見つめた。ちっ、と豪快に舌打ちしてから、わたしの方を向く。
「マリンちゃんが登場したら読むことにするわ」
「出ねーよ」
素で突っ込んでしまった。
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