第3話

 三学期のことだ。学校からの帰り、暇を持て余して書店に立ち寄ったところ、『ぷにゅるり』という漫画の作者がサイン会を開いていた。

 作者は女性だった。絵はいわゆる萌え系だ。表紙のヒロインの目が異様に大きい。読者はおかしいと思わないのだろうか。

 そういえば、と思い返す。漫画を読まなくなったのはいつ頃だったか。たぶん、小学校低学年の頃までは読んでいたと思う。


「あの子、すげえ美人だな」

「確かに」


 平積みされた漫画を眺めていると、背後から声が聞こえた。私のことだと確信する。


「ぷにゅるりのアイデンちゃんっぽいよな」

「え、そうかな?」

「クール系だろ。おまけに黒髪だ」

「そうだけど……。アイデンちゃんの方が百倍は可愛いじゃん」


 頬が引き攣った。振り向きたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢する。もう片方の男が、そんなことないだろ、と言ってくれることに期待する。


「ま、アイデンちゃんと比べたらな。そりゃそうだろ。比べる相手が悪い」


 やれやれ、と呆れるように言った。


「いい線いってると思うけどね」

「まあな」


 我慢できず振り返った。男性二人が、さっと視線を逸らす。どちらも三十を超えていそうな見た目をしていた。

 二次元好きのおたくの感性は終わっている……。私は憮然としながらそう思った。

 何かと比較され、貶められるのは初めての経験だった。


 私は冷静さを取り戻すと、『ぷにゅるり』を手に取った。そのままレジへと向かう。確認したくなったのだ。

 家に帰って読んでみた。

 女子高生である主人公のもとに様々なヒロインが絡みにやってくる、という内容だった。セクシャルな描写が何度も挿入され、そのたびに苦笑が漏れた。低俗な漫画だと切り捨ててもよかったが、せっかく購入したのだから最後まで目を通そうとページを捲っていく。すると、次第に話に引き込まれていった。起伏の作り方が上手く、意外とサスペンスフルな内容だったからだ。

 何より特筆すべきは、ヒロインの一人であるマリンちゃんだ。いつも元気で明るく、主人公のためであればどんなことだってするその一途さ、健気さに、いつしか目が離せなくなっていた。彼女が出てくるたび、ときめきを覚えたほどだ。一巻を読み終えると、すぐさま全ての巻を購入した。マリンちゃんのその後が気になって仕方なかったからだ。


「マリンちゃん、可愛いな……」


 漫画を読みながら呟く。

 白状しよう。私はマリンちゃんを好きになっていた。

 他人に興味を持てない私が、フィクションの女の子を好きになるなんて変な話だと自分でも思う。しかし、何かを好きになるのにいちいち整合性を求め、理屈をつけることに、どれほどの意味があるだろう。トマトの苦手な人間でも、ケチャップは好きだという場合がある。そこに筋の通った理屈をつけることに意味はない。それと一緒だ。

 ちなみに買うきっかけを作ってくれたアイデンちゃんは確かに可愛かったものの、自分に刺さる要素はなかった。一番の人気キャラクターではあるらしい。

 私はマリンちゃん単推しだった。全巻読んだ後、SNSにマリンちゃん専用アカウントを作った。毎日のようにマリンちゃんについての書き込みをしている。


 現実でマリンちゃんのことを話したことはない。もちろん、これからもするつもりはなかった。なぜなら私は完璧クールな美少女として通っているので、ラブコメ百合漫画のヒロインに夢中だとばれてしまったら、失望する人間が大勢出てくることは想像に難しくないからだ。失望させておけばいいと考えたこともあるが、私自身、今の立ち位置を気に入っているので、それを易々と手放すつもりはなかった。つねにクールでありたいのだ。

 マリンちゃんへの想いを人前で晒す必要はない。他人なんてどうでもいいのだから尚更だった。


 高校二年の夏、同人誌即売会が開かれた。同人誌即売会は年二回、大きいホールを借りておこなわれる。マリンちゃんの本を買うため参加した。

 最も目当てとしていたのは『はやてマン』というサークルの出す本だった。はやてマンはSNSでマリンちゃんの絵をいくつも投稿している大手の一つだ。どの絵も魅力的で、なおかつ性癖に刺さるものが多く、私はつねづね神絵師と呼んでいた。今回はマリンちゃん単体の同人誌を出すらしく、楽しみ過ぎて胸の動悸がおさまらなかった。

 はやてマンの列に並び、自分の番が来たところで、売り子に「三部ください」と言う。そこで、はっとした。売り子が春浪女学園の制服を着ていたからだ。


「かしこまりましたー」


 私と同い年くらいの少女が営業スマイルを浮かべて手を動かす。私は少女を、じっと凝視した。

 知人に会った時のために軽い変装はしていた。髪型をポニーテールにして伊達メガネをかけている。

 少女がにっこりとした笑みを浮かべ、「ちょっと待っていてくださいね~」とメモに何かを書いた。それから、おつりと一緒に紙を渡してくる。同人誌を受け取り、その場から立ち去ろうとしたところで、


