第27話


 翌朝、欠伸を噛み殺しながら教室に入ると、いつもの面々が、おはようと挨拶してきた。それに応えながら自分の席に腰掛ける。

 昨夜は遅くまで杏子と話してしまった。寝不足は美容の敵だ。早めに切り上げて持ち越すべきだったかもしれない。そんな後悔が頭をもたげるが、過ぎ去ったことは仕方ないかと、自分を慰めた。

 鞄の中身を取り出そうと手を動かしたところで、自分の名前が聞こえ、耳を澄ませた。


「渋谷さん、例の後輩さんと付き合ってるって本当なのかな?」

「授業をサボって二人きりで会ってたんでしょ。それ以外考えられないよ」

「ただの後輩じゃなくて特別な後輩、とおっしゃってましたが……」

「うわ~。やば~。もろじゃん」

「まさか本当に女性と……」

「珍しくないですよ」

「どうせなら私と……。いえ、なんでもありませんわ」


 私は聞こえないふりをしながら鞄の中身を机に移した。

 以前までの私だったら多少なりとも不快感を示していたかもしれない。場合によっては注意していただろう。しかし、今はどういうわけか、そこまで気にならなかった。

 美沙との関係を誇示したいと思っているからかもしれない。見せつけたいのだ。

 自分の中にそんな子供じみた考えがあることが信じられなかった。

「完璧な私」と「ぷにゅるり」――それだけで世界は完結していた。そこに新しく、「美沙」という要素が加わった。それらのバランスを取るのは難しく、正直言って不安だった。しかしそれは、来たことのなかった素晴らしい場所に出かけた時のような、心地よさを内包した不安だ。

 仮にどれか一つだけ選べと言われたら、私はどれを選択するだろう? 何を切り捨てるだろう?

 意味のない考えが浮かび、私はゆっくりと首を振った。

 答えは決まっている。考えるまでもない。

 私は、ほしいものはすべて手に入れる質だ。


 ▼


 帰りのホームルームが終わり、美沙との待ち合わせ場所に足を運ぶ。

 後輩の姿はなかった。

 昼休みの終わり、メッセージが入った。放課後会いましょうというシンプルな文面で、逃げ帰ったことへの言及は一切なかった。

 壁に背中をつけてスマホを取り出す。はやてマンのSNSアカウントを開き、新着の絵が更新されていないかチェックした。まだ来ていないようで肩を落とす。

 どういう絵を要求するかまだ決めかねていた。

 構図、表情にはこだわりたいところだ。あと衣装や場所も大事か。

 駄目だ。考えれば考えるほど、どういう絵を描いてもらうべきか決められない。

 うーん、と頭を悩ませていると、横から「姫子せんぱい!」と声を掛けられた。私をそう呼ぶのは一人しかいない。


「お待たせしました!」


 肩で息をしながら近づいてくる。どうやら急いできたらしい。

 私はスマホを仕舞いながら言った。


「遅い。十分近くこんなところに立たせるとはいい度胸ね」

「ストレートですね! こういう時って普通、『私も今来たところ』ってすっとぼけません?」

「なぜ?」

「なぜって……。いえ、何でもないです。遅れたわたしが悪いですもんね」


 苦笑している。

 私は呼吸を整え、美沙を見つめた。

 ――昨日はベタベタしてごめんなさい。

 口にすべき言葉を頭の中で反芻する。杏子から謝罪した方がいいと助言を受けていた。よし、と握り拳を作る。

 人に謝るのは昔から苦手だった。なぜ私が、という自意識がせり出してくるからだ。しかし、美沙にだったら素直に謝罪できるのではないかと思う。たぶん。

 口を開こうとしたところで、美沙がバッと勢いよく頭を下げてきた。


「昨日はごめんなさい!」


 ……先を越された……。

 憮然とした思いで見つめていると、美沙は顔を上げ、真剣な表情で口を開いた。


「急に帰ってすみませんでした。しかも、既読スルーまでしちゃって……」

「驚いたわ。どうしたのよ」


 冷めた声を出してしまう。

 美沙は頬を掻きながら続けた。


「昨日いろいろとあったじゃないですか。ゲームしたり膝枕してもらったり」

「楽しい時間だったわ」

「ですね。でも、楽しすぎたというか……」


 視線を彷徨わせながら言う。


「正直姫子せんぱいに、ああいうことをされると困ってしまうというか……」

「困る? 何が? はっきり言いなさい」

「緊張するんですよ。せんぱいみたいな美人に引っ付かれると……」


 美沙は小声で「いや」と言った。そうじゃないだろ、と呟いている。

 真っ直ぐな瞳を向けてきた。


「せんぱいに引っ付かれるとわたしは性的に興奮しちゃうんですよ!」


 何人かの通行人が足を止め、こちらをまじまじと見つめてきた。

 美沙を凝視する。顔を赤らめ、何かの重みに耐えているような顔をしていた。

 ざわざわと囁き声が聞こえる。私は周囲を睨みつけた。皆、そそくさと立ち去っていく。それを見届けてから、美沙に声を掛けた。


「気づかなかったわ。そんなふうに思ってたのね」

「せんぱい、テンション上げすぎなんですよ。ぷにゅるりの件があったから仕方ないのかもしれないですけど……。正直引きました、ドン引きです」


 美沙は憮然とした面持ちで言った。いつものテンションを取り戻そうとしているのかもしれない。しかし、微妙に口の端をぴくつかせているのを、私は見逃さなかった。

 妹の推理が的中した。相談してよかったと思う。必要以上に動揺しないで済んだ。


「別に興奮してくれていいのに……」

「は?」


 目を丸くする。風呂に入っていたら突然半魚人が現れ、困惑しているような顔つきだった。


「私は構わないと言ったのよ。すべては私の美しさが招いたことでしょ? 私の美しさは人を狂わせるの。わかっていたことだわ」

「そういうところですよ……」


 美沙は呆れの色を滲ませた。しかし、ほっとしているようにも見える。

 これで逃げ帰った理由はわかった。

 心の霧が、すっと晴れていくのを感じた。

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