第20話
来て、来て、来て――。
頭の中で、姫子せんぱいの声が反響している。心のボイスレコーダーに、きっちりと録音した。
「どうしたの? 早く来て」
急かされ、恐る恐る近寄った。
良い匂いが鼻孔をくすぐる。白くて張りのある太ももに目が行った。今からわたしの頬が、あの足に触れるのだ。心臓が早鐘を打ち、背中に汗をかいた。
「し、失礼します……」
顔を近づける。勇気を振り絞り、頭を乗っけた。
あ……柔らかい。温もりを感じてどきりとする。生きているんだ、と当たり前の感想を抱いた。
体が溶けていくような感覚に囚われる。
気持ちいい。一生こうしていたい。
しかし同時に緊張もした。数秒が経ち、表情筋が死んだ。口すら動かせなくなる。ここに他人がいたら、「なんで不機嫌になってんの?」と不思議がられていただろう。
ちょっとした友達同士のスキンシップだ、大したことじゃない。心の中でそう繰り返す。すると、次第に心が落ち着いていった。
ほっと息をついたところで、突然、頭を撫でられた。
「あうっ」
変な声が出る。
優しくナデナデされた。
「手入れはしっかりしているようね。枝毛もないみたい」
「あ、あの……」
「何?」
「いえ……」
やめてください、とは言えなかった。されるがままになる。ぎゅっと目を閉じて嵐が過ぎ去るのを待った。
ふいに手が離れていく。よかったという安堵の気持ちと、もっと撫でられたかったという寂しい気持ちが同時に去来する。
次の瞬間、別の場所に温もりを感じた。
「あっ……うっ……」
耳だ。
姫子せんぱいの手が、わたしの耳を蹂躙してくる。
「へえ、こういう形をしているのね」
わたしは手を握りしめ、変な声を出さないよう努めた。口を堅く閉ざして、くすぐったさに耐える。
「はうっ」
無理だった。突然、姫子せんぱいの細い指が、わたしの耳の中に入ってきた。無反応でいられる方がどうかしている。産まれたての小鹿のように体が震えてしまった。
しばらく好き放題耳を弄りまわされた。
手が離れていき、わたしはようやく緊張を解いた。溜息をつく。
死ぬかと思った。
「美沙、こっちを向いて」
顔を上に向ける。
無表情で見下ろされた。
相変わらずの鋭利な目だ。甘酸っぱい気持ちなんて吹き飛んでしまいそうになる。
姫子せんぱいの指が、またわたしに近づいてきた。今度はどこに触るつもりなのか。あらかじめ予想しておけば、パニックにはならないだろう。身構え、指の動きを目で追う。
たぶん、頬だな。そうに違いない。よし、頬なら大丈夫だ。覚悟が決まった。
姫子せんぱいの指が、わたしの体に接触する。
唇だった。
心臓が止まりかける。
「柔らかいわね」
なぞるように触られた。
「う、あ、あぁ~」
限界だった。
わたしは強引に体を起こすと、そそくさと立ち上がった。平衡感覚が失われていて、背中から倒れそうになる。だが、ぐっと踏ん張った。
「か、帰ります!」
「え?」
「急用を思い出したんです!」
鞄を掴み、玄関まで早歩きで向かい、ドアノブに手を掛けた。振り返ると、姫子せんぱいが部屋から顔を出すところだった。
「失礼します!」
外に出る。通路を進み、エレベーターに乗り込むとボタンを押した。なかなか閉まらないので連打する。扉が閉まり、ぐんぐん下に向かって動き出す。胸に手を置き、さきほどのことを思い返して、また顔を熱くした。
心臓の激しい鼓動は収まる気配を見せなかった。たぶん、当分この状態は続くだろう。
「……なんなんだよ、もう……」
体の熱を逃すため、はーっ、と息を吐き出した。
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