第41話 


 私は眉を顰め、中原を見つめた。

 この女は何を言っているのか……。憮然とした思いに駆られる。


「美沙との関係をやり直したいと思っているんですよ」


 中原は微笑みながら続けた。


「過去は清算してきました。だから、ようやくそれが可能になったと思うんです。陸上からも足を洗いました。けじめをつけるためです。妹の万引きも責任を取らせました。いじめっ子連中との付き合いも、もうありません。今の私に後ろ暗いところはないんですよ」


 真っさらな状態になりました、と笑う。


「また仲良くなってほしいと提案するつもりです。恋人に戻してもらうのは、まだちょっと難しそうですけどね。でもいずれ、そういう関係になりたいなと考えています」

「――何を言ってるの?」


 冷めた声が出た。

 理解不能だった。この女は、美沙の気持ちにまったく寄り添えていない。自分勝手な理論を振りかざしていた。

 家の中で害虫を見てしまった時のような不快感が全身を駆け巡る。

 私は立ち上がって言った。


「あなたはもう、美沙に関わらないで」


 中原は不思議そうな顔をした。


「あなたが美沙にしたことは到底許容できるものではない。あなたが目の前にいるだけで美沙はまた傷つくわ。だから消えてほしい」


 言葉の意味を理解したのか、真剣な表情を浮かべて頷いた。 


「言いたいことはわかりました。でも、簡単には了承できませんね。そもそも美沙がどう思っているのかまだわかっていないじゃないですか。考えを決めつけるのはよくないんじゃないですか?」

「わからない子ね……」


 中原の黒い瞳を見つめながら言う。


「私が不快だから、あなたに消えてほしいと言っているのよ。二度とその顔を見たくないの。だから今すぐ消えて」


 言葉の刃を振り下ろす。

 中原は呆気にとられた顔をした。それから、へえ、と呟く。

 笑顔で言った。


「お名前をうかがってよろしいですか?」

「渋谷姫子」

「渋谷先輩……」


 口の中で私の名前を繰り返す。脳に刻み付けているみたいだった。

 私を見つめ返しながら口を動かした。


「渋谷先輩は、美沙の裸って見たことあります?」

「ないけれど、それが何? あなたに関係ある?」

「別に。興味があって訊いてみただけです。じゃあ、キスしたことは?」


 私が何も答えないでいると、「私はありますけどねー」と笑った。


「美沙って推理小説が好きなんですよ。アントニー・バークリーというイギリス人作家が特に好きみたいです。放課後、『第二の銃声』の話題で盛り上がりました。いい思い出です。渋谷先輩は読んだことありますか? あ、ないですよね。そりゃそうか。推理小説を読むタイプには見えませんから。そもそも小説をあまり読んだことなさそう」

「何が言いたいの?」

「別に。ただの確認です」


 口角を持ち上げて言う。

 なるほど、と思う。私に攻撃を仕掛けているつもりなのだ。


「申し訳ないけれど、過去のあなた達の関係に興味はない。特にあなたの過去については心底どうでもいいと思っている。私と美沙にとって、あなたはとっくに終わっている人だから」


 中原は口を大きく開けて笑った。強気ですねぇ、と感心したように言う。

 さきほどの、しおらしくしていた女とは別人のようだった。こっちが、この女の本性なのだろう。

 トイレの方を向いてから、また私に向き直る。


「美沙に関わらないで、とさきほどおっしゃいましたよね」


 中原はにやにやとした笑みを浮かべて続けた。


「絶対に嫌です。関わり続けます。美沙が嫌がってもそうしますよ」

「さっきの謝罪は全部嘘ね」

「そりゃそうでしょ。あんなの信じるやつは救いようのない馬鹿だけです」


 馬鹿、というところを強調して言う。


「美沙が辛そうに保健室に登校していたのを見た時、私、死ぬほど興奮したんですよ。正直、濡れました。また、ああいうのが見たいんですよ」

「そう」

「大人たちに発覚したのだけは失敗でした。でも、失敗は成長のもとと言いますからね。後悔はしていません。次はもっと巧くやりますよ」

「勝手にすれば? 私達と関係のないところでなら何をしようと構わない。どうでもいいわ」

「美沙は私の玩具ですよ」


 挑むような目を向けられた。


「私が美沙の初めての殆どを奪ったんです。所有権はあなたじゃなくて、私にあると思んですよ。だから返してもらいます」


 私は冷めた目を女に向けた。そして、囁くように言った。


「美沙を傷つけたらあなたを殺すわ」


 中原は一瞬、目を見開いた。それから、へえ、と笑う。


「それは怖い……。気をつけなきゃなぁ」


 馬鹿にするように言ってから、メモ帳とペンを取り出した。何かを書きこんでいる。ページをちぎって私の方に差し出してきた。


「連絡先です」

「ゴミ箱はそっちよ」

「持っていた方がいいですよ。後悔したくなかったらね」

「……」


 少しだけ思案してから受け取り、ポケットに入れる。


「美沙とまだ話し足りてないんで、残っていたいところですけど、人を待たせているんですよ。だから、この辺で失礼させていただきますね」


 話せてよかったです、と踵を返した。軽い足取りで通路を進み、左に折れていく。

 美沙がトイレから戻ってきて首を傾げた。


「あれ、中原は?」

「帰ったわ」


 血色が戻っていた。一人で落ち着く時間を作ったのがよかったのだろう。


「中原と話しました?」

「ええ」

「大丈夫でした? 何か不快なことを言われませんでしたか?」

「言われたわ」


 はっきりと言う。美沙は目を見開き、それから申し訳なさそうにした。


「二人きりにしてすみませんでした」

「あの子が言っていたことをどう思った?」

「どうもこうもって感じですよ」


 腕を組み、口をへの字に曲げた。


「わたしには姫子せんぱいがいますからね。もうあの子は過去の人間でしかありません。話を聞く必要もなかったな、と後悔しています」


 私はベンチに腰掛け、吐息を漏らした。全身から力が抜けていくのを感じる。

 美沙が、あんな女の話を真に受け、復縁を望むなんてことは万に一つもないと思っていた。しかし、美沙の言葉を聞くまで不安な気持ちもわずかにあったのだ。


「せんぱい?」


 顔を覗き込まれる。

 私は後輩を見つめ返して訊いた。


「私のことを、どう思ってる?」

「え……」

「出会った頃の中原と今の私、どっちが好き?」


 髪を弄りながら、「急に何を言ってるんですかね……」と呟く。視線を逸らされてしまった。

 困らせている自覚はある。でも、どうしても訊きたかったのだ。

 美沙はこちらに目を向けると、頬を朱色に染めて言った。


「せんぱいの方が好きに決まっているじゃないですかっ」


 また視線を逸らされる。遅れて舌打ちが聞こえた。それから、「何を言わせるんですか、もう!」と手を振り上げ、怒った素振りを見せる。美沙なりに重たい空気を払拭させようとしているのかもしれない。

 今後、何が起きようと、この愛しい後輩を守り抜こう。

 私はそう決意した。

 

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