「連絡くださいね、姫子せんぱい」


 そう囁かれた。

 無心で歩く。しばらくしてから、気づかれた、と呟いた。頭を抱えたくなる。

 なぜ春浪女学園の生徒が売り子をしているんだ……。そんな偶然があっていいのか。

 紙を見る。電話番号と時刻のほかにある事が書かれてあった。

 同人誌を回収して周ったあと、時間になったので電話を掛けてみた。


「外に公園があるじゃないですか。時計台のところでお会いしましょう」


 一方的に電話を切られる。

 時計台の前に行くと、少女がスマホを弄りながら佇んでいた。私に気づくと、大きく手を振ってくる。私は憮然とした面持ちで彼女の前に立った。


「来てくれて嬉しいです。無視されたらどうしようかな~と」


 にこにこと微笑んでいる。制服を着崩していて、スカート丈を短くしている。ギャルっぽい。こういう輩は信用できないと思った。


「いやはやしかし、姫子せんぱいが同人誌を買いに来るとは思いもしませんでしたよ。マリンちゃん、好きなんですね」


 愉快げに言われる。

 私は溜息をこぼした。少女を睨みつける。


「何が目的?」

「え」

「私を脅すつもりでしょ」

「えー、そんなことしませんよー。心外だなぁ。わたしはただ善意の気持ちから呼び出したんですよ。紙、読まれましたよね?」


 私の顔を覗き込んでくる。


「普段から、こういうイベントにはよく来るんですか? 落ち着いてましたけど」

「どうでもいい」


 ぴしゃりと遮る。本題に切り込むことにした。


「はやてマンさんは描いてくれるの? 本当に?」

「ええ、もちろん。わたしが頼めば間違いないでしょうね。うちの姉、シスコンなんで。わたしのためなら絵の一つや二つ描いてくれますよ。せんぱいの欲望まみれのシチュエーションだって描いてくれるんじゃないですかね」

「そう……そうなのね……。ふ、ふふ……」


 つい笑みがこぼれる。少女は、うへぇ、と顔を歪めた。


「めっちゃ嬉しそうですね。どんだけエロ本好きなんだこの人」

「待ちなさい」


 思わず声が高くなった。


「私はエロが好きなのではないわ。勘違いしないで。私が好きなのはマリンちゃんよ」


 表情を引き締める。

 紙には、「せんぱいの描いてほしいものを、はやてマンが描いてくれると思うので来てください」とあった。ただ連絡先が書かれてあっただけでは私はここに来なかっただろう。同人誌を購入した証拠を押さえられたわけではないので呼び出しを無視していたはずだ。

 描いてほしいシチュエーションを募集している絵師はいる。しかし、はやてマンはそのタイプではなかった。自分の描きたいものを描き、自分の好みを貫くタイプだ。

 だから、これは千載一遇のチャンスと言えた。


「ま、タダというわけにはいきませんけどね」


 少女は、にこっと微笑んだ。

 やはりか、と心が冷めていくのを感じる。何かしら交換条件を提示されることは、前もって想像していたことだ。

 少女は人差し指を立てた。


「姫子せんぱいにしてほしいことが一つだけあります。二学期が始まってからの一カ月間、わたしと行動を共にしてほしいんです」

「……」


 訝しんで彼女を見る。少しも笑みを崩していなかった。本気か冗談か判断しかねる。


「面倒なことをやらせようとは思っていません。ただ、わたしと一緒にいてくれればそれだけでいいんです。ま、仲のいい態度くらいは取ってもらいますけどね。悪い条件じゃないと思いますけど」

「何が目的?」


 蠱惑的な笑みを浮かべる。それから、人差し指を自分の唇に当てた。


「秘密です。それでいいのであればお願いしたいんですけど」


 考える。

 今の段階で彼女の目的はわからない。しかし、私に何かしらの価値を見出していることは明らかだった。上手く彼女を誘導できれば、早い段階で欲しいものが手に入るかもしれない。何だったら、彼女を通して、はやてマンに何度もマリンちゃんの絵を要求できるかもしれない。

 逡巡は一瞬だった。


「いいわ。あなたの話に乗る」

「やった! ありがとうございます!」


 満面の笑みを浮かべてガッツポーズを取る。嬉しいな、と何度も呟いた。それを見て、また気持ちが冷めていくのを感じた。

 こういう感情表現が大きい輩は苦手だ……。


「これからよろしくお願いしますね、せんぱい!」


 微笑みかけてくる。

 これが上野美沙との出会いだった。

